不変の√コーナー7
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透巳が小学六年生に進級したばかりの頃。その日はいつも通りの何でもない日になるはずだった。いつものように学校に通い、いつも通りの時刻に帰宅する。それだけの日になるはずだったのだ。
そこまではいつも通りで、透巳自身もその後知ることになる運命のことなど、全く予想もしていなかったのだ。
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この日の季巳は仕事を休んでいたので、透巳は帰宅して季巳の姿を視認しても驚きはしなかった。だが透巳は、まだ帰宅していないはずの純までもが季巳と並んでテーブルの椅子に腰掛けている事実に目を見開いた。
「あれ。父さん何でいるの?」
「透巳くん……」
ふと、透巳は純の顔色が真っ青で、今にも泣きそうな表情になっていることに気づく。一方の季巳はいつも通りに見えたが、彼女の感情を顔色で察することは難しい。
どこか困ったように微笑んでいる季巳は、何でもないように口を開いた。
「ごっめーん!透巳。私ガンになっちゃった。あと一年も生きられないって!」
「…………」
突然の悲痛な告白を心底明るい声で告げた季巳は、内心透巳がどのような反応をするか不安に感じていた。透巳は母親として季巳のことを愛している。だからこそ季巳が余命僅かであることを知れば、透巳が悲しむことは分かっていた。
だが透巳は赤ん坊の頃以来泣いていなかった。嘘泣きをすることはあったが、透巳の演技力が凄まじいせいで周りが動揺するので、透巳はすぐにそれが演技であることをバラしていた。
なので季巳は透巳の感情そのままの涙を長らく見たことが無かった。その為季巳は内心怯えていたのだ。
「……」
「透巳?」
透巳は何も言わなかった。泣くこともなく、顔を歪めることもなく、驚いたように目を見開くわけでもなく、かと言って笑顔でもない。
無表情のまま、何度か瞬きをすると、透巳は一歩後退った。そしてそのまま季巳たちに背を向け、家を飛び出してしまった。
「透巳くんっ!」
「いいの……お父さん。透巳の好きにさせてあげましょう」
何も告げずに家を出た透巳を純は引き止めようとしたが、季巳の言葉で悲痛な表情のまま再び腰を下ろした。だが季巳は、透巳が居なくなったことでぽっかりと空いた空間を、揺れる瞳で見つめていた。
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その日の夕刻。透巳は一人暮らしをしていた慧馬の自宅で彼の帰りを待っていた。
慧馬は高校を卒業をしてすぐに警察学校に入り、見事警察官となったのでこの頃既に刑事として働いていた。だがまだ捜査一課には配属されておらず、今よりは仕事も忙しくはなかったのだ。
なので慧馬はこの日、街が完全に真っ暗になる前に自宅に辿り着くことが出来た。
鍵を開け、自宅アパートの扉を開けた慧馬は突然の衝撃に目を丸くした。
「っ!……透巳?」
突然の衝撃とは、自宅の中で慧馬の帰りを待っていた透巳に抱きつかれたことによるものである。帰って来たばかりの慧馬に突進した透巳は、勢いそのまま慧馬を室内に押し倒してしまう。
玄関の上がり框に仰向けで倒れてしまった慧馬は、呆然としつつ上に乗っかる透巳に視線をやる。
透巳は慧馬の胸元に顔を押し付けていて、一向に喋る気配が無かった。無言による沈黙が室内に流れてしまい、慧馬が仕方なくそれを破る。
「おい、透巳。お前どうやって入った?」
「……」
「?」
相変わらず無言を貫いた透巳だったが、慧馬の問いに答えるように手に持っていた鍵を床に放った。首を傾げつつ、寝転がったままその鍵を視界に収めた慧馬は、透巳がどうやって入室したのかを理解してしまい顔を引き攣らせてしまう。
「はぁ……お前、いつ合鍵なんて作ったんだよ」
「……」
「おい。いつまでだんまり決め込むつもりだ?」
「……」
「全く子供の相手は疲れるぜ」
「……」
「おい。本当にどうした?」
