第七話:血に飢えた獣
できることならば、第六話を読んだあと、続けてご覧下さい。さらに言えば、第一話から続けて呼んでくださると、面白さも倍増するのではないでしょうか?
血の気のない肌、ぼさぼさの髪、ただまっすぐに悠馬を眺める男がそこに立っている。さなえが作る重力の結界にも、全身を変貌させ異形な生物となった辰雄を前にしてもなお、この男は悠馬と散歩を再開できる機会をうかがっているのだろうか。
辰雄は取り出した右手の試験管を破壊、またも液体を肌から吸収する。今度の液は赤い。血液のような鮮やかな赤い液体が、体内へ入り込んでいった。どんな効果があるのか、辰雄の顔に笑みが広がる。
逃げられない悠馬、背後にはさなえの作る重圧の壁が控えている。
懐から取り出した注射器を、和雄は何も言わずに打った。参戦する気だろう、ナイフはすでに磨いである。
何を考えているのか、悠馬はこの状況であっても、のほほんとした表情を変えずに、のんびりと構えていた。ちらり、と背後の男を振り返るのは、彼もまた散歩を再開したいと思っているのだろうか。
「今日は自衛隊が相手だと思っていたから、これしか持っていないけど、攻撃する気がない君を捕まえるのは簡単だ」
「君らが攻撃してくるんなら、僕も動く」
悠馬の影は、地上で沈黙を守っている。だからといって安心はできない、そのスピードならば、いつどんなときに姿を変えて刃を向けるとも限らないのだ。裏世界を少しなりとも知っている辰雄は、悠馬から目を離すまいと視界から離さずにいる。
だから気づけなかったのかもしれない、もう一人の存在に。浦城一族は、悠馬を意識しすぎていた、悠馬に視点を置きすぎだ。
赤い液体を吸収した辰雄の体に、変化が起きていた。その変化を視界の隅で眺めながら、正面から切り込んできた和雄のナイフをかわす。
腕が一本増えた。腹から、異様に長い腕が辰雄の腹から飛び出してきた。液体を吸収する前の辰雄は病弱な青年に見えるが、今の辰雄は筋肉質の塊だ。ギャップの激しさに、兄は愉快気だった。
「あれは辰雄のオリジナルだ。親父の真似して化学実験をやっててな。変わった弟さ。けど、それが今、役に立つ」
「君のも弟君が?」
「いや。これは親父が作ってたもんだ。母さんの力も親父に実験台にされて植え付けられたもんさ」
「ほお」
「母さんはひどいぞ、ちょっと怒っただけで内臓がつぶされちまう」
「何だか、君ら三人のうち、君だけ人間らしく見えるよ」
「お、同情してくれるか?」
「するする」
「だよな。俺もどうせなら、空飛ぶくらいの武器があれば同等に見えるんだけどな。今のままじゃ、下っ端みたいだ」
考え方は立派に常人ではなく、化け物扱いされてもおかしくないだろう。薬で素早さをあげているが、弟が人間ではない姿になっているが、母親が人間外の力をもっているが、すべてを受け入れて、なおかつ力を求めて殺戮を繰り返すとは、人間としての正常な判断能力を失っている。失っているが、ただの狂人ではすまない。死んだ父親の死体が野晒しになっていないことを祈ろう。
シュッと横を通り過ぎるナイフの刃先に、悠馬は身をかがめた。
「避けてばっかだな。そのうち、辰雄の変身も終わるんだ。そんときにゃ、おまえも死ぬ。もう少し俺を楽しませてくれないか?あんた、強いんだろ?」
「血は見たくないんだ」
「はン!ふざけんじゃねえよ、おめえは何度も死体を拝んでんじゃねえのか?それも全部、おまえが手を下したもんだろう?なあ、俺にも見せてくれよ、その影の技」
「さっき見ただろう?あれが何人もの命を奪った技さ」
「ほう、否定しねえのか?自分は人殺しじゃないって」
「好んで殺すわけじゃないさ。正当防衛だよ」
和雄のナイフ捌きは彼自身が学んだ術だろう。薬もなし、実験もなしの彼自身の力。身のこなしとナイフの握りは、何十年も殺し屋を殺ってきたやつらにも匹敵する。鋭い刃先は常に悠馬の急所を狙い、ついてくるのだ。心臓を直接狙うのではなく、首、目、手や足など、攻撃が通れば、確実に相手の動きを止められそうな場所を狙ってくる。まずは相手の動きを止める、それでからじわじわと。
