第六話:知る者
人通りの少ない裏道を抜け、悠馬は一人、歩いていた。悠馬の影に操られていた自衛隊や、それに担がれた雄一郎や理沙は一緒ではない。
一人である。
とぼとぼと、昼寝帰りの散歩でもしているかのようであった。
その後ろからそっと歩み寄り、悠馬の速度にあわせて前進する男がいる。あきらかに悠馬を尾行している彼の存在に、悠馬も気づいている。だが、相手にしない。相手にすれば、厄介なことが始まるとわかっているのだろう。
奇妙な散歩が続く。
突如、うららかな平和が壊され、悠馬へ向けて冷気が降り注がれた。大きく後退した悠馬の視線の先で、立っていた場所の電柱がくの字に曲げられているのと、その周囲のアスファルトやコンクリートの塀が無惨に崩れ落ちているのを黙認できる。
片瀬邸を破壊したよりも規模は小さいが、同じやり方である。見えない重圧に押しつぶされたような痛々しい光景が残った。
「見つけたわよ、紫影悠馬」
背筋が凍りそうな冷たい声が正面からまっすぐに当たった。太腿がむき出された真赤なスーツを着ている。膨らんだ胸は、第三ボタンまで外されたシャツの向こうで、悩ましげに揺れていた。男なら触れてみたいと思うのが当然であるが、悠馬は登場した美女を正面から見据え、かきあげられた長髪から覗かれた両眼と挨拶を交わす。
美女の真紅の口元が持ち上げられる。
「和雄が言っていたよりもずっと美男子ね、あなた」
和雄。その名が出てくるということは。
「私は浦城さなえ。和雄の母よ」
「どうも」
二十歳を越えているであろう和雄の母親にしては、若すぎる。それに、美しい。和雄のガールフレンドだと言っても通じる。母親もまた、何らかの研究が生んだ結果により若さを保ち続ける方法を手にしているのかもしれない。
だが、若々しい肌を保持するさなえが見惚れてしまうほど、悠馬は美しかった。片手を自分の豊満な胸にもっていき、勝手に揉み出したが、それはさなえ自身の意志ではなく、無意識だった。ふう、とため息ついて手をはなすと、さなえの瞳はらんと輝く。
「強敵の出現ね」
「まだ何もしてないけど」
そのとおりである。まだ、視線をかわしただけ。
「年上の女を相手にしてみない?サービスするわよ」
「何のことやら」
「私をちゃんと見なさい。ほら、いかが?」
「用がないなら、帰ってもいいかな」
「ダメなのね。あなたほどの男の前では、どんな美女も色褪せてしまう」
くるりと踵を返し、すでにさなえとは反対の方向へ歩き出した悠馬に、さなえの悩ましいため息は届かなかった。
「待ちなさい」
見えざる壁が、振り下りてきた。あと一歩先に進んでいたら、悠馬は地球の倍の重力で地面に潰されていただろう。
「用件はわかっているのでしょう?出しなさい」
「何を?」
「もちろん、片瀬雄一郎が開発したプログラムチップよ」
「そんなもの知らないよ」
「とぼけるのがお上手ね。いえ、もとからそういう顔なのかしら」
「失敬な」
「でも、あなたが持っているのは知っているの。どこへ隠したの?隠し場所だけでも教えてもらえないかしら」
「ノーコメント」
「無駄だよ、母さん。そいつは仕事を受けた以上、絶対に隠したものを渡さないし、隠した場所だって教えないさ」
新たな声は、悠馬の隣からであった。壁によしかかっていた身体を起こし、ゆっくりと悠馬に近づき、距離をあけて止まる。その先に進めば、悠馬の黒い影を踏むところであった。その影が自ら動き、人間の動きを支配してしまう魔影であることを、その男は知っているようである。ギラギラと輝く彼の瞳は、悠馬の影とそれから悠馬自身に、大変興味があり、ここで出会った喜びを祝っている。
奇妙な散歩の付添い人――ではない、付添い人はまだ悠馬の背後で、再び歩き出すのを待っている。
「辰雄。母さんが先よ」
「別に手は出さないさ。好きにしなよ、どうせ勝敗は見えてるから」
「母さんが負けると言いたいのかしら?」
「そのとおりさ。負けるよ、母さんは」
「……辰雄、あなた、何か知っているようね」
「母さんや兄さんが知らないだけさ」
