穢れた愛、それでも遺したもの2
「なぁ君一人なんだろ?なら俺たちと遊んでもいいじゃんか」
「あー……でも私これからものすっごく大事な用があって……」
「俺らと一緒にその用事済ませればいいじゃん」
明日歌たちは思わず薄ら目で硬直してしまう。ここまで典型的で面倒臭いナンパなど今日日目撃しないうえ、そのナンパに捕まっているのが友人の恋人という物凄い状況に言葉が出ないのだ。
夏なので小麦はいつもの猫耳パーカーは羽織っていなかったが、代わりに猫耳フード付きのTシャツを着ていて相変わらず可愛らしい格好である。
フードのせいで分かりづらいが、小麦の顔がどこか青ざめているように見えた明日歌は急いで彼女の元へ駆け寄る。明るく振舞っていてもやはり小麦もナンパが怖いのだろうと心配したのだ。
「あのっ!その子私たちと先約あるので」
「ちっ……男連れかよ……いこーぜぇ」
声をかけた明日歌の背後で遥音たちが睨みを利かせていたことにより戦意喪失したのか、ナンパ男たちは思いのほかあっさりとその場からいなくなり、取り敢えず明日歌たちは胸を撫で下ろした。
一方小麦は俯いた状態で酷く震えており、明日歌はあの青ざめた相好が自身の見間違いでは無いことを確信する。
「小麦ちゃん、大丈夫?」
明日歌の声にビクリと反応した小麦は恐る恐るその顔を上げる。すると小麦の視界には明日歌の長い黒髪が映り、刹那、彼女の中の最もおぞましい記憶が呼び起こされる。たかだか髪如きで小麦はその当時の記憶、感覚、恐怖、その全てを一気に思い出してしまい、足元から激しい震えを感じる。
小麦が心底〝愛〟というものに恐怖を覚え、縛られ、逃げられなかったあの頃の記憶。それは今もなお彼女の奥底に眠っていて、彼女を苦しめ続ける。そしてふと、明日歌の黒髪で思い出された恐怖の象徴の声が、小麦の頭で木霊する。
『むぎ……私はむぎのこと、本当に本当に本当に、愛しているの。誰よりも、何よりも、愛しているのよ。だから……逃げたりしちゃ、ダメよ』
途端膝から崩れ落ち、苦し気に胸を押さえる小麦に明日歌たちは思わず目を見開く。
「あっ……い、いや……はぁはぁはぁはぁはぁ…………ご、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……すみく……すみくん……どこ……?」
「小麦ちゃん!?」
虚ろな目を見開き、頻りに何かに対して謝り続けている小麦は過呼吸を起こしていて、明日歌は思わず大声を上げてしまう。
小麦がうわ言のように透巳の名前を呼んでいることに気づいた明日歌は、何故この場に透巳がいないのかと疑問に思い、歯を食いしばった。
何かに酷く怯え、苦しさでどうにかなってしまいそうな小麦に対し、迅速な対応をしたのは遥音だ。遥音は小麦の傍によると、彼女を前かがみに座らせる。
「無理に息を吸おうとするな。吐く方に意識を集中させろ。息を吸ったらその倍の量ゆっくり吐け」
「……すぅ……は、はぁ、はぁ……すぅ」
「そうだ」
周りは徐々に騒がしくなり、野次馬の視線が鬱陶しくなってきたが、遥音はそんなこと気にする様子もない。寧ろ小麦が気にしないように彼女の視界を自身の身体で遮っている。
段々と呼吸が落ち着いてきた小麦の背中を遥音は優しく摩ってやっていて、明日歌たちは思わず目を瞠る。
遥音が本当は誰よりも優しく、いざという時に頼りになる存在であることは重々承知していたが、それでもこういう遥音を偶に目撃してしまうと多少なりとも明日歌たちは驚いてしまうのだ。
「小麦ちゃん、大丈夫?」
「……はい、大丈夫です……すみません、お見苦しいところを」
今まで明日歌たちが接してきた、明るく天真爛漫といった印象を抱く小麦とは全く違う。大人しくどこか自信のない彼女は新鮮で、明日歌たちは目を見開いてしまう。寧ろこちらの方が本来の小麦なのだが、明日歌たちはそれを知らない。
「とりあえずさ、落ち着ける場所に行こっか」
明日歌は眉を下げつつ優しく微笑むと、小麦に向かって手を差し出しそう提案した。まだ僅かに震える手を掴んで引っ張り上げた明日歌に対し、小麦は心底申し訳なくなってしまい、うっすらと涙を浮かべるのだった。