ナイフを握る和雄の表情は、実に楽しそうである。
まったく、とんだ殺人家族もあったものだ。
「正当防衛か。そんな気がするな、あんたが仕掛けるんじゃない。あんたの強さが勝手に周りの連中をひきつけるだけだろう。戦いたい、勝ちたい、ただそれだけで勝負を挑まれたこともあったんじゃないのかい?」
「君の知らない世界は、そういう世界だよ」
「へえ、四六時中ケンカしたい放題ってか」
「血の気の多いやつらばかりさ」
「そんなやつらが、この街の地下にな。見たことない、どう行ったんだろうな、あいつは」
ふと和雄の目が細められた。弟を思う兄らしい表情を見せたのだが、悠馬の表情は変わらず、何も返事を返さなかった。
「和雄!何をしゃべっているの!私より長くその男と話してんじゃないわよ!」
「うるせえなっ!横から邪魔するんじゃねえよ!」
「邪魔?どうせ当たらないんじゃないの、そのナイフ。あんた、引きなさい。辰雄の番よ」
腹から生えた腕は五本に増加している。おぞましい光景であり、気持ち悪い光景だ。黒ずんだ人間から腕は計七本、もはや人間ではない。
「紫影」
「ん?」
「チップを出せ」
「断る」
「あのチップをださねえと、おめえは殺されるぞ」
「心配してくれてるわけ?」
「……チップに関心寄せてるのは俺たちや自衛隊だけじゃねえんだ。今のうちに戦線離脱したほうがいい」
「世界征服をたくらむ男のセリフとはとても思えないね」
「ふん。おめえの死体が見たくないだけだ。おめえは世界の覇者となった俺の世話係だ」
「おい、こら」
むっと膨れた悠馬も、さすがにこれには怒ったらしく伸びてきた和雄の腕を交わしつつ、肘を下から叩いてナイフを落とさせると、足を薙いで和雄の体を倒そうとする――が、そこまではうまくいかない。悠馬の蹴りは和雄の図体には響かず、無力なばかりか逆に足首つかまれてしまう。
咄嗟に和雄の落としたナイフを掴んだが、それは何の脅しにもならない。和雄はまだナイフを倍以上持ち合わせている。
「ポケットか?」
ぶらんと悠馬を逆さに持ち上げ、和雄はぶんぶんと振り回したが、チップは出てこない。さなえは何しているの、と飽きれているし、辰雄は自分が場所を吐かせると意気込んでいる。それにかまわず、和雄はチップを探したが、どこを探しても出てこない。
「無いぞ、どこに隠した?」
「だから、言えないってば」
「兄さん、僕がやる」
「同じだ。おまえがやっても、俺がやっても、こいつは持ってねえ」
「ならどこに隠したのか吐かせてみせる」
「はかないだろうぜ、この男は」
「そうとも」
ナイフを一振り、和雄の手を切りつけようと――避けられたが――大きく振りかぶり、うまく手が離れるとぴょんっと飛び降り、地上に足がつくと同時に悠馬は疾駆する。向かう先は結界を作っているさなえ、彼女を攻撃すれば結界が壊れるはず。
だが、さなえの頬には微笑が浮かんでいる。ナイフを持っているとはいえ、向かってくる相手が悠馬だからという理由からではない。悠馬とさなえの間があと十メートルとなったとき、眼前に大きな壁が降って来た。
同時に前傾姿勢を後方へ倒し、後ろに倒れる体を丸め、片腕をバネにして支え、体を伸ばしながら大地を思いっきり押す。飛び跳ねるように後ろに回転した悠馬は、軽く着地すると、影を前方に広げて降りてきた影を捉えようとする。
「その速さは遅い」
悠馬の影に捕らえられるより早く、走り出したのは辰雄だった。アスファルトの地面に向けて拳を突き出す。大地震があったかのごとく、立っていられぬほどの揺れと盛りかえった道が壁となった。悠馬の影がその壁により前に進めず、さなえを完全に壁の向こうに隠してしまった。
停止した影を捉えようと幾本もの腕が頭上より伸ばされる。自分で作った壁を飛び越え、一瞬動きを止めた悠馬の肩を掴んだ。巨体となった辰雄の体重を華奢な悠馬の体が支えられるはずも無く、悠馬は背中から思いっきり押し倒される。