いくら問いかけても、いくら煽り文句を口にしようと、透巳は言葉を返さなかった。流石に透巳の様子がおかしいことを理解し始めた慧馬は、心配そうな声で尋ねた。
それでも透巳は慧馬に抱きついたまま、無言を貫いた。それから十数分間、透巳は慧馬に自由を許さないまま、黙りこくっていた。
だが慧馬にも生理的な限界というものがある。
「おい……透巳……」
「……」
「……便所行かせてくれ」
「……………………ちっ」
「舌打ちかよっ!?」
待ちに待った第一声がまさかの舌打ちだったので、慧馬は一瞬尿意を忘れてツッコんでしまった。そのまま透巳は慧馬の身体から離れると、ようやく慧馬の自由を許してくれた。
その表情は不満気に見えたが、取り敢えず慧馬は自宅のトイレへと急ぎ、冷静に話を聞く準備を整えた。
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「母さん死ぬんだって」
「……え……まじ、か?」
「うん。ガンだって。生活習慣病とかウケるよね……全然ウケないけど」
「……」
唐突な透巳の告白に、慧馬は言葉を失った。そして透巳が先刻まで黙りこくっていた理由も理解できた。家族ではない慧馬でも言葉を失ってしまうのだから、息子である透巳の気持ちは計り知れない。
どれ程の衝撃だったか。どれ程の絶望だったか。色々な感情が透巳の中で入り混じり、言葉にすることも出来なかったのだろう。
「大丈夫か……って、大丈夫じゃないから来たんだよな……」
「まぁ、今日は泊めて。色々考えたら家帰るから」
「……分かった」
終始感情の読めない透巳ではあるが、今回のことでダメージを受けているのは明らかだった。慧馬に救いを求めようとするほどには。
なので慧馬は透巳の気持ちを尊重し、彼を無理に帰らせようとはしなかった。
「あ……」
「どうした?」
ソファにうつ伏せで寝転んでいた透巳がふと何かを思い出したように声を上げた為、慧馬は首を傾げた。
「母さん死ぬ前に、ぽっちーが死ぬかも。自殺図らないように見張っとかないと……」
「……そうだな」
この状況で思い出したことがそれかというツッコみをしたい気持ちはあったが、透巳の言うことが確実に正しいことも理解できたので、慧馬は苦々しい表情でそんな返事しか返せなかった。
季巳のことを神の如く崇拝している千流芭が彼女の余命を知れば、人生に絶望しまた自殺を図ってもおかしくないのだ。
事実、後日千流芭に季巳のことを話すと彼女は刃物を持ち出したが、すぐに透巳が防いだので大事には至らなかった。そもそも知らされた事実が衝撃的すぎて狼狽してしまい、咄嗟に刃物を掴んでしまっただけで、本気で死ぬつもりはなかったようだが。
********
「透巳、アンタ将来の夢とか無いの?」
余命宣告を受けてから数か月後。入院生活も板についてきた季巳の入院着姿は、透巳にとって見慣れたものになった。
今までよりも痩せ細ってしまった身体、外に出ないせいで更に白くなった肌。どこか生気のない表情。その全てが季巳の儚さを物語っていて、窓から差し込む陽射しが無ければ見えなくなってしまいそうな程だ。
ちなみに季巳がすい臓がんになってしまったことは、世間には公表していない。マスコミに騒がれるのを季巳が嫌がったからだ。
なので見舞いに来るのは限られた人間のみ。そして透巳は、見舞いが毎日の日課になってしまっていた。
「……ない」
「えぇ……そこはお医者さんでしょうが」
「なんで?」
いつもながらの唐突な季巳の質問に、透巳は素っ気無い返事をした。そんな透巳を不満気な表情で小突いた季巳に、透巳は怪訝そうな相好を向ける。
「ほら、よく言うじゃない。お母さんのように病で苦しむ人を救いたい……的な?」
「……俺が医者になった頃には母さん死んでるでしょ。母さんを助けられるならなるけど、そうでもないのに他人の命救う仕事をする意味が分からない。他人の命救って母さん生き返るわけ?無理でしょ」
「コラ……そういう理屈で八つ当たりしないの」
「……」
透巳の悪い癖が出たことを季巳はキチンと叱った。だがこれが神坂透巳という人間であることを、季巳は誰よりも理解している。自分の大事なものにしか興味が無い。自分に関わりのない人間のことは心底どうでも良い。お人好しと最もかけ離れた存在が透巳だ。