辰雄は悠馬から視線を外さず、どんな些細な動きも見逃さないようにしている。悠馬はジッとそこに立ったまま。
何か二人の間に入り込めない雰囲気が生まれ、さなえは激しく嫉妬した。
「辰雄、母さんにもわかるように説明しなさい。そこの色男が何者なのか、あなたの好きなSFとどう関わっているのかね」
「フィクションなんかじゃないってことさ、母さん。それに、兄さんも」
「お、バレてたか」
ひょいっと破壊された壁の向こうから、姿を現したのは、和雄である。家族に連絡を取ったあと、また悠馬のあとを追いかけていた。母親と弟も、集合していたとは思わなかったが、片瀬の家を見張っていれば、当然の結果である。
「母さん、片瀬の家まで壊すことなかったんじゃないか?」
アレは母親の仕業であると、いま、はっきりとわかった。さなえはあれだけの豪邸を押しつぶした偉業を自慢するかのように、妖艶にほくそ笑む。
「私たちの家庭は、あの男によって壊されたのよ?いいじゃない、家くらい。邪魔な自衛隊も始末できたし、一石二鳥というものよ」
「そんなもんかねえ」
「そんなものよ」
でも、とさなえは冷たい眼差しを悠馬に落とし、顔にかかった髪をかきあげる。
「あなたも一緒に押しつぶすはずだったのよ、紫影悠馬。まさか、私の重力を操る力が気づかれていたとは思わなかったわ」
玄関に大きな殺気を感知し、異常な力が豪邸を包みつつあると察知し、裏口を使って外へ逃げ出した悠馬。豪邸をつぶしたあと、悠馬や雄一郎がいないのに気づいたさなえは、周囲を探り、悠馬がこの裏路地へと抜け出たのを知り、追跡を開始した。
「和雄から油断するなといわれたけど、油断してしまったようね。重力を倍化させる位置が、まるでわかっているんですものね」
だから、今、悠馬の足は止まっているのである。さなえの作った重力の障壁は、悠馬の目の前にそびえ立っていた。
「筋肉強化した俺のスピードにもついてきたぜ、こいつは」
「たまたまだよ」
「魅力的だわ。強い男って好きよ?紳士的で。でもね、我慢しなくていいのよ?私の体に興味がないなんて、言わないでしょ?」
「年増のババアが厚化粧したって、わざわざそんな短いスカートにしたって、興味あるなんて言わないと思うが」
「……和雄、それはこの男がどんな美女を前にしても手を出さない、とそういっているのよね?」
「そうとも。母さんが自分の年も考えないで馬鹿なことしてる、なんて思ってないさ」
にっこりと微笑むこの母と子、どちらにも猛毒が乗ったトゲが覆い隠されている。
「……ますます確信をもてたよ、母さん、兄さん。紫影悠馬の強さは人間離れしてるってことがね」
毒の盛られた刺以上の武器を隠し持っているような奇妙な笑みを浮かべながら、弟は悠馬を眺めていた。片時も目を離さない。まるで監視しているかのようだった。
「人間離れしてるのはわかってるぜ。俺は闘ったんだからよ」
「ならわかるよね、兄さん。こいつが影を使う死神だってことが」
「影?」
「教えたじゃないか」
クスクスと自分だけ知っているという優越感にひたりながら、得意げに語りだされる知識は、人間である辰雄の知るかぎり、人間でないものにとっては当たり前の常識であった。母親のさなえも、兄の和雄も、確かに辰雄から話を聞いている。聞いてはいるが、人間離れした常識を知悉するにはまだまだ、時間が必要だ。
「この街の地下に妖魔たちの巣くう世界があるなんて、普通の人間なら知らないさ」
「なんでおめえは知ってるんだよ」
「知ったんだよ。ある日、突然ね。そのとき、“隠し屋”の話も聞いたのさ」
「隠し屋?」
「そういう職業さ。それが君の仕事だろう?紫影悠馬」
「まあね」
悠馬は笑っているようだった。声は出さず口元に乗せた笑みだけであるが、十分に辰雄を愉快な気分にさせた。
「その隠し屋を名乗る者たちの中でも、凄腕のやつがいる。そいつが仕事の依頼を受け、隠したものは、二度とこの世に出てくることはない」
「隠し屋となったなら、そうするのが普通だ」