ようやく悠馬の顔に苦渋の面が浮かんだ。
それを喜んだのか、辰雄は雄たけびのような歓声を上げる。
「あの紫影悠馬だ、死神を殺すのはこの僕だ!」
「待て、辰雄!チップを――」
「わかっているよ、けどその前に、手足が動かないようにしておかないと――」
「こういうことになる」
ナイフを握る手に力をこめた悠馬が辰雄の手の甲に思いっきり、突き立てた。赤い液体のおかげか、皮膚は強化され、ナイフの刃ははじかれた。
再び辰雄の哄笑が響く。
「なんだ?何がしたいんだよ、紫影悠馬?」
「今にわかる」
悠馬の口が笑みに形どられると、辰雄の体は軽がると宙に持ち上がった。悠馬を捕らえるために動きを止めた辰雄の影を捉え、その影を使って辰雄の体を吹き飛ばしたとは、にわかに信じられないが、和雄はかすかに黒い悠馬の影が地上に盛り上がり、辰雄の影を投げ捨てたのをみた。幻ではない、確かに影は地上を這うという常識の殻を破り、地上に浮き出た――ようにみえたのだが、こうして見るとやはり、信じられない。今の影は、悠馬の足元でおとなしくしている。
低く攻撃態勢を保ったままの辰雄は、悠馬につけられた傷に目をやった。あれだけ勢いよく刺したように見えたのだが、深い傷にはならず、痛覚すら感じない掠り傷程度のものにとどまった。じんわりと滲むだけの血をぺろりと舐めとり、それだけだ。
「今ので僕に“影踏み”することもできたんじゃないのか?」
「まあね」
「余裕だなあ。ほかに何か僕に勝てる策があるというのかい」
「さて」
「あるだろう。君なら、いくらでもありそうだ。実を言うと、戦っているけど勝てる気がしないよ。今の僕は緑と赤の強化剤しか持っていなかったからね」
「残念だね。持ってくる暇無くて」
「暇が無いって?全然攻めてこない君を前に、暇を持て余してて困っているところなのに」
「攻めるのは僕じゃない」
伏せた悠馬の視線は、辰雄を離れ、和雄に注がれた――否、和雄ではなく、その向こうにたたずむ男に向けられた。さなえには何も見えなかっただろうが、和雄と辰雄の両名には見えたはずだ。
両手をつき、獣のような低い体勢とうなり声で威嚇する男を。ぼさぼさの髪を逆立った毛のように怒らせ、獲物を見つけた肉食獣の目と同じく眼光を鋭く光らせる。
狙いは――辰雄の手。
駆けた。
目の前を通り過ぎたと認識したとき、和雄の周囲は嵐のような風が吹き荒れる。足がすくわれそうになり、踏ん張るのがやっとだった。
「っく……」
腕をクロスさせて顔面を防御するが、鋭い風の刃が和雄の皮膚を叩く。耳に届く音は轟音、目を開くことはできても、顔を向けることはできなかった。辰雄と、さなえと、そして悠馬に何が起こるのか。
激しくのたうつ風はさなえを守っていた壁を脆くも破壊し、隠れていたさなえをさらけだす。それだけではすまない。重力を操る力を持っていたとしても、その標的がわからなければ、重力をどの位置に落とせばいいのかわからなければ、抵抗力の無いさなえはなすがまま、風に吹き飛ばされる。
「何だ、この獣は!?」
いつ、母親さなえの作った結果内に入ってきていたのか、辰雄は気づいていなかった。無論、悠馬を強敵としてほかに注意が散漫していたせいもあるが、何よりも、この獣と貸した人間の気配が皆無に等しかったがためだろう。
辰雄は腕を振るって獣を捕らえようとしたが、獣の動きは辰雄の強化された素早さよりも速い。桁外れだ。辰雄の腕が交差して風を掴む頃には、牙をむいた獣が背中で笑っていた。
血。
それが彼を刺激する要素だと、獣に変じさせる方法だと、知る者は誰か。
この街には人間の知らないところで様々な生き物が、人間同様に暮らしている。共存ともいえるのか。街の地下にある妖魔帝国もそうだが、この街にも何名かの妖魔が遊びにくることがあり、探してみると不思議な生き物が蔓延っている。ランドセルを背負った老婆も、十字架の効かない吸血鬼のうわさも、死んでなお死を求めるソープ嬢なども、この街に住むものならば知るべきだろう。
