↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『マラン、はじまりの迷宮』〜わからないことばかりの、迷宮攻略記〜  作者: 奇木 尋
第十部 ズール 器と魔石と、そして・・・

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

236/237

第230話「フラグメンツの一杯、ただいま」

いよいよ最終話です。

フラグメンツの扉を開けると、いつもの匂いがした。

エルフ式の果実酒と、ドワーフ式の蒸留酒と、獣人族の炙り肉。

消滅した世界の欠片たちが、それぞれの流儀のまま、一つの店の中で混ざり合っている匂いだった。

その夜の店は、いつもより静かだった。

客がいないわけではない。

常連たちは、いつもどおり卓を囲んでいる。

ただ、誰もが少しだけ声を落として、カウンターのほうを見ていた。

カウンターの一番端の席に、長身の男が一人座っていた。

鎧は着ていない。

ギルドが用意した、飾り気のない麻の服を着ている。

蘇生の祈りから三日。

ベーダーは、ようやく自分の足で歩けるようになったところだった。

六人とダダは、店の隅の卓に座っていた。

カインの肩の上には、ミーが丸くなっている。

「本当に、来たね」

ネリスが、小声で言った。

「来るさ」

ダダが、麦酒の杯を両手で包んだまま答えた。

「約束だったんだろう」

カウンターの奥から、ガラントが出てきた。

両手で、一つの杯を大事そうに運んでいる。

なみなみと注がれた、琥珀色のエールだった。

ガラントは、ベーダーの前に立った。

杯を、そっと置く。

こぼれないように、ゆっくりと。

「十五年、仕込み続けた」

ガラントの声は、いつもの店主の声より、少しだけ低かった。

「お前が好きだった配合だ。記憶を頼りに、毎年、少しずつ直してきた。合ってるかどうかは、わからん」

ベーダーは、杯を見下ろした。

長いあいだ、手を伸ばさなかった。

それから、両手で杯を持ち上げ、一口だけ飲んだ。

店の中の誰もが、息を詰めていた。

ベーダーは、杯を置いた。

「……少し、甘い」

ガラントの肩が、びくりと揺れた。

「だが」

ベーダーは、もう一口飲んだ。

「こっちのほうが、うまい」

ガラントは、何も言えなかった。

太い腕で、目元を乱暴にこすった。

「今度は」

ガラントの声が、かすれた。

「今度は、逃げずに、待ったぞ」

ベーダーは、ガラントを見上げた。

十五年前、殿に立って仲間を逃がした男の顔で。

十五年間、迷宮の底で一人見張り続けた男の顔で。

「ああ」

ベーダーは、少しだけ笑った。

「ただいま」

ガラントは、カウンターに両手をついて、うつむいた。

肩が、大きく震えていた。

声は、なかった。

店の扉が、また開いた。

入ってきたのは、ルーシェナだった。

いつもの気楽な足取りで店の奥まで歩いてくると、カウンターの前の古い卓の前で立ち止まった。

六人掛けの、使い込まれた卓だった。

常連たちが、なぜかいつも座らずに空けておく卓。

ルーシェナは、その卓の、一番端の椅子を引いた。

背後を締める者の席。

十五年前、彼女がいつも座っていた場所だった。

「ベーダー」

ルーシェナが、呼んだ。

「こっちに座りなさい。あなたの席、ずっと空いてたんだから」

ベーダーは、杯を手に立ち上がった。

少しだけよろめいて、ガラントがすかさずカウンター越しに腕を伸ばした。

ベーダーは、その腕につかまって、古い卓まで歩いた。

卓の真ん中の席に、腰を下ろす。

ガラントも、エプロンを外して、その隣に座った。

六つの椅子のうち、三つが埋まった。

残りの三つは、空いたままだった。

けれど、誰もそれを寂しいとは言わなかった。

「エランドが、あの二人のこと、見張りを外してくれたんですって」

ミラが、小声で言った。

「エアの見張りも、全部、自分で引き受けるって」

「ミーの口で、偉そうに言ってたね」

ネリスが、カインの肩のミーを見た。

ミーは、知らん顔で丸くなっていた。

古い卓では、三人が話し込んでいた。

何を話しているのかは、隅の卓までは聞こえなかった。

ときどき、ガラントの大きな笑い声が響いた。

ときどき、ルーシェナがガラントの頭をはたく音がした。

ベーダーは、ほとんど黙って聞いていた。

ただ、杯を口に運ぶたびに、少しずつ表情がほどけていった。

しばらくして、ベーダーが古い卓から立ち上がった。

ガラントの腕につかまりながら、隅の卓まで歩いてくる。