「だけど、結局は銃で脅されたり、金や地位で強請られたりして、隠し場所を売ったやつもいる」
「隠し屋失格だね」
「君は違うんだろう、悠馬。君は最高最強の隠し屋だ」
「いやあ、それほどでも」
かなり嬉しそうに微笑む悠馬を見ていた浦城一家は、自分の胸の鼓動が異様に高鳴っているのを聞いた。止めようがなかった。
鼓動が静まるのを待って、辰雄はまた話し出す。
「死の影を操る男がいると、彼こそが実力ナンバーワンの隠し屋だと噂がある。死の影を操る、だから名前は死影。本当は紫に影で、紫影。紫影悠馬だ」
「変な覚え方しないでもらえる?」
「噂だと言っただろう。僕が言い出したんじゃない」
「その噂、消して欲しいなあ」
「裏世界じゃ根付いているから、もう無理だろう。けど、噂なんて曖昧だからね。僕はいま、君に会ってこの噂の断片をつなぐことができたけど、本来なら、凄い隠し屋がいる、死の影を操る男がいる、紫影悠馬の名に気をつけろ、とか別々のものだから」
辰雄はそれらを、なぜ悠馬と結びつけたのだろうか。いくらでも強力な妖魔や人間の噂がある。なのに、なぜすべてを悠馬に結びつけたのか。和雄の話でその人外の力を知った、だが、影の力までは知らなかったはず。
なぜ。
答えは足元に広がっていた。
翼を広げた黒い魔鳥は、辰雄、和雄、さなえの三名の影をしっかりと捉えていた。気づいたときにはもう遅し、さなえの美貌はしわでゆがみ、和雄は足を動かそうと暴れているが腕が振られているだけだった。
ひとたびその影に捕まってしまえば、影だけではなく、本体をも自由を奪われてしまう。だというのに、辰雄はにやりと口元をゆがませた。
「これが“影踏み”なのか」
「そう、影踏み」
「相手の影を踏むことで、相手そのものを操ってしまうわざ。捕らえられたものは、抜け出すことができない」
「わざわざ説明どうも」
「待てよ、辰雄。それなら、俺たちはこのまま、逃げられないってことか!?」
「そうなるね」
「おいおい」
身体を捻ろうにも、指を折り曲げることさえできなくなった。眼球を動かすこと、会話と呼吸をすることのみが許されている。しかし、もし、悠馬が影に何らかの力を加え、それらも彼らから奪ってしまえば、残された未来は、死。死を簡単に与えることが出来る影、死影と呼ばれる由縁なのかも知れない。
ところがその影が、すっと身を引いたのを和雄は驚きの目で見ていた。さなえは声も出せない。
人間以外の力が働く裏世界を知った辰雄だけが、微笑を浮かべることができる。
「やはりね。君には僕らを殺せないことがわかっていたよ」
「殺す理由がない」
「俺たちは、おまえを殺すかも知れねえってのにか?お優しいこったな」
「素敵な男。私、再婚を考えようかしら」
「よしてくれ。こんな優男」
「僕も反対だよ、母さん。こんな恐ろしい男」
ぎらついた瞳を伏せ、辰雄は両手をポケットに入れた。ふて腐れたようにも見えるこの行為を和雄はじっと見ていた。さなえは、妖艶に微笑む。
悠馬はチラリ、と背後を見た。先ほどと変わらず、一定の距離を保って、尾行していた男がそこに立っている。沈黙を守ったまま、悠馬を凝視する。
「チップを渡してくれないか、悠馬」
「断る。隠し屋のことを知っているなら、僕の返事もわかるだろう」
「交渉決裂か、でも闘いたくないな」
「闘わなくていいよ。このまま、別れよう」
「そうも行かない」
辰雄の左手が飛び出すと同時、その手には緑色に発光する液体が充満する試験管が握られていた。見るからに嫌な予感の漂うそれを、辰雄は思いっきり地面へたたきつける。
液体が散った。
散った液体が辰雄の体にこびりつき、そこから体内へと吸収される。液体の異臭が鼻をつき、悠馬の眉がひそめられる。それでも目を背けられなかったのは、急速に変貌して行く辰雄が、危険因子であると認識したからに他ならない。
和雄とさなえは、悠馬から離れ、その光景を見守っている。手をだそうとはしなかった。
「左を出したか。右でもいいと思うがね、俺は」
「ひどいわ、辰雄。母さんが先に遊びたかったのに」
