第四話:狂う家族
片瀬雄一郎の豪邸に着いたとき、理沙に家は研究所も兼ねていると言われたが、悠馬の耳に届いているかは定かではない。その堂々とした表札、門から玄関まで除草の行き届いた庭をとおり、黒光りする瓦屋根を見上げるまで、悠馬はずっと値踏みの計算をしていた。すべて売れば、一体いくらになるのか。この家の主は相当の金持ちだ。
その娘の理沙も、見た目以上の令嬢ではないか。
「期待してるよ、理沙ちゃん」
「何を期待してるのよ。あなたって人がよくわからないわ」
重々しい扉を開き、中に入った途端、悠馬の妄想は途切れ、すぐにもこの家を飛び出したくなった。
ぷんと鼻につくこの臭いは、アルコールのにおい。それも、酒に溺れる亭主がいるのではなく、不気味な薬剤を多く扱う研究員がすむ家なのだ。掃除されていない廊下や部屋のおかげで、この豪邸が幽霊屋敷に見えてきた。さすがに客間のリビングと理沙の部屋、それから母親の部屋もキレイに掃除されているが、それ以外はさっぱりだ。
「人を雇って掃除させるとかすればいいのに」
ぽつりと言った悠馬に、金庫を弄くる理沙は、首を横に振る。
「いたけど、この前解雇しちゃったの。実をいうと昨日、ここでパパと研究していた研究員もみんな外へ追い出したわ。全部、チップのせいよ。チップの力を独り占めにしたいとパパが勝手に言い出したのよ。研究員たちは怒ったわ。それで、このありさまよ。罵倒だけじゃなく、暴力まで出て来てね。椅子も投げられるわ、さらが割れるわで大変だったのよ。そのおかげで、あたしは外に出たんだけどね」
それにしても、荒れすぎだという言葉を出す前に、理沙が突き出した金に、眼を奪われた。規定以上の金額が差し出されている。
「上乗せしとくわ。だから、絶対守って。さっきの浦城さんとこにも、自衛隊にも奪われちゃだめよ」
「わかりました、おまかせを」
意気揚々と受け取った悠馬は、軽く頭を下げ、すぐに玄関へと歩き出した。途中母親らしき人物に出会ったが、夫の研究のせいでとんでもない眼にあい放心状態の母親の瞳には、悠馬が映らない。
「理沙……理沙……」
「ママ……そんな……昨日の朝は元気だったじゃない。どうしたの?あたしがいなくなって、何があったのよ?」
自ら母親に抱きついた理沙を、母親は理沙とは認識していないようだ。理沙の手が袖に触れた瞬間、鬼のような形相を剥き出しに、奇声をあげて奥の部屋へと走り去ってしまう。
「ママ!ママっ!」
すぐさま追いかける理沙の背中を黙って見送る悠馬は、非情。二人の消えた奥の部屋から、なおも叫び続ける母親と理沙の泣き声がこの広い豪邸に響いていた。静けさのみ残った家の中では、よく通る。
わざと聞こえないフリをしているように悠馬は目を閉じ、ゆっくりと外界へと通じる扉を押した。
理沙は期待していた。もしかしたら、悠馬は引き返して、狂ったように暴れる母親を止める手助けをしてくれるのではないか、と。
扉が閉まってもなお、理沙は待ち続けていた。悠馬に抱いた冷めぬ感情をそのまま押し留めておきたいとも思っていた。
吐息交じりのため息をついた理沙の目は、頬を引きつらせ、手に握った鉄の刃で宙を切り裂く母親を映している。
割れた皿の破片がちらばり、包丁振り回す母親――ここは台所、母親にとっては住み慣れた環境の中でも自尊心を保つ一番の場所であり、侵されるはずのない絶対の領域でもあった。なのに、銃を持った男たちが、冷徹なまなざしで卑しい笑みを浮かべる誰とも知らぬ人間が、次々となだれ込み、母を取り押さえ、チップの場所を吐かせるためにあらゆる方法で迫ったに違いない。その方法は口にしたくないが、この母親の様子は尋常ではない。
何が政府だ、自衛隊とはいったい何のためにある。国民を守るべく存在してくれてもいいのではあるまいか。ぎゅっとつぐんだ理沙は、誰かに名を呼ばれたようで振り返る。
キイ、キイと小さな音が近づいて来る、車椅子の音だ。この豪邸の主にして、問題のプログラムチップを作り上げた研究員、片瀬雄一郎の声であり、両足を失った彼の今の足が鳴らした音だ。
