第230話「フラグメンツの一杯、ただいま」
いよいよ最終話です。
フラグメンツの扉を開けると、いつもの匂いがした。
エルフ式の果実酒と、ドワーフ式の蒸留酒と、獣人族の炙り肉。
消滅した世界の欠片たちが、それぞれの流儀のまま、一つの店の中で混ざり合っている匂いだった。
その夜の店は、いつもより静かだった。
客がいないわけではない。
常連たちは、いつもどおり卓を囲んでいる。
ただ、誰もが少しだけ声を落として、カウンターのほうを見ていた。
カウンターの一番端の席に、長身の男が一人座っていた。
鎧は着ていない。
ギルドが用意した、飾り気のない麻の服を着ている。
蘇生の祈りから三日。
ベーダーは、ようやく自分の足で歩けるようになったところだった。
六人とダダは、店の隅の卓に座っていた。
カインの肩の上には、ミーが丸くなっている。
「本当に、来たね」
ネリスが、小声で言った。
「来るさ」
ダダが、麦酒の杯を両手で包んだまま答えた。
「約束だったんだろう」
カウンターの奥から、ガラントが出てきた。
両手で、一つの杯を大事そうに運んでいる。
なみなみと注がれた、琥珀色のエールだった。
ガラントは、ベーダーの前に立った。
杯を、そっと置く。
こぼれないように、ゆっくりと。
「十五年、仕込み続けた」
ガラントの声は、いつもの店主の声より、少しだけ低かった。
「お前が好きだった配合だ。記憶を頼りに、毎年、少しずつ直してきた。合ってるかどうかは、わからん」
ベーダーは、杯を見下ろした。
長いあいだ、手を伸ばさなかった。
それから、両手で杯を持ち上げ、一口だけ飲んだ。
店の中の誰もが、息を詰めていた。
ベーダーは、杯を置いた。
「……少し、甘い」
ガラントの肩が、びくりと揺れた。
「だが」
ベーダーは、もう一口飲んだ。
「こっちのほうが、うまい」
ガラントは、何も言えなかった。
太い腕で、目元を乱暴にこすった。
「今度は」
ガラントの声が、かすれた。
「今度は、逃げずに、待ったぞ」
ベーダーは、ガラントを見上げた。
十五年前、殿に立って仲間を逃がした男の顔で。
十五年間、迷宮の底で一人見張り続けた男の顔で。
「ああ」
ベーダーは、少しだけ笑った。
「ただいま」
ガラントは、カウンターに両手をついて、うつむいた。
肩が、大きく震えていた。
声は、なかった。
店の扉が、また開いた。
入ってきたのは、ルーシェナだった。
いつもの気楽な足取りで店の奥まで歩いてくると、カウンターの前の古い卓の前で立ち止まった。
六人掛けの、使い込まれた卓だった。
常連たちが、なぜかいつも座らずに空けておく卓。
ルーシェナは、その卓の、一番端の椅子を引いた。
背後を締める者の席。
十五年前、彼女がいつも座っていた場所だった。
「ベーダー」
ルーシェナが、呼んだ。
「こっちに座りなさい。あなたの席、ずっと空いてたんだから」
ベーダーは、杯を手に立ち上がった。
少しだけよろめいて、ガラントがすかさずカウンター越しに腕を伸ばした。
ベーダーは、その腕につかまって、古い卓まで歩いた。
卓の真ん中の席に、腰を下ろす。
ガラントも、エプロンを外して、その隣に座った。
六つの椅子のうち、三つが埋まった。
残りの三つは、空いたままだった。
けれど、誰もそれを寂しいとは言わなかった。
「エランドが、あの二人のこと、見張りを外してくれたんですって」
ミラが、小声で言った。
「エアの見張りも、全部、自分で引き受けるって」
「ミーの口で、偉そうに言ってたね」
ネリスが、カインの肩のミーを見た。
ミーは、知らん顔で丸くなっていた。
古い卓では、三人が話し込んでいた。
何を話しているのかは、隅の卓までは聞こえなかった。
ときどき、ガラントの大きな笑い声が響いた。
ときどき、ルーシェナがガラントの頭をはたく音がした。
ベーダーは、ほとんど黙って聞いていた。
ただ、杯を口に運ぶたびに、少しずつ表情がほどけていった。
しばらくして、ベーダーが古い卓から立ち上がった。
ガラントの腕につかまりながら、隅の卓まで歩いてくる。
六人とダダは、思わず背筋を伸ばした。
「礼を、言い損ねていた」
ベーダーは、六人の顔を一人ずつ見た。
