穢れた愛、それでも遺したもの3
最初はなんてことない、友人同士のスキンシップだった。手を繋いだり、感情が高ぶると抱き合ったり、髪を触ったり。だが段々と、身体のあちこちを梓紗は触れてくるようになり、寝巻きの下から胸を触られた時感じた鳥肌を小麦は今でも忘れることが出来ない。
何より小麦にとって恐ろしかったのは、あの時驚きのあまり顔を真っ青にして梓紗の手を振り払ってしまった際、彼女が呆れたような笑みを向けてきたことだ。その表情には罪悪感がまるで無く、小麦が嫌がっているなんて微塵も感じていないように見えたのだ。
行為はどんどん過激になり、中学生になると無理矢理ベッドに押し倒されるのが日常と化してしまっていた。それはもう完全な性的暴行だったが、小麦にはそれを相談できる相手さえいなかった。そして何より小麦と梓紗は同性同士なうえ、幼馴染として周りに認知されている。相談したところで信じてもらえるとも思えなかった。
「むぎぃ……愛してるよ。私にはむぎしかいないの……むぎも私のこと、愛してるでしょ?」
「う……うん、あいしてるよ」
これ程中身のない愛の囁きは無いだろう。毎夜毎夜、ベッドの上で愛を囁かれた。小麦は梓紗のその言葉が本物なのかもわからぬまま、同じ言葉を返すことしか出来ないまま、身を委ねてしまっていた。
だが梓紗に身体中を触られる度に、自身が穢れていってしまうような気がして、小麦はどんどん精神をすり減らしていってしまったのだ。
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中学二年生になった頃、小麦は梓紗と同じ生徒会の書記を務めることになり、以前よりも学校にいる機会が増えてしまっていた。そうなると当然小麦が気を張る時間も長くなってしまう。
好きでもないのに髪を伸ばし、それを梓紗と同じツインテールにする。可愛らしすぎるその髪型を小麦は恥ずかしく感じていたが、それがこの頃の梓紗のお気に入りだったので拒否権など無い。自分らしくない髪型に、偽りの仮面を被って従順な梓紗の親友として隣に居続ける。これが長いこと小麦に課せられた義務だ。
そんな日常が続いていた頃、何故か梓紗の機嫌がとてもいい日があった。昨夜からどこか嬉しそうな相好を浮かべていた気はしていたのだが、何故梓紗がそこまで笑顔を向けてくるのかが小麦には分からなかった。
その日の朝、鏡に映る少女の顔を見るまでは。
「……えっ?」
一瞬、小麦は鏡に映る人物が誰なのか判断することが出来なかった。鏡に映るのはツインテールの少女。嘘くさい媚びるような笑顔が張り付いたその少女は、紛れもなく小麦だった。
「うっ……」
それを理解した途端、小麦は吐き気を催し必死な思いでトイレに駆け込んだ。顔を真っ青にして嘔吐してしまった小麦は、震える指を自身の顔に這わせて縋る様に確認する。
指に伝わる口角の感触から、やはりそれが弧を描いていることは明確である。その事実に小麦はガクリと肩を落とした。
今いるのは梓紗と小麦の住むアパート。つまりは小麦が外での偽りの仮面を唯一取れる場所なのだ。にも拘らず鏡に映る小麦は傍から見れば明るい笑顔を浮かべていて、小麦はその自覚が無かったことに驚愕したのだ。
いつも無理矢理作っていた笑顔が自然と張り付いてしまい、本物の自分が消えてしまったような変化を小麦は気持ち悪いと感じてしまい、同時に恐怖を覚えた。それは今まで散々殴られ、締められ、苦しめられてきたどんなことよりも恐ろしく、小麦は身体を両手で抱えながら滂沱の涙を流した。
流れるのは無意味な涙だけで、本当に伝えたい言葉は小麦の口を衝いて出てはくれなかった。
********
あの日から小麦は喜怒哀楽の全てが希薄になってしまい、まるで梓紗のためだけに存在するロボットのように成り果ててしまった。笑顔が張り付いてしまったので無理に表情を作る必要もなくなり、梓紗に縛られる人生に慣れてしまったのだ。
「むぎ。私先に生徒会室に行ってくるから、早くそれ済ませて来てね」
「うん!」
慣れてしまったその媚びた声で小麦は返事をする。
中学二年の二学期が始まった頃。小麦は放課後、クラスメイトの数学のノートを回収する仕事があった為、梓紗と一旦別れることになった。
本来ならば昼休みにこの仕事は終わるはずだったのだが、ある一人のクラスメイトが一向に提出してくれなかったせいで放課後まで待つ羽目になったのだ。その生徒のノートはまだ回収できておらず、小麦はその生徒の元を尋ねた後職員室に提出しに行って、生徒会室に向かう予定である。