********
小麦を落ち着かせるために明日歌たちが入ったのは近くのカフェで、ランチメニューのないこの店は今の時間帯非常に空いていて落ち着ける空間になっている。
この静かな空間で紅茶を一口飲んだ小麦は、改めて明日歌たちに顔を向けてゆっくりと頭を下げた。
「あの、ありがとうございました。皆さんがいなかったらどうなっていたか……特に、遥音、先輩。……透巳くんの言う通り、とてもいい人なんですね」
「……神坂が俺たちの話をするのか?」
若干俯きつつ礼を言った小麦は、普段から透巳が話してくれる時と同じように遥音の名前を呼んだ。一体普段自分たちのどんな話を透巳がしているのか全く想像できず、遥音は面食らったような反応を返す。
「よく話してくれますよ……遥音先輩は口が悪いけど本当は凄く優しくていい人で、ただのツンデレさんなんだって」
「アイツ日に日に明日歌に似てきてないか?その内ぶん殴りたくなるのだが」
「いいじゃん、褒めてるんだから。そーいうとこがツンデレなんだって」
「微塵も褒められている気がしないのだが」
透巳が明日歌に似てきたというよりも、明日歌たちの遥音に対する認識が同じになっただけなのだが、どちらにしても遥音からすれば面白くない変化である。
目の前でF組の通常運転を見せつけられた小麦は思わずクスリと笑みを零して頬を染める。そんな彼女の表情にはいつもとは違う可愛らしさがあり、明日歌は以前透巳が小麦のことを〝おしとやか系〟と称した理由をこの時ようやく理解したのだ。
他人と接する際と透巳と二人の時、そして今。小麦の印象が変わって見えることは全員が理解していたが、敢えてそれを追求することはなかった。
「そういえば今日透巳くんは一緒じゃないんだね」
「えっと……もうすぐ透巳くんの誕生日で、誕生日プレゼントを買おうと……今日は友達と遊ぶって言って出てきたんです」
小麦と会う時はいつもそばに透巳がいたので、明日歌は先刻から不思議に思っていたことを零した。
実は八月二十日が透巳の誕生日で、小麦はこっそり誕生日プレゼントを買ってサプライズしてやろうと考えていたのだ。だが嘘をつくのが上手くもない小麦の考えを透巳が察知できないはずも無いので、透巳はわざと騙されてやっただけなのだが、本人がそれを知ることは無いだろう。
普段なら透巳が小麦を一人で出かけさせるようなことはしないのだが、愛してやまない恋人が自分のために必死に嘘をつく姿に絆されてしまったようだ。
「あーなるほどね。………………ってそんな話透巳くんから微塵も聞いてないんだけど!」
「えっと……透巳くんは、聞けば割と何でも話してくれますけど、聞かないと何も話さないので」
透巳の誕生日を全く知らなかった明日歌は席から突然立ち上がると、酷くショックを受けた様に口を開けてしまう。だが透巳の性格を理解している者からすると聞かなかった側が悪いので、小麦は困ったように説明した。
恥ずかしげもなく明日歌たちを大好きだと言ってみたり、自身の計画の件をあっさりと認めたりと、明日歌たちにも思い当たる節があったので彼女の説明に納得してしまう。
「あ、そうだ。こんな時にこんなこと聞かれたくないと思うんだけど……これ、覚えある?」
「……あぁ、これ家にも届きましたよ」
テーブルに例の厚紙を置いて小麦に見せた明日歌は、この内容又はこんな真似をする人物に覚えが無いか尋ねた。それを目の当たりにして少々目を瞬きさせた小麦は、何でも無いようにそう言ってのける。
「えっ……うちって、透巳くん家?」
小麦が今住んでいるのは透巳のアパートなので、小麦だけではなく透巳もこれを見たということだ。明日歌の問いかけに小麦は静かに首肯してみせる。
小麦が大した動揺を見せていないことから、少なくとも透巳が人殺しというのが言いがかりである可能性が高まったので、明日歌は取り敢えずホッと胸を撫で下ろす。
「よかったぁ。透巳くんが人殺しなんて、やっぱり嘘だよね」
「はい……でも、透巳くんに今の質問をすれば、多分こう答えると思います」
でも。その一言で全員が小麦の方に注目してしまう。小麦の解釈と、透巳の思いが違うということでもあるので、明日歌たちはゴクリと息を呑んだ。