「迷宮の外に連れ出してくれた。この一杯を、飲ませてくれた」
「俺たちは、運んだだけで」
カインが言いかけると、ベーダーは首を振った。
「運んでくれる者がいなければ、私は今もあの底だ」
ベーダーの目が、カインの剣の柄頭に落ちた。
「その石は」
「俺の最初の召喚獣です。あの底まで、器を守って運んでくれた」
「そうか」
ベーダーは、柄頭の石に向かって、軽く頭を下げた。
「礼を言う」
それから、ガラントに肩を借りて、古い卓へ戻っていった。
少しして、ガラントが隅の卓に大皿を置いた。
炙り肉が、山のように盛られていた。
「奢りだ。今夜だけな」
「今夜だけ?」
ネリスが聞き返すと、ガラントはにやりと笑った。
「明日からは、きっちり取る。ノア帰りの冒険者は、いい客だからな」
「……いいね」
ノリアが、ぽつりと言った。
「いいでござるな」
ワングが、頷いた。
スルは、黙ってネリスの杯に果実酒を注ぎ足していた。
ダダは、麦酒の杯を見つめたまま、しばらく動かなかった。
「どうした」
カインが聞いた。
「いや」
ダダは、首を振った。
「ああいう卓を、いつか、俺たちも囲むんだろうなと思っただけだ」
「もう囲んでるだろ」
カインは、自分たちの卓を指で叩いた。
六人とダダと、肩の上の子猫。
「……そうだったな」
ダダは、ふんと鼻を鳴らした。
鳴らしたが、口元は笑っていた。
翌朝、ダダは夜明け前に炉に火を入れた。
乾いた炭が爆ぜる音が、静かな工房に小さく響く。
日が昇りきるまでの、この小一時間が、一日でいちばん好きな時間だった。
朝一番の客は、いつもの老人だった。
農具の刃を研ぎに来る、それだけの用事に、毎朝欠かさず顔を出す。
「今日も精が出るな」
老人が、いつもの調子で声をかけてくる。
「精を出さないと、腕が鈍るでな」
ダダは、いつもどおりに答えた。
研ぎ賃は、銅貨三枚。
老人は、研ぎ上がった鎌の刃を朝の光にかざして、満足そうに頷いた。
「そういや、何日か前、昼間に妙な風が吹いたろう」
老人が、ふと思い出したように言った。
「畑で、みんな空を見上げてな。何だったんだろうな、あれは」
「さあな」
ダダは、槌を握り直した。
「カレントでも、動いたんだろう」
「かもしれんな」
老人は笑って、鎌を担いで帰っていった。
ダダは、その背中を見送ってから、また槌を振るい始めた。
棚の上には、三筋の炎の小さな札を、父に頼んで一枚打ってもらって掛けてあった。
今日も、六人の得物を打つ。
六人を、戦わせ続けるための剣を。
同じ朝、クロスロードの奥で、道は三つに分かれていた。
まっすぐ奥へ伸びる道には、ギルドの新しい縄が張られていた。
ズールへの道。
今はまだ、誰もそこを歩かない。
右へ折れれば、エア。
そして、左へ下れば、ノア。
新人の笑い声と、ベテランのぼやきが絶えない、いちばん賑やかな道。
六人は、左の道の先、ノアの入口の前に立っていた。
「……本当に、ノアでいいの」
ノリアが、首を傾げた。
「ズールを越えたパーティが、一層から」
「いいんだよ」
カインは、剣の柄頭を親指で撫でた。
ゴーレムの核の石が、朝の光を受けて、ほんのりと温かかった。
「魔石、街じゅうから集めちゃったからな。返さないと」
「返すって、潜って拾うってこと?」
ネリスが呆れた声を出した。
「そういうこと」
「気の長い話でござるな」
ワングが、笑った。
「だが、悪くないでござる」
「ノア帰りに、フラグメンツで一杯」
ミラが、指を折った。
「それが、いちばんいい」
「賛成」
スルが、短く言った。
リゼットが、窓口から顔を上げた。
「行ってらっしゃい」
いつもと同じ、事務的な一言だった。
六人も、いつもと同じように手を上げた。
ズールを越えても、ノア帰りは続く。
それが、この街の冒険者の、いつもの一日だった。
カインの肩の上で、ミーがあくびをした。
小さな口が、開く。
「みゃー」
それから、少しだけ間を置いて、もう一言。
「行くぞ」
エランドの声だった。
六人は顔を見合わせて、笑った。
そして、ノアの入口をくぐった。
いかがでしょうか。
ちょっとダケ、エピローグあります。
こちらも、よろしくお願いいたします。




