荒天の邂逅 —君が望むなら—
誰にも理解されない船があるように、
誰にも語られない想いもまた、存在します。
ニューヨークは荒天だった。
摩天楼は雨に霞み、輪郭すら曖昧に溶けている。
その中で、富士崎社長一行をハリス・ブライトマンが出迎えた。
「富士崎社長、お待ちしていましたよ。お会いできて光栄です」
「ハリス社長、こちらこそ光栄ですわ」
ハリスは一歩だけ近づき、静かに続ける。
「本日は荒天のため、船をご覧いただくのは難しい。先にホテルへご案内しましょう。社長とは、以前から一度ゆっくりお話ししたいと思っておりました」
一行はそのまま車へと案内される。
雨と風は強く、視界は悪い。だが、到着したホテルは別世界のように静かで、美しかった。
白い大理石とクリスタルを基調とした内装。光は柔らかく、空間全体が整えられている。
富士崎は、わずかに目を細めた。
「まぁ、わたくしの好きなものをご存知のようですわ。」
「気に入っていただけて、何よりです。ここはうちが出資しているホテルでね、私もよく使うのですよ。」
その様子を横目で見ていた日向は、誰にも告げずロビーを離れる。
「少し、埠頭を見てきます」
短くそれだけ言い残し、外へ出た。
⸻
埠頭。
雨はまだ残っている。
係留されているブルーリッジ・サガは、濡れた船体に街の光を映しながら、静かにそこにあった。
美しい。
だが、どこか人を寄せ付けない、刺すような空気があった。
近づいたとき、背後から声がかかる。
「あんた、この船を買うのかい?」
振り返ると、ひとりのホームレスの男が立っていた。
「そうです。うちの社長が気に入ったようでね」
男は鼻で笑う。
「こいつはな、もう造船所にも見放されてる。俺たちと同じだ」
雨に濡れた手で船を指す。
「だが、俺には分かる。こいつはいい船だ」
日向はわずかに視線を上げる。
「分かるのですか」
「これでも昔は船乗りでね」
男はサガを見上げたまま続ける。
「ブルーリッジの連中は、言うことを聞かねぇって何度も蹴り飛ばしてた。そりゃあ、嫌にもなるさ」
日向は少しだけ間を置く。
「では、あなたから見て、この船の特性は?」
男は迷わず答えた。
「繊細だ。だが嵐に強い」
雨粒が甲板を叩く音だけが響く。
「長距離どころか、北太平洋でも突っ切る。だがな――」
一瞬だけ目が鋭くなる。
「こいつは人を見てる。腕がいいだけじゃ扱えねぇ」
日向は、わずかに口元を緩めた。
「よい見立てですね。見ただけでそこまで分かるとは」
男は肩をすくめる。
「長いことたくさんの船の面倒見てきたからな」
沈黙。
そして日向は言った。
「なら、この船の面倒を見ませんか」
男が目を見開く。
「……なんだと?」
「我が社には、このタイプの船がいない。理解できる人間が近くにいれば、この船も穏やかになるでしょう」
男は言葉を失う。
「だが、俺は……」
「来ていただけるなら、準備も費用もすべてこちらで持ちますよ。」
日向は名刺を差し出した。
「BMM……だと……」
「お嫌いですか」
男はゆっくり首を振る。
「いや……レジェンディアのいる会社だな」
その声には、明確な熱があった。
「あの船は元気か?」
「我が社の女王です」
男の顔が崩れる。
「そうか……」
遠くを見るように呟く。
「レジェンディアの進水式を見たんだ。虹を纏っていて、それは美しかった。忘れられるわけがない」
短い沈黙のあと、日向は言った。
「では、明日の夕方。このホテルに来てください」
男は何も言わず、ただ頷いた。
⸻
ホテルに戻ると、ハリスがちょうど出てくるところだった。
「社長。サガを一足先に見てきました。やはり美しいですね。楽しみですよ」
ハリスは軽く笑う。
「キャプテンに気に入っていただけて光栄だ。明日は実際に乗ってみるといい」
短いやり取りのあと、ハリスは去っていった。
⸻
夜。
雨は上がり、空には星が戻っていた。
街の光と混じり合いながら、かすかに瞬く。
日向は窓の外を見たまま、低く呟く。
「桜、良かったな」
ほんの一瞬だけ、声が柔らかくなる。
「君が望むものは、何だって捧げよう」
誰にも届かない声だった。
日向キャプテンの心のうちを知っているのは、
白船だけです。




