穢れた愛、それでも遺したもの4
小麦は手に伝わる僅かな痛みに顔を顰めつつ、通学路の道を進んだ。
西日もそろそろ落ちそうな時刻に、小麦と梓紗は手を繋ぎながら下校している。梓紗は終始にこやかな相好を崩していないが、小麦の手を握る力はいつもより強く、透巳とのことで憤怒しているのは明らかであった。
今まで梓紗の家族でさえも気づかなかった小麦との異質な関係を一瞥しただけで見抜き、その上梓紗を揺さぶる様なことを言ってのけた透巳に彼女が苛ついてしまうのは必然でもある。
『コソコソしたいなら、もっと上手くやれよ』
(……何なのよ、あの男……ただの落ちこぼれ生徒だと思ってたのに……)
透巳の方は梓紗のことを見透かしているというのに、梓紗の方は神坂透巳という人間のことを何も知らない状況に歯を食いしばってしまう。どんな人間なのか、その顔さえも知らない梓紗は自分にとって邪魔な存在になりそうな透巳のことを詳しく調べなければならないと、決意を固めつつ帰路に就いた。
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その日の深夜。梓紗の両親が寝静まったことを確認すると、いつものように彼女は小麦の身体を弄り始めた。数十分我慢すればそれで済むことだと、小麦は毎度自分に言い聞かせ出来るだけ拒絶しないよう心掛けていた。もし反抗の意思を見せれば、梓紗にどんな罰を与えられるか目に見えていたからだ。
小麦は梓紗に好き勝手される間、何か他のことを考えて気を紛らわせようと思った。そこでふと頭に浮かんだのは、透巳のことだった。
初めて聞いた透巳の声は平均より少し低く、それでいてよく通る声だった。他人に全く興味が無さそうという小麦の第一印象は当たっていたが、それでも一度認識した相手のことはよく見ている不思議な少年。小麦はそう感じた。
透巳は今まで会ってきたどんな人とも違い、独特の存在感を放っていた。彼と会話する以前から、ふとした時に目で追ってしまう様な雰囲気。だが小麦はその理由を今日漸く少しだけ理解できたような気がする。
小麦の人生において、誰かと友達になりたいと思ったことは無かった。そこまで興味をそそられる相手はいなかったし、そもそも梓紗がそれを許してくれるわけも無かったからだ。だが今日、小麦は初めて一人のクラスメイトのことをもっと知りたいと感じ、できればもっと話したいと叶いもしない望みを抱いてしまったのだ。
ふと、梓紗の手が無遠慮に下着の中に侵入しようとした。その時小麦はスローモーションのような世界で真っ黒な梓紗の手が身体中を這っている錯覚に襲われ、一気に冷や汗を流す。自身の身体には触られたことでべったりと付いた黒い手形が気味悪く残っていて、思わずガタガタと歯を鳴らしてしまう。
そして同時に思った。もしこんな行為をしていると透巳に見透かされてしまったら、自分が穢れている人間だと知られてしまったらどう思われてしまうのだろうと。
「いやっ……」
「…………いや?」
「っ……」
思わず本音を零してしまった小麦は、己の過ちに気づき咄嗟に口を片手で覆う。だが梓紗が聞き逃すはずもなく、一瞬にして彼女は冷たい視線で見下ろしてくる。
「ねぇ、むぎ。何が嫌なの?怒らないから言ってみてよ」
「ち、ちが……」
「違わないでしょ?私がむぎの言葉聞き間違えるわけないじゃない。ねぇ教えてよ。何が嫌?」
口角は上がっているのに、目が全く笑っていない梓紗は威圧感と共に小麦を問い詰めた。小麦が梓紗を拒絶してしまったのは久方ぶりで、小麦はどう返せばいいのか分からず震えたまま言葉を出すことが出来ない。
「もう……ちゃんと答えない悪い子には、お仕置きしないとね」
そう言った梓紗は小麦をうつ伏せの状態にすると、寝巻きがはだけて露わにされた真っ白な背中を掌で叩き始めた。パチーンという派手な音に隠れて、小麦は苦悶の声を漏らしてしまう。
梓紗はいつも服に隠れて見えないところを狙って攻撃してくるので、誰も彼女が小麦に振るう暴力に気づかないのだ。
梓紗から与えられる強烈な痛みに小麦が必死に耐えていると、うつ伏せの状態からあおむけの体勢に無理矢理変えさせられる。するとそのまま首を絞められ、小麦は上手く息が出来なくなってしまった。