いきなりだったので驚いた理沙だが、それが父親だと知り、ほっとしたのもつかの間、すぐに敵愾心剥き出しに手を振り払った。
「『ただいま』だって言わせてくれないんでしょ!」
「いま、言ったではないか」
「『おかえり』は?」
「おかえり、理沙。ぬいぐるみは持って帰ってきてないのかな?」
「もう!」
雄一郎の脳内では、チップのことだけが巡り、娘のことなど何も考えていない。父親に背を向ける理沙は、母親を止めるべく、再度優しく声をかけるが、母親は聞く耳を持たない。
「あれがいかに重要なものか、おまえにもわかるだろう。勝手に持ち出して、反抗期か?いやいや、反抗期だけですむ問題ではないぞ。あれが世に出れば、世界中が混乱する。第三次世界大戦が起きるとも限らないのだぞ」
「パパが持っても同じでしょ」
「私は違う。戦争などという不利益なことをするつもりはない」
「でも、人を殺すわ」
「優秀な人材を生かすべきだ」
「やめてよ。人なんて殺さないで。パパはそんな人じゃなかったはずよ」
「人間は己の欲望を満たすために、必要のないものは切り捨てる。パパも人間なのだよ、理沙。理沙と同じ」
「違う!パパとあたしは違う。あたしは人殺しなんて真っ平よ」
思わず大声をあげてしまった理沙に、刃物を振り回していた母親はびくりと怯え、カランと得物を取り落とす。すかさず理沙は包丁と母親を離し、大丈夫だからと何度も耳元でささやき続けた。
しだいに母親が落ち着き、脱力と同時に涙を流して理沙にもたれかかる。理沙はしっかりと自分の母親を抱きしめる。
「ママ、あたしはここよ?理沙はここにいるわ」
「理沙……理沙?」
「そうよ、ママ……」
くぐもった笑いが雄一郎の口から漏れると、理沙は怒りと哀しみが同時にやってきた。涙は自然に流れている。何かとんでもないことがすでに、この家で起きてしまったことに気づいた。父と母と、冗談言って笑いあうことは、もうできないのだろうか。
背後の雄一郎を振り向くことが、怖かった。
「ねえ、パパ……ママはどうしてこんな……?」
「ママもおまえがチップを盗み出すのを手伝った。チップをぬいぐるみに隠し、それをもって逃げ出したおまえの後を追おうとしたパパを、ママは止めたのさ」
重い金属の音がした。
自動小銃の安全装置が外れる音だと理沙は気づかなかったが、その音が心臓を握りつぶすように響く。冷たい風が、舞込んできたようだった。
「その時のパパは、偶然にも銃を持っていてね。護身用に持っていたものだ、ほら、チップを盗みに自衛隊がきただろう?また来た時のためにと買っておいたんだ」
「ママに向けたのね!?なんてことを……」
「殺すつもりはなかった」
「当たり前でしょ!パパはママよりチップが大事なの?ママに銃を向けても平然としていられるの?……それに、あたしにもそれを……」
拳銃を握った雄一郎が理沙に近づき、銃口を向ける。ゆっくりと理沙は父親を見上げたが、視界が揺らめいて見えない。泣いているのだと知ったとき、理沙は歯を食いしばって声を出すのをこらえるのが精一杯だった。ぎゅっと胸の中の母親を握り締め、震える瞳のまま、父親を見上げる。
雄一郎は笑う。
「助けを呼んでもいいのだぞ、理沙」
「……助け?」
「そう、さっきの男なんてどうだ?あれがおまえの彼氏かどうかは知らないが、チップを渡した相手だということは知っているぞ」
首を振ることすら、理沙は出来なかった。
「私はおまえの生き方にあれこれ口出すつもりはない。あの男、なかなかの美男子だったようだし、私は反対しないぞ」
「……あ、あの人は関係ないわ」
「おや、目の色が変わったな。よほど、あの男に入れ込んだようだ」
「関係ないっていってるでしょ。これ以上あの人を侮辱すれば……」
「すれば?何かするというのか、理沙。私はおまえのパパだぞ」
「あたしはパパの娘よ。その娘に銃を向けてるなんて、信じられないわ」