自身の教室の扉を開け、探し人を後方に見つけた小麦。教室の隅の机に突っ伏している問題の生徒は、ただの公立中学の試験で赤点を取りまくり授業中は寝てばかり。長い前髪にぼさぼさの頭で、どこからどう見ても落ちこぼれの生徒だ。そんな彼の唯一の長所は運動神経が良いことだが、部活にも所属していない彼がそれを披露する機会はそう多くない。
誰も気にも留めない、地味で根暗なその生徒のことを小麦は若干苦手としていた。特に何かされたわけでも、彼をよく知っている訳でもない。だが彼が放つ独特の雰囲気が、全てを見透かされているように思えてならなかったのだ。
窓から差し込む西日が彼の頭に直接あたり、黒髪が赤く色づくようで小麦は思わず見とれてしまう。
「神坂くん、数学のノート出して欲しいんだけど」
「…………」
小麦の声で起きた透巳は、ゆっくりとその顔を上げて彼女の姿を捉えた。前髪で目が隠れているので彼がどんな表情をしているのか小麦には分からぬまま、何故かガン見され続けるという時間が続いてしまう。
頬杖をつきながら、ノートを出すわけでもなくただただ小麦のことを見つめ続ける透巳。小麦はとうとう耐えられなくなり、口を開いた。
「私の顔に何かついてる?……って、それよりも神坂くんだけだよ、まだノート出してないの!」
可愛らしく小首を傾げて尋ねた小麦を目の当たりにした透巳は、何故かどこか納得した様に「あー」と呟くと、小麦にとって驚天動地の発言を零す。
「……きもちわる」
「…………えっ……」
その時小麦が感じたのは雷に打たれたような衝撃と、言いようのない歓喜だった。
小麦の今の感情を一言で表すことは出来ないだろう。あの日鏡に映った自分を見て感じたことを透巳が代弁してくれたことに対する喜び。そしてその事実を今の今まで忘れてしまっていたことに対する恐怖。そして今それが正常な反応なのだと思い出すことに対する酷い安堵感。
それらを何か一つの存在で表すことが出来るのなら、それは小麦が自覚する間もなく静かに流れ落ちた涙だけだろう。
「そんなに嫌なら、やめればいいのに」
「っ……え、あれ……?」
突如泣き出した小麦に透巳は呆れたような声で言った。その言葉で小麦は漸く自分が泣いていることに気づき、当惑しつつ必死に両手で涙を拭う。
透巳の言うことは尤もだが、小麦はそれが出来ていれば今ここで泣いたりなどしていない。
「作り笑い気持ち悪いし……あとその髪型も全然似合ってないよ」
「……そう、だよね。私も、そう思う」
自身と透巳の感覚が全く同じであることを知った小麦は、思わずクスリと微笑んで同調した。小麦は自覚していなかったが、その時の彼女の相好は嘘偽りない本物であった。
しばらくの間静かに笑い続けた小麦を透巳はじっと見つめ続け、その内そっと口を開いた。
「そっちの方がずっといいよ…………あ、ノートだったっけ?真っ白だけどいい?」
「神坂くんって、勉強全然する気ないよね」
「だって好きじゃないし」
透巳が何気なく零した初めての褒め言葉に小麦は一瞬ドキリとする。だが梓紗からの歪な愛しか知らない小麦にその正体を掴むことは出来ない。
彼女の胸に残る違和感は透巳の真っ白なノートによって気にならなくなってしまう。高校生の透巳から考えれば信じられない程だが、中学生の彼はとてつもなく成績が良くなかった。
だがそれは透巳が小中と勉強を全くしようとしなかったせいで、彼は少しでも勉強をすれば好成績を残せるほどに地頭はいいのだ。
授業中寝てばかりで彼が真面目に授業を受けているところなど一度も見たことが無かった小麦は、そもそも勉強する気が無いことを何となく理解していた。
ちなみにこの頃の透巳は言動も少し荒く、必要でない場合は猫かぶりもしない程だった。
「……そう言えば君誰?」
「へっ?」
ふと思い出したように尋ねてきた透巳に不意打ちされてしまった小麦は、思わず受け取ったノートを落としてしまう。パサッという気持ちのいい音が足元で鳴り、透巳は自身のノートを目で追う。
「何やってんの?ドジだね」
「あ、あぁ。ごめん」
先刻からズバズバと包み隠さず話してくる透巳に小麦は困惑したが、それでも嫌という感情は芽生えなかった。もし彼が正直でなければ、小麦を正常に戻してくれた〝気持ち悪い〟という評価も生まれなかったからだ。