「半分嘘で、半分本当だ……って」
「それ、どういう……意味?」
困ったように口角を上げる小麦のその表情は、ここにはいない透巳に向けられたものだ。だが明日歌たちからすれば全く状況が飲み込めない発言なので、不安げな相好で首を傾げてしまう。
「……私のためなんです。透巳くんがすること全部、私のためなんです」
暗い影を落としつつも、どこか微笑みを浮かべている小麦は透巳との出会いについて語り始めた。透巳と小麦が中学二年生の頃、彼らは偶然出会い、深く深く関わっていくことになる。
あの時透巳と小麦が出会ったのは偶然かもしれない。だが苦しみ、恐怖に怯え続けていた小麦が透巳に救われるという未来は、必然だったのかもしれない。
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鈴音小麦は大人しく内向的で、自分の意思や意見をはっきり言うような性格では無かった。内気な性格とその整った容姿は良く言えば可愛らしく、悪く言えば弱々しく感じられた。
その性格が先天的なものか、後天的なものかは分からないが、大人しいのが本来の自分であると確信できる程度には、小さい頃から小麦は庇護欲をそそられる存在であった。
小麦が五歳の頃、両親が亡くなった。小麦は小さかったので今となってはどれ程悲しんだのか、両親がどういう人たちだったのか等はあまり記憶にない。両親の記憶よりも、小麦にとってはその後の凄惨な記憶の方が余程脳に刻まれてしまったからだ。
幼くして両親を失った小麦を引き取り、育ててくれたのは彼女の幼馴染の両親だった。
幼稚園で仲良くなった小麦の幼馴染――廓井梓紗は小麦とは正反対の性格の少女だった。明るくいつでもクラスの中心人物、引っ込み思案の小麦をいつでも引っ張ってくれる存在であり、彼女にとって親友と呼べる存在だった。
小麦の両親が亡くなるまでは。
梓紗の家で共に生活するようになってから、彼女はその本性を徐々に徐々に現していったのだ。初めに小麦が不信に感じ始めたのは、なんてことない一言からである。
「ねぇ!むぎは髪伸ばした方が可愛いよ!そしたら私とお揃いにもなるし!」
小学校入学の頃だ。そう言ってきた梓紗に小麦な僅かな違和感を覚えた。何故なら小麦のショートカットを似合っていると最初に褒めてくれたのが、他でもない梓紗だったからだ。
元々自分でもロングヘアーより短い方が似合うと感じていたので、小麦はそのヘアスタイルを変えるつもりはなかった。
なので突然そんなことを言い出した梓紗に小麦は上手く表現できない違和感を覚え、同時に後者が本音なのではないかと感じるようになった。
この出来事を皮切りに梓紗は事あるごとに、小麦のすることなすことに口出しするようになった。何でも自分と小麦のものを一緒にしなければ気が済まず、果てには彼女の性格にまで口を出すようになっていた。
「むぎは大人しすぎるよ。もっと明るく強くならなきゃ。私みたいにね!」
その発言はまるで、お前の様な根暗が自分の親友だと株が下がるから何とかしろと言われているようで、小麦は酷く傷ついた。事実、家の中で普段通りの状態でいても梓紗は文句一つ言わなかったのだ。
そして小学校中学年になった頃には、小麦は完全に梓紗の言動一つ一つを警戒するようになっていた。梓紗の提案を拒否したら最後、彼女は小麦に暴力を振るう様になっていたからだ。梓紗の両親にも、学校の生徒、教師たちにも気づかれないよう周到に。
少しでも反抗の意思を見せたら簡単に殴られ、首を絞められた。長時間鍵のかかった場所に閉じ込められたこともあった。
だから小麦はその頃から本来の自分を殺し、出来るだけ明るく過ごすように心がけていた。梓紗の言動全てを逐一観察し、肯定し、刺激しないよう努めて生きていくのが癖になる程に。
外で気を張っていればそれで済んでいた。だから小麦も大丈夫だと自分に言い聞かせてそれまで生活していた。だがそんな小麦にも、耐え難い出来事が起こり始めてしまう。
次は明後日更新予定です。
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