本気で怒っている理沙の気持ちを踏みにじるかのように、雄一郎は銃口を向けたまま、微動だにしない。少しでも動けば、たとえ娘であろうとも、容赦はしないと、その見開いた眼は物語っている。やせこけた頬は、彼のチップへの強い思いを感じさせた。
「あの男を呼ぶのだ。そして、チップを返すのだ、理沙。愛しい娘よ」
「あたしも愛してるわ、パパ。でも、もう遅い。あの人にはお金も渡したし、二度と他人の眼には触れない場所に隠してもらうようにお願いもしてあるもの!」
「もう一度ここへ呼べ。金は倍にするから返せというのだ」
「いやよ。これ以上、あのチップがこの家にあると……」
「チップがないともっと大変なことになるぞ。くく、私の言っていることがわかるね、理沙。もう高校生なのだから」
「高校生?」
雄一郎の眉間にしわが刻まれた。愛娘を見つめる視線が、はっと背後を振り返り、何もないと分かると左右、天井まで見上げて声の主を探す。
「……理沙の声、ではないな」
銃を握る手に力が加えられ、声のした方向に向き直る。いない。いったい、どこに。
この家の住人以外に人はいないはずである。それなのに、今の声は何なのだろうか。気のせいか。
厳しい目つきで凝視すると、理沙たちが蹲るその背後の勝手口前に、黒い影のようなものが見えてきた。開け放たれたままの扉が、軽く揺れている。
開いていただろうか。ついさきほどまで、扉は完全に閉じられていたはず。
「……あぁ」
喘ぐような理沙の声、潤んだ瞳を見るまでもなく、雄一郎には扉の向こうにある人物が隠れていると見破った。
それも、どうやら隠密の術に長けた殺人鬼のようで、気配ひとつ感じさせないのに、こちらに与えるプレッシャーは背筋を凍らせる。扉の隙間から見える影、その影を前に、息を飲むことだけで三十秒の時間を要するとは自分でも信じられないことであった。
ところが、その人物は隠れている気はさらさらないらしく、扉を自ら開け放ち、堂々と登場した。黒い影から生まれた闇は、天使の顔を持っている。闇色の影を支配する人物とは、これほどまでに美しいものだろうか。これほどまでに、恐怖をあおる存在なのであろうか。
紫影悠馬。それが彼の名だ。
「帰ったんじゃなかったの……?」
理沙の呟きにも似た声は、しかし、静まり返る台所には十分すぎるほどよく通る。
「いや、ちょっと」
照れ笑いながら応える悠馬の声もまた、一字一句はっきりと届く。その唇が放つ呼吸音さえ、聞き逃すまいとしているのだと気づいたころには、悠馬が土足で家に上がりこんでいる。
突然の悠馬の登場に呆けたままの雄一郎と、娘の名前を呼び続ける片瀬夫人とを目に収めた後、確かめるように理沙を見た。驚きで瞬きもしない理沙を、悠馬はじっと見る。これが本当に高校生かどうか疑っているのだろうか。
「まさか、あたしを助けに来てくれたとか?」
「僕は正義のヒーローじゃない」
「ならば、娘から預かっているチップを私に渡してくれるかね?」
嬉々として雄一郎は引き金に指をかける。胸の鼓動の高鳴りは研究時に新たな発見をしたときより、はるかに高鳴っている。ゆっくりと悠馬が振り向くと、その満面笑みの顔はさらにニヤニヤと頬を緩ませた。
「これは凄い……直視できないな」
「凄いのは彼女だよ」
「理沙が?何が凄いのかね」
「とても高校生には見えない」
身長と童顔のせいだろう。可愛らしい理沙は、はたから見れば高校生ではない。中学生でまだ納得できる。小学生といわれれば、否応なしに頷ける。だが、その言葉の口調から考えてみれば、確かにどこか大人びたところもある。
悠馬も、いま認識したばかりだ。
「凄いなあ」
「褒められた気がしないわ」
「どうでもいいが、チップを返してもらえないかね、君」
「出来ないなよ、片瀬さん」
あえてその名を呼ぶことで、悠馬は場を静めた。その言葉の重みに何を感じ取ったのか、雄一郎は首をかしげ、理沙は震えた。悠馬が帰ってきた喜びもあるが、何かよからぬ事態になっているとわかっているのである。
