3. 伯爵令嬢 セシリア・シンクレア
5才11カ月の私、伯爵令嬢、セシリア・シンクレアはそんな酷く長い悪夢を見た。
胸に残る重い後悔と、愛されなかった悲しみに涙が途切れなく零れた。それでも乳母がやって来るまでには涙は収まった。
青い目を赤くした私を乳母は心配してくれた。
「大丈夫よ。命は短いんだから、泣いている暇なんてないわ」
乳母は目を丸くした。つい昨日まではそんな話し方をする私じゃなかったのだから。
ペンと紙を用意してもらい、書庫に向かった。
国名や年は夢の中には出てこなかった。それでも、あの夢の彼女の生まれ育った国は、今私がいる国らしかった。
姓も名も出てこない夢だった。あの夢が私の前世なのか、それとももっと昔なのかも分からなかった。
一つだけ調べて分かるのは、この国と同じ言葉を話す共和国へ向かう帆船がある事だ。それからすると何百年も前という事ではない。そこまで知って、私は彼女の事を調べるのを止めた。
先程乳母に語った言葉の通り、ぼんやり生きていれば、あっと言う間に死ぬ事になってしまう。あの夢を見た意味は何なのかは分からない。でもあの夢が重要な事を教えてくれた。
1.考え無しに動けば当然思う様にはいかない。
2.考える為には情報が必用である。
3.情報も必用だが、何かに備えて能力を磨いておく事が重要である。
4.情報も能力も必用だが、何かの時に必用なのは人の助けである。
5.だから人を見る目を養う必要がある。
彼女の失敗はひとえに情報も集めず準備もせずに渡航した事、結婚した事だ。そして文盲でなかったというささやかな能力が彼女を生かした。だけど、正体の分からない男と結婚した。助けてくれる人がいれば、あの男がロクデナシと教えてくれただろう…そして毒殺されそうな時に助けを呼べたんだ。
と文字を書いたところで、あまりの下手さにがっかりした。子供だもん。書庫には写本が並んでいた。比較的上手い文字の本を持ち出し、これから毎日これを手本に練習をしよう。
悪夢の中の彼女は貴族学院で水魔法を習っていたらしい。
試しに裏庭でウォーターボールを打ってみたら出来た。今の私も魔法属性は水属性で決定だ。
本当は10才より前に魔法を使うと、脳内のまだ未熟な魔法器官に負担がかかるのだが、あんな死に方ををしたくない。だからすこしずつ練習する事にした。
悪夢の彼女は子爵令嬢、私は伯爵令嬢。彼女は茶髪茶目、私は金髪碧眼。私は彼女より少しだけ条件が良かった。それでも油断は出来ない。最後は人間自身の魅力と能力がものを言うのだから。
行儀作法は後回しだ。能力…学び伸ばそうにもここには学習用の本は無い。歴史と農業、農作物の加工業の本はある。つまり、伯爵領の主産業は農業とその加工品なのだ。幸い紡織の知識はある。その辺りが行かせる様に勉強するかな…
などと考えていたところ、私の6才の誕生日の後で、侯爵家のご子息の誕生パーティに出席する事になった。同い年の令息・令嬢が集まるのだから、どんな連中がいるかしっかり観察しよう。
これまで母とは週末以外には顔を合わせなかった。貴族は子育てなどしないものだ。10才までは乳母が主体で子育てをする。だから馬車の窓から外を見て、ずっと静かに座っている私に母が告げた。
「ずいぶん大人しくなったのね?」
「もう6才だもの」
…ちょっと子供っぽい言い方だったかもしれない。母は微笑んだ。
そうして公爵領の領主の館に着いた。
それは正真正銘のお城だった。夢の中の王都で見たお城よりは小さいが、城壁の中に物見の塔が伸びる、防衛用の城だった。
「お母さま、こちらは戦争でもする場所なのですか?」
「いやねぇ、戦争なんてもう何十年もないわ。絵本にでも戦争なんて書いてあったの?」
「いえ、立派なお城は戦争用なのでしょう?」
「もう100年も前に建てたお城だからね。実際に戦争には使ってない筈よ」
そういう訳で、城壁の中に入って馬車から降りると、その城壁の中に林に囲まれた庭園に連れて行かれた。
ちら、と母を見やると、母が話しかけてきた。
「なぁに、何か気になる事でもある?」
「いえ、城壁の中に随分広い庭があるなぁと思って」
「戦争の際には住民の避難場所でもあるのよ。戦争なんてないけどね」
「ああ、なるほど」
母は少し不思議な顔をした。6才の子供が納得する内容ではないだろうから。
案内する侍女の背中は揺ぎ無かった。分からない事を分かった様に振舞う子供を笑ったりしない、立派な侍女だった。さすが侯爵家の使用人。
ああ、川流れ(拙作)の悪役の名前がセシリアだったのに今気づいた…あれと本作は全くの無関係です。