この街は、ただの街ではない。
妖魔と人間、多くの場合、妖魔は人間と同じ空気を吸っているというのに、妖魔だと気づかれない。奇抜な服装をする若者、タバコや酒、麻薬にまで手を出して、正常だと思われていた人間の世界をまったく別の新世界へと変えてしまおうとする彼らは、それまでの常識を覆し、新たな常識を着実に作りつつある。葉っぱの売り渡しで八十を超えた老人が丸儲けした話もある。
電子機械の発達に伴い、これまでの人間的思考を保ってきた者たちを追い出そうと、静かな攻撃が開始されていた。株の変動を操作するも易し、コンピューターウィルスによって殺人予告を世界へ発信されたこともある。
立ち並ぶビルやマンションなどのコンクリートの建物にはいつでも、その号令が下ってもいいようにささやかな爆弾が仕掛けられ、眼球ひとつで特定の相手の脳に話しかけれるようミクロサイズの受送電信機が開発されたり、顔面を彩って自らを偽り欲望を満たすために手当たりしだいにピンクホテルへと寄り添って歩いていたり、現代社会は大きく揺れ動きつつあるのだ。
今述べた例は、社会人だけではない。二十歳を超えていないもの、十代のものもいるが、幼稚園生だって一大企業を起こした噂もあり、その企業は中国マフィアとつながっていて、などと考えられない話に進み、実はその社長は妖魔だという結論にまで達している。
妖魔。彼らこそ、この街の新たな住人であるかもしれない。
獣に変じた彼もまた、新たなる住人の一人と認識できる。
のんびりと散歩していたが、獣と変じた彼は、散歩よりも食事を欲している。散歩は終わりだ。
これからは、狩りの時間。
微量とはいえ、独特の血臭を嗅ぐと体内の血流が勢いづき、細胞が活性化される。本能に近いものが彼を獣の姿に変貌させ、血を求めさせる。餌を見つけた獣そのものだ。ただの獣ではない証拠に、彼が通った後は凄まじい風が巻き起こる。これは脚力の発達が妖魔ならではのスピードを実現させているのに他ならない。人間たちは突風が来たのか、と顔を青くするが、その程度で済めばいいほうだ。その風のせいで死んだものもいるのだから。
事実、筋肉強化した和雄はそこに立っているのがやっとであり、さなえは風によって五十メートルも吹き飛ばされ気絶している。相当、この獣が血に飢えていると見える。
人間の姿を捨てた辰雄に、風の妖魔は抑えることができるのか。
「し……紫影悠馬!!」
背中に打ち込まれた牙は、痛覚を狂わせた。血潮が飛び散る。何度も何度も牙を剥き、背中につめを立てて、いくら振り払っても獣は辰雄の肉を引きちぎろうと狙ってくる。強化したはずの辰雄の皮膚でなければ、脊髄を噛み砕かれ、首と胴を引き離されていただろう。この獣を野放しにしておくとは、なんと危険な街か。
「紫影悠馬!!」
名を呼ぶ。だが、返事はない、いつのまにか、姿さえ消えている。さなえが吹き飛ばされたとき、結界も消えていたのだ。悠馬はさっさと退場した。
そうと知った辰雄は目をぎらぎらと輝かせ、背中に張り付いた獣を自分の肉ごと引き剥がし、地面に叩きつける。
目玉をくりぬき、右足、左足と骨ごと断ってもなお前足で飛びかかろうとしていた。執念深い、それだけに恐ろしい。牙から滴る血は、辰雄のものであった。更なる興奮が獣に痛覚を感じさせなくさせ、その生尽きるまで、得物に飛びついていくだろう。
だが、辰雄も化け物だ。
「逃がさない……紫影悠馬あああ!!」
ガッと口を開いて跳んだ獣の顔面を、両手のひらでバチンっと潰す。頭蓋骨の抵抗もなく、獣の頭部は風船のごとく、簡単にピンク色の肉片を飛ばして吹き飛んでいった。ぐにゃぐにゃとした脳の一部が辰雄の手についていたが、軽く払っただけで辰雄から離れていった。
風もやんでいる。
兄の和雄の姿が近づいてきたが、それよりも弟の辰雄が見ていたものは、どこか遠くに消えた美影身であった。