「えっと、クラスメイトの鈴音小麦です」
「……きみ、鈴音小麦っていうの?」
「う、うん」
透巳は小麦の名前を聞くと何故か呆けた様な声を上げ、彼女は思わず首を傾げてしまう。今までどこか他人事のように小麦を捉えていた透巳が、その時初めて興味を抱いたような雰囲気にたじろいでしまったのだ。
「へぇ、いい名前だね」
「そ、そう?」
「うん、すごくいい名前。かわいい」
その時透巳は初めて笑みを向け、声音も今までより優しく温かいものになっていた。小麦は可愛いと言われることには慣れていた。他人からも空っぽなその言葉をよく投げかけられ、そして何より梓紗から毎日のように言われていた。
だが透巳から出たその言葉は他のどれとも違うようで、小麦の胸はじんわりと温かくなる。
だがその温かい気持ちも、一人の来訪者によって簡単に凍えてしまう。
「む~ぎぃ~……何してるの?」
「あ、梓紗……」
「全然来ないから心配しちゃったよ」
教室の扉から声をかけた梓紗に小麦は思わず顔を引き攣らせてしまう。最近は当たり前のように偽りの笑みを浮かべられていた小麦が、突然昔のぎこちない状態に戻ってしまったことに気づいた梓紗は、長年一緒にいた小麦にしか分からない無言の圧をかける。
「あれ?むぎ泣いたの?大丈夫?」
「えっ、あ……これは違くて……」
透巳の席に近づいた梓紗は小麦の目元が若干赤くなっていることに気づき、彼女の顔を覗き込む。小麦にとってそれは悲しみの涙ではなく嬉し涙だったのだが、そんなことは梓紗にとって関係の無いことだ。
すぐ傍にいる透巳が涙の原因であると確信した梓紗は冷めた目で、落ちこぼれ生徒である彼を捉える。梓紗は小麦と透巳とは別のクラスだが、去年透巳と梓紗は同じクラスだったので、彼女は透巳のことを知っていたのだ。
「ねぇ、なにむぎのこと泣かせてるの?」
「責任転換するなよ。アンタのせいだろ?」
「……どういう意味?」
満面の笑みだというのに怒気を孕んだ声で尋ねる梓紗に動じることなく、透巳はサラリと言い返した。思いがけない透巳の言葉に驚いたのは梓紗だけではなく小麦も同様だ。
小麦の名前も知らなかった透巳が梓紗との関係性を知っている訳もない。にも拘らず今までの言動だけで小麦の涙の理由を言い当てた透巳の洞察力は異常としか思えないものだ。
図星を突かれたことで若干顔の筋肉をピクリと動かした梓紗は、声のトーンに注意して尋ねた。
「アンタっ……嘘つくの下手だな」
「は?」
何がおかしいのか、笑いながら梓紗のことをそう称した透巳に思わず彼女は感情そのままの反応を返してしまう。一方の小麦は普段から表と裏を上手く使い分ける梓紗が嘘をつくのが下手という印象が無かったので、思わず首を傾げてしまっている。
だがこの頃から嘘をつくのが上手かった透巳から見れば、どんな相手でも当然のように下手くそに思えてしまうのだ。
「コソコソしたいなら、もっと上手くやれよ」
「っ……」
席から立ち上がり、鞄を肩にかけた透巳は嘲笑う様に言い放った。本当に全て見透かされているのではないかと思える透巳の言動に梓紗は言い返すことも出来ず、教室を出ていく透巳の背中を睨むことしか出来ない。
「……何アイツ」
「あ、あの……ノート提出してもらおうと思ったら、あの人私の名前知らなくて……酷いよね?クラスメイトなのに。それが地味にショックで……」
「ふーん……」
小麦は半分事実を交えてことの経緯を梓紗に説明した。自身の気持ちを見透かされたことは話さない方がいいと考えたが、かと言って完全な嘘をついて騙せる気もしなかったので、小麦は無理に作り話を用意することは無かった。
何とか誤魔化せたのか、梓紗はそれ以上追及することは無かった。だが小麦は今までより自然に作り笑いを浮かべることが出来ず、どこかぎこちなくなってしまったので内心ヒヤヒヤしている。
「むぎ。もう二度とアイツと関わっちゃダメよ。分かった?」
「う、うん」
小麦を抱きしめ、耳元で囁いた梓紗に小麦は思わず鳥肌を立たせた。だが久方ぶりにこの存在が心底怖いと感じた小麦は、言いようのない安堵感に襲われる。
今まで希薄になっていた喜怒哀楽が戻り、小麦は恐怖を感じながらまたしても涙が出そうになってしまったのだ。
次は明後日更新予定です。
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