女王を見上げる夜―それは救いか錯覚か―
レジェンディアだけは、若い航海士に寄り添い続けます。
踏み込まず、ただそこにあるだけ。
船と航海士は時々大人の関係にもなります。
日向キャプテンから聞かされた過去の出来事は、リヒトの中に重く沈んでいた。
晴海埠頭の夜は静かだった。
海から吹き上げる風が、ゆっくりと公園の木々を揺らしている。
遠くでは港の灯りが滲み、海面に細く伸びていた。
足元の砂利が、靴の下で乾いた音を立てる。
その一歩一歩が、妙に重い。
DMC出身である自分。
レジェンディアに惚れ込んで移籍したはずなのに――
ここにいるべきではない。
そんな感覚だけが、拭えずに残っている。
答えは出ない。
考えれば考えるほど、何かを見失っていく気がした。
ふと、足が止まる。
そこには、満月の光を浴びたレジェンディアが、海の上に静かに浮かんでいた。
瑠璃色の船体は、月光を受けて輪郭を際立たせ、
まるで現実から切り離された存在のように見える。
「お前に惚れたのが間違いだったのか……」
声は小さく、夜に溶けた。
レジェンディアは何も答えない。
ただ、そこに静かに佇むだけだ。
風が、強くなる。
その流れの中で、気配が混じった。
少し離れた場所で、同じように海を見ている女がいた。
黒い髪が風に揺れ、細い首筋が月明かりに浮かび上がる。
横顔はどこか憂いを帯びていて、視線は船から外れない。
リヒトは、自然と声をかけていた。
「船がお好きなのですか」
女は振り向きもせず短く答えた。
「えぇ」
わずかに目を伏せる。
風に乗って、かすかに甘い香りが漂う。
「船は裏切らないし、人を傷つけることもないから」
その声は静かで、感情を抑えている。
リヒトはわずかに目を細めた。
船の話ではない。
そういう言葉だった。
沈黙が落ちた。
波の音が、遠くで繰り返されている。
それでも、不思議と居心地は悪くなかった。
互いに踏み込まない距離が、ちょうどいい。
やがて女が口を開く。
「ごきげんよう。また月夜にお会いしましょう」
それだけを残し、踵を返す。
ヒールが石畳を打つ音が、規則正しく響く。
風が、一段強く吹き抜けた。
リヒトは思わず顔を上げるが、
そこにはもう、誰もいなかった。
残っているのは、風と、月光と、海の匂いだけ。
「……まるでクリスタニアだな」
リヒトは欄干にもたれ、レジェンディアを見上げた。
「船は誰も傷つけない……か。そうであれば良かったのにな…。」
遠くでどこかの船の汽笛が鳴った。
低く、長く、胸の奥に残る音だった。
リヒトはそっと顔を覆う。
どうすればいいのか。
やり場のない様々な思いがいくつも駆け巡っていく。
月が高く昇っても、レジェンディアだけは静かに航海士の苦悩に寄り添った。
船は何も語りません。
ただそこに在り、
見上げる者にそれぞれの答えを委ねるだけです。
彼女の言葉が真実なのか、
それとも願いなのか。
そして、あの出会いが偶然だったのかどうかも――
まだ、誰にも分かりません。