だからこれはどう言っても直らないのだと、季巳は半分諦めてもいる。
「……ねぇ、母さん」
「なに?」
「……何で、死んじゃうの?」
「……」
ベッドに顔を伏せながら、簡潔な質問をしてきた透巳に季巳は言葉を紡ぐことが出来なかった。
季巳はようやく気付けたのだ。母親の死が刻一刻と迫っている事実を知った透巳の気持ちが。その気持ちも、季巳がこうして入院している理由も、季巳に死の運命が迫っている理由も、透巳には分からないのだ。
感情が分からない。透巳自身にも分からない。分からないまま、透巳は一日一日を懸命に生きていたのだ。
その分からないという感情を、季巳はようやく理解することが出来た。
「何で、あと少ししか生きられないの?……何でガンになっちゃったの?……何で今まで気づかなかったの?…………いくら調べても、誰も教えてくれないんだ。すい臓がんは見つかりにくいからとか、そういうことを聞きたいんじゃないんだ。ただ……母さんにとってこの夏が、最後の夏だなんて、意味が……分からなくて」
顔を上げて、今まで抱えてきた、グルグルと渦巻いた疑問を一気にぶつけた透巳の表情は、今にも壊れてしまいそうな危うさを持っていた。
そんな透巳を優しく抱きしめた季巳は、内心安堵していた。透巳はやはりまだ、分からないことのある子供なのだと。こんな風に疑問をぶつけ、当惑している透巳を見たことの無かった季巳は、親として不思議な安心感を抱いた。
「うんうん……全部私が悪いから……ごめんね」
「っ……そういう、安易な片付け方は、好きじゃない」
「あら。ごめんなさい」
愚図った子供をあやす様に、透巳の頭を撫でた季巳はどこか嬉しそうな表情を浮かべていた。こんな風に年相応な透巳は生まれて初めてで、ほんの少しだけ嬉しく感じてしまったのだ。自分のせいでこんなにも悩んでいる透巳には口が裂けても言えない本音ではあるが。
「……やっぱり。俳優には興味ないの?」
「うーん……まぁ興味はないかな。絶対に嫌な訳でもないけど」
「そう。向いてると思うんだけど」
「そりゃ俺はどんな仕事でも向いてるよ」
「ほんと、可愛くないわね」
最後の確認とでも言うかのように、季巳は透巳の将来について尋ねた。透巳の発言は自己評価が高いように聞こえるが、純然たる事実である。
透巳は様々な事柄に関して人並み以上にできてしまう。選択肢が無限にあるので、そこから一つの将来を選ぶのは難しいのだ。
「透巳……」
「なぁに?」
「お母さんのこと好き?」
「好きだよ」
「ふふ……ざぁんねん」
「なんで?」
頭を撫でたまま、蕩けてしまいそうな声音で尋ねた季巳に、透巳はきっぱりとそう断言した。それに対して何故か不満を口にした季巳の声は嬉しそうで、ちぐはぐな季巳の態度に透巳は首を傾げた。
「私。透巳の思春期も見ることが出来ないのねぇ……こういう時って、〝キモいんだよクソババァ!〟ぐらい言うものよ。思春期って」
「……反抗期の間違いじゃない。それ?」
「大して変わらないわよ」
透巳がそんなことを言う姿は微塵も想像できない癖に、無駄な望みを抱いた季巳を、透巳はキョトンとした視線で見上げた。突っ伏していた状態から起き上がった透巳は、頭を撫でられたことで崩れた髪型を手櫛で直した。
自身の残り少ない人生では、透巳の成長を見届けることが出来ないのを季巳は憂いているのだ。それを察した透巳は気を遣って口を開いた。
「ご所望なら思春期坊主の演技でもしてあげようか?」
「いいわよ。そんな無理しなくても」
「そう?」
「えぇ…………私も、大好きよ。透巳」
透巳の申し出を断った季巳は、慈愛のこもった目で透巳を見つめて言った。普段見せない様な優しく、その愛情がありありと伝わってくる表情に、透巳は思わず目を見開いた。
「うん。俺も大好き」
「……透巳って、女の子たくさん泣かせそうよね」
「?」
好きよりも大好き。そんな気持ちを季巳に恥ずかしげもなく伝えた透巳を目の当たりにして、季巳はどこか遠い目を窓に向けるのだった。
次は明後日更新予定です。
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