「くぅっ…………」
「ねぇむぎぃ……私にはむぎしかいないの。むぎのことだけが好きで、むぎだけが私の全てで、むぎだけが私を否定しない存在で、むぎだけが私を受け入れてくれて、むぎだけが私の生きる意味なの。だから逃げないで、逃げないで、嫌がらないで、奪われないで、私以外の人間を見ないで、私以外に感情を動かさないで。喜ぶのも怒るのも悲しむのも楽しいのも全部私にだけ向けて。私以外の誰かに穢されたりしないで」
首を絞めながら途切れることなく言葉を綴った梓紗の瞳は焦点が合っておらず、生き狂っているようにも見え、小麦は思わず涙を浮かべる。
その涙が首を絞めていた梓紗の手に伝わると、彼女は徐々に手の力を抜いて小麦を解放してやった。
「ゴホッゴホッ!……コホッ」
「分かった?むぎ」
激しく咳き込む小麦のことなど気にする様子もない梓紗は先刻から一変、狂気的な笑みを浮かべて言い含めた。この時小麦は漸く、自分が浮かれていたことに気づいた。自分の心の内を簡単に解いた透巳に出会い、僅かな喜びと期待を抱いてしまっていたのだと。
だけどそんなものはまやかしにすぎないと、今改めて叩きつけられてしまった。小麦の人生は、小麦のものではない。小麦の人生は目の前の存在に支配され続けるしかないのだと、この時再確認させられたのだ。
暗い部屋の中、時計の規則的な針の音と梓紗の狂気的な笑みだけが、やけに五月蠅く小麦の頭を支配した。
********
「いたっ……」
次の日の授業中、小麦は背中に走る痛みに顔を顰めた。昨日散々叩かれたにも拘らず、碌な手当も出来ていなかったせいでヒリヒリと痛んできたのだ。不幸中の幸いだったのは、小麦と梓紗のクラスが別で、無理に平気な振りをしなくて済んだことだ。
今の小麦は痛みに耐えるのに必死で、いつもの相好を保つことなどできそうになかった。
「先生、鈴音さん体調悪いみたいなので保健室連れて行ってもいいですか?」
唐突に挙手した透巳は授業を担当する教師にそう頼んだ。小麦は自身の体調不良を逸早く察知した透巳に少々驚き、目を見開く。そして同時に小麦は危惧した。何故なら昨日梓紗に透巳とは関わるなと言われたばかりで、もしこのことがバレれば更に辛い目に遭わされてしまうのではないかと思ったからだ。
「あら、そうなの?そういうことならお願いね」
「はい」
そんな小麦の不安など教師は知る由も無いので、あっさりと透巳の申し出を受け入れた。透巳はそのまま立ち上がると、有無を言わさぬ態度で小麦の手を引き教室を後にしたのだった。
********
保健室の扉をノックしても返事はなく、そのまま扉を開けても中に人は一人もいなかった。養護教諭は用事で席を外しているようで、他に体調不良の生徒などもいないようだった。
「誰もいないし……ま、いっか」
透巳は躊躇なく保健室に入ると、小麦を椅子に座らせて怪我の手当てを始めようとした。保健室には湿布や消毒液、絆創膏などが大量にあるので、目当てのものを見つけるには多少の時間を要してしまう。
「痛むの背中だよね?叩かれた?」
「えっ…………な、なんで」
またもやあっさりと見透かされてしまったことで、小麦は当惑してしまう。昨日のことで自分と梓紗の関係が少し異質であることはバレているとは思っていたが、まさか暴力を振るわれていることまでお見通しだとは思わなかったのだ。
「……あの女もあの女だけど、君も隠す気あるならもっとポーカーフェイス覚えなよ」
「あっ……」
この時ようやく、自分は透巳に鎌をかけられたのだということを小麦は理解した。透巳は当然小麦の怪我の原因が梓紗であると断定できるほどの材料を持ち合わせていない。だが小麦があんな風に返答すれば、それが事実であることなど誰にだって分かってしまう。
「あ、あった…………湿布貼るから制服めくるよ」
「えっ!?」
保健室の棚から何とか湿布を発見した透巳は、恥ずかし気もなくそう言った。背中とは言え、異性に素肌を見られてしまうという羞恥心と、傷ついた身体を見られたくないという拒否反応で、小麦は思わず大声を上げてしまう。
「ちょ……まっ……」
「あー、やっぱり赤くなってる。放っておいたらでっかい痣できちゃうよ」