チップひとつでこれだけ大きな騒ぎになっているせいで、幻聴を聞いているのだろうか。父親が銃を握り、銃口を向けているという幻以外に、忍ぶように走る足音や金属同士が触れ合う重い音が耳に届いてくるのは気のせいだろうか。気のせいであってほしいが、だんだんと無言で近づいて来るそれは、現実ではないだろうか。
はっとした。今まで気にならなかったが、これは明らかに家の中での音。本来ならここにいる人数で全員だが、悠馬のほかにもまだ客がいるようだ。いや、ついさきほど来たようだ。静かに、そして着実にこちらに向かっている。
「面倒なものを呼んだらしいな」
「いやいや、呼んだのは僕じゃない」
手の甲を左右に振り否定する悠馬ではあるが、どこまでが嘘で、どこからが真実なのかわかったものではない。困っているのかどうかさえ、その表情から読み取るのは難しい。
スッと眼を細め、雄一郎の顔が厳しくなる。それでも悠馬は否定した。
「ならば、誰が自衛隊を呼ぶのだ」
雄一郎には、そこまで迫ってきた戦場のスペシャリストたちの存在に気づいていた。一度それで襲われているから、思いだしたのかもしれないが、この足の運び方と手馴れた動きは、自衛隊に他ならない。静寂しきった家だからこそ、彼らの足音がもれ聞こえるのであって、これが日常生活であったなら、隣の部屋にいてもわからなかっただろう。それだけ彼らの忍びは素晴らしかった。
「おい、君」
「何?」
「チップを出せ。それさえあれば、簡単にやつらを蹴散らすことができる」
「ダメよ!渡さないで!」
「出し惜しみしている場合ではないぞ!殺される!」
「ママを殺そうとしたのはパパでしょ!」
「殺してない!動きを止めただけだ!」
「何よ、それ!ママがこんな状態になって、パパはなんでまだ、それを持っているのよ!ママに何か声をかけてあげた?ママがパパではなく、あたしを求めるのはなぜ?パパなんか、嫌いよ!防衛のための銃だなんて、なら、それで……それでママを守ってよ!自分ひとりしか守ろうとしないなんて、ひどいよ」
「黙れ、理沙!さあ、君、さっさとチップを出せ!」
「チップなんて……チップなんか……」
「誰かを救おうなんて正義感は自分を殺す」
「え」
何を、誰に言われているのか。理沙の理性は理解に苦しんでいた、まさか、優しげに微笑を浮かべている悠馬がこんな、突き放すような言葉を言っているとは思えず、仰天の表情で悠馬を見上げる。黒いコートだけが理沙の視界をふさいでいた。
「救えるのは、自分だけ」
「そんな……」
「くく、よく言ったぞ。見込みがあるようだな、君は!」
「違っ……あなたはそんなこと言う人じゃ……」
「理沙」
銃口で狙われている以上、声を喉に詰まらせ理沙は黙ってしまう。肩を怒らせ、荒い呼吸をしながら悠馬を睨みつける雄一郎を、とても父親とは思えなかった。どう足掻いてももとの優しい父には戻りそうもないと理沙は涙を飲んで、眼をそらした。
すがるような目つきで見上げたいが、悠馬の表情は理沙を振り返ろうとはしないだろう。理沙は母親同様、力なくそこにうずくまった。
自衛隊が銃やら手榴弾やらを抱え持って、今しも攻めてきそうな緊張感が張り詰めている。
なぜか悠馬は笑っている。
映画の撮影とは違うのだ。これは現実、幻聴でも幻影でもない。なのに、なぜ平然としてられるのだろう。雄一郎の手の銃がどんなに放射しても、何十人もの自衛隊の銃にはかなわないだろうに、何がそんなに面白いのか。いや、面白くて笑っているのではないだろう。
では、なぜ微笑を浮かべられるのか。この状況で。正気の沙汰とは思えない。
「正面から五人、リビングから十二、二階に三十隠れているな。それに、玄関から三人」
「わかるのかね!?」
信じられない。足音を聞いただけで、どこから攻めてくるかと人数とを同時に知ってしまう男がいるとは、さすがの自衛隊でも二階に潜伏した人数までは数えられまい。足音だけでは、不確定のはず。
だが、悠馬の言葉が嘘偽りではない証拠に、玄関を通って、あるいはリビングの窓から、人の気配がする。
半歩後退した雄一郎の足――車椅子のタイヤが、壁にぶつかった瞬間、理沙の悲鳴と耳を劈くような銃声とが重なった。