六人とダダは、思わず背筋を伸ばした。

「礼を、言い損ねていた」

ベーダーは、六人の顔を一人ずつ見た。

「迷宮の外に連れ出してくれた。この一杯を、飲ませてくれた」

「俺たちは、運んだだけで」

カインが言いかけると、ベーダーは首を振った。

「運んでくれる者がいなければ、私は今もあの底だ」

ベーダーの目が、カインの剣の柄頭に落ちた。

「その石は」

「俺の最初の召喚獣です。あの底まで、器を守って運んでくれた」

「そうか」

ベーダーは、柄頭の石に向かって、軽く頭を下げた。

「礼を言う」

それから、ガラントに肩を借りて、古い卓へ戻っていった。

少しして、ガラントが隅の卓に大皿を置いた。

炙り肉が、山のように盛られていた。

「奢りだ。今夜だけな」

「今夜だけ?」

ネリスが聞き返すと、ガラントはにやりと笑った。

「明日からは、きっちり取る。ノア帰りの冒険者は、いい客だからな」

「……いいね」

ノリアが、ぽつりと言った。

「いいでござるな」

ワングが、頷いた。

スルは、黙ってネリスの杯に果実酒を注ぎ足していた。

ダダは、麦酒の杯を見つめたまま、しばらく動かなかった。

「どうした」

カインが聞いた。

「いや」

ダダは、首を振った。

「ああいう卓を、いつか、俺たちも囲むんだろうなと思っただけだ」

「もう囲んでるだろ」

カインは、自分たちの卓を指で叩いた。

六人とダダと、肩の上の子猫。

「……そうだったな」

ダダは、ふんと鼻を鳴らした。

鳴らしたが、口元は笑っていた。

翌朝、ダダは夜明け前に炉に火を入れた。

乾いた炭が爆ぜる音が、静かな工房に小さく響く。

日が昇りきるまでの、この小一時間が、一日でいちばん好きな時間だった。

朝一番の客は、いつもの老人だった。

農具の刃を研ぎに来る、それだけの用事に、毎朝欠かさず顔を出す。

「今日も精が出るな」

老人が、いつもの調子で声をかけてくる。

「精を出さないと、腕が鈍るでな」

ダダは、いつもどおりに答えた。

研ぎ賃は、銅貨三枚。

老人は、研ぎ上がった鎌の刃を朝の光にかざして、満足そうに頷いた。

「そういや、何日か前、昼間に妙な風が吹いたろう」

老人が、ふと思い出したように言った。

「畑で、みんな空を見上げてな。何だったんだろうな、あれは」

「さあな」

ダダは、槌を握り直した。

「カレントでも、動いたんだろう」

「かもしれんな」

老人は笑って、鎌を担いで帰っていった。

ダダは、その背中を見送ってから、また槌を振るい始めた。

棚の上には、三筋の炎の小さな札を、父に頼んで一枚打ってもらって掛けてあった。

今日も、六人の得物を打つ。

六人を、戦わせ続けるための剣を。

同じ朝、クロスロードの奥で、道は三つに分かれていた。

まっすぐ奥へ伸びる道には、ギルドの新しい縄が張られていた。

ズールへの道。

今はまだ、誰もそこを歩かない。

右へ折れれば、エア。

そして、左へ下れば、ノア。

新人の笑い声と、ベテランのぼやきが絶えない、いちばん賑やかな道。

六人は、左の道の先、ノアの入口の前に立っていた。

「……本当に、ノアでいいの」

ノリアが、首を傾げた。

「ズールを越えたパーティが、一層から」

「いいんだよ」

カインは、剣の柄頭を親指で撫でた。

ゴーレムの核の石が、朝の光を受けて、ほんのりと温かかった。

「魔石、街じゅうから集めちゃったからな。返さないと」

「返すって、潜って拾うってこと?」

ネリスが呆れた声を出した。

「そういうこと」

「気の長い話でござるな」

ワングが、笑った。

「だが、悪くないでござる」

「ノア帰りに、フラグメンツで一杯」

ミラが、指を折った。

「それが、いちばんいい」

「賛成」

スルが、短く言った。

リゼットが、窓口から顔を上げた。

「行ってらっしゃい」

いつもと同じ、事務的な一言だった。

六人も、いつもと同じように手を上げた。

ズールを越えても、ノア帰りは続く。

それが、この街の冒険者の、いつもの一日だった。

カインの肩の上で、ミーがあくびをした。

小さな口が、開く。

「みゃー」

それから、少しだけ間を置いて、もう一言。

「行くぞ」

エランドの声だった。

六人は顔を見合わせて、笑った。

そして、ノアの入口をくぐった。


いかがでしょうか。

ちょっとダケ、エピローグあります。

こちらも、よろしくお願いいたします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。