小麦の静止の声も聞かず、透巳は小麦のシャツを背中側からめくった。すると透巳の眼前には、梓紗に叩かれたことによって出来た真っ赤な痕があり、思わず顔を顰めてしまう。
その傷跡に蓋をしようと、湿布を取り出した時。透巳は彼女の背中に数え切れないほどの古傷があることに気づいた。そんな小麦の身体は震えていて、透巳は後ろから彼女の顔を覗き込む。
「……み、見ないで……こんな、穢れた身体」
「穢れた?」
小麦は悔し気に涙を浮かべながら肩を震わせており、透巳は思わず首を傾げた。確かに傷の多い身体だが、だからと言って穢れているということに繋がる理由が分からなかったからだ。
「確かに痛々しい身体ではあるけど……綺麗な白い肌に惨いことするね」
「……神坂くんには隠し事できないと思うから言うけど…………私のこの傷、せ……っ……」
意を決した小麦は、梓紗に今までされてきた性的暴行のことを透巳に告げようとした。だがその事実を伝えようとした途端声が出なくなってしまい、小麦は当惑しながら喉元を押さえる。
梓紗の支配に対する恐怖が分かりやすく身体に現れるほど深刻化しているとは思わず、一気に鳥肌が立ってしまったのだ。
「別に無理に言わなくていいよ。何となく分かるし」
「っ……」
「でも取り敢えず言っておくけど、人はそんなことでは穢れないよ」
やはり透巳には何でもお見通しなのだと感じ、ビクリと反応してしまった小麦だが、初めて聞いた透巳の優しい言葉に思わずポカンとしてしまった。
「それにキツイことを言うけど、酷いことをされているから穢れているなんて自意識過剰なうえ傲慢だよ。君意外にそういう被害を受けている全ての人を貶めてるってこと、ちゃんと分かってる?」
「っ……ごめんなさい」
「俺に謝られても困るけど」
透巳の言うことは正論過ぎて、小麦は反論する気など起こる間もなく頭を下げた。この世に性的暴行を受けている人など探せば多くいる。小麦が自身を穢れていると卑下するのは、他の被害者をも否定するのと同義だということに小麦は気づいていなかった。というよりも、気づくほど余裕が無かったのだ。
「あ、湿布貼っていい?」
「う、うん。ありがとう……」
透巳が手を離したことで元に戻った制服の裾を再び上げて、彼は湿布を貼り始めた。
自身に対して興味が無いかと思えば、あっさりと心の内を見透かしてみたり。優しいのかと思えば、厳しいことを言ってみたり。かと思えば何でも無い様に話を変えてしまったり。
小麦は様々な顔を見せる透巳に当惑しつつ、優しく脈打つ鼓動に不思議な感覚を覚える。
「つめたっ……」
「あ、ごめん。これ冷たいやつだ」
「だ、大丈夫」
背中にヒヤリとした感触が伝わり、小麦は思わず声を上げて反応した。透巳は即座に陳謝したが、小麦の傷なら冷湿布の方が効き目があるので彼の判断は間違っていない。
突如襲ってくる冷たさに耐え、透巳による手当てを享受した小麦。制服を整え、教室に戻ろうとしたその時、保健室の扉が開けられた。
授業の終わりを知らせる鐘はまだ鳴っていない。だからこそ小麦は油断していたのだ。透巳の傍にいると、いつも感じている言いようのない恐怖が薄れていくようだったから。
「あれ?むぎ、こんなところでどうしたの?」
「あ、梓紗……」
保健室を訪れてきたのは授業を受けているはずの梓紗で、小麦は驚きと恐怖で声を震わせる。一方の透巳は平静を保っていたが、内心ではそこそこ驚いていた。
授業を抜け出したにしても、どうやって別のクラスの梓紗が小麦の行動を把握することが出来たのかが謎だったからだ。
「具合悪そうだったから俺が無理やり連れてきただけ。この子は嫌がってたけど」
「そう……わざわざ連れてきてくれてありがとう。でももう大丈夫よ。私がむぎについているから」
透巳は小麦のことを気遣って、ここにいるのは彼女の本意では無かったと梓紗に伝えた。だがそんなものは気休め程度にしかならないことを透巳も小麦も理解している。
透巳に規則的な笑みを浮かべた梓紗の発言は要するに、「お前はもう不必要だからさっさと出ていけ」という意味なのだから。
次は明後日更新予定です。
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