二人とも声が笑っている。緑色の液体を吸収した辰雄がやろうとしていることが、楽しいらしかった。それで悠馬を倒せると思っているようだ。
左右の腕、血管が浮かび上がるほどの筋肉が盛り上がる。肌の色も黒く変色し、服が千切れ飛ぶ。破裂しそうなそれをブンッと振るだけで、空気が唸り、風が生まれた。
すぐに両足も筋肉が膨れ、辰雄は一回り大きくなった。軽くジャンプしただけで、十メートルを跳ぶ。兄の和雄と同じく、筋肉強化剤を飲んだとでも言うのか。
筋肉の発達により、スピードを増すのは兄の薬。
では、弟は。
瞬きした瞬間に、辰雄は悠馬の背後へとまわっている。豪速球のパンチを繰り出すが、空振りした。
「避けた」
「まだまだ」
さらに逃げた悠馬を追いかけ、拳を振るう辰雄のスピードは、和雄と互角、それ以上のものである。スピードだけではない、攻撃力すら上げてしまうのが辰雄の持っていた薬だ。さらに。
銃声が鳴り響いた。いつの間にか悠馬の手に握られていた銃は、自衛隊から盗んでおいたサブマシンガンであった。
けれど悠馬は、すぐにそれを捨てた。役に立たないとわかったからである。
辰雄の薬は筋肉強化、極限まで固くなった筋肉は、銃弾を跳ね返す。おそらくは剣で立ち向かっても、剣の方が折れてしまう。
降って来た拳を避けるため、悠馬は跳んだ。
「さて、どうしようか」
「影に捉えられないスピードがあれば、安心。さっき放したのが命取りってやつさ」
「また捕まえればいい」
「捕まえられるわけがない」
「そうかな」
「ところで、さっきの銃について聞いてもいいかい?」
横から伸びてきた蹴りに跳び乗り、それを踏み台にして塀へ上った悠馬は、不思議そうに顔を上げる。第二撃を加えるために飛び跳ねた辰雄が、目の前にいた。
「おっと」
「あの銃をどこに持っていた」
「おや?」
破壊された塀を飛び越え、悠馬は再び地上へと戻ってきた。着地点を狙って攻撃を加えることも可能であったろうが、両足そろえて立っていても、辰雄は攻撃しなくなった。
よほど銃をどこから取り出したのかが気になると見える。
死闘を見守るさなえと和雄も、悠馬が銃を取り出した瞬間を見逃している。
「いつ出した、いや、何処に隠し持っていたのか」
「影踏みは噂になっていても、これは知らないんだなあ」
「言っただろう?断片的な噂しかないって、それを僕は自分なりにつなげただけだから。知らないうわさをつなぎ合わせることは出来ない」
「知らないなら知らないって言いなよ」
「銃をどこに持っていた?」
次に笑ったのは、悠馬だった。ムッと顔をしかめた辰雄とは違い、たとえ攻撃の隙が見出せなくとも、まるで悠馬が優位に立っているようである。
「自衛隊からもらったんだよ」
「銃の持ち主を聞いたんじゃない。自衛隊からもらったその銃、闘う前は持っていなかったのに、なぜ今はそこにある?」
投げ捨てた銃は、そこに転がったままであった。
そっと辰雄の手が右ポケットに進み、新たな武器を取り出そうとしている。そこに何があるのか、和雄やさなえは知っている。知っているからこそ、笑っていられるのだ。
だが、まだ一撃も受けていない悠馬には余裕がある。銃を隠し持っていた場所を試験管一本出てきたからといって、浦城一族に教えるとは思えなかった。
「悠馬、君を捕獲する。それでから、銃が出てきた場所も、チップを隠した場所も聞き出すとしよう」
「あ、逃げようかな」
曖昧な言い方。だが、悠馬はすぐさま行動に移した。飛ぶように跳ね上がり、滑るように走り出す。瞬発力が増加されている辰雄や、筋肉強化剤を持っている和雄から、逃げるには遅すぎるスピードではあったが、二人とも動かない。
かわりに、さなえが右手を振った。
見えざる壁が、重力の変化により、重圧となってアスファルトにめり込むと、悠馬の足を容易く止める。それ以上先に進めば、悠馬のからだが潰れ、心臓が破裂するだろう。逃げられない。
ここで終わっていますが、すぐに続けます。あえて止めてみただけです(笑)




