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『マラン、はじまりの迷宮』〜わからないことばかりの、迷宮攻略記〜  作者: 奇木 尋
第十部 ズール 器と魔石と、そして・・・

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第228話「クロスロードの祈り、十五年の終わり」

本日の話を含めて、3話となりました。

最後までお読みください。

感想をいただけると幸いです。

アーチをくぐった瞬間、足の裏に石畳の感触が戻ってきた。

ズールの門の前だった。

番人が、砂時計を握ったまま立ち上がっていた。

砂は、すっかり落ちきっていた。

「……戻ったか」

番人の声が、かすれていた。

「一日と半分、戻らなんだ。ギルドには、とうに知らせてある」

「すみません」

カインは、頭を下げた。

それから、自分の手のひらを見下ろした。

紋様が、脈を打つように熱を帯びている。

中で、ベーダーが待っている。

「急ごう」

カインが言うと、五人が頷いた。

クロスロードの奥の広間には、魔石の山がまだ少しだけ残っていた。

その脇に、ルーシェナが立っていた。

番人の知らせを受けて、ずっとここで待っていたらしい。

六人の顔を見て、ルーシェナは一度だけ目を閉じた。

「全員ね」

「全員です」

カインが答えた。

「それと、もう一人」

ルーシェナの目が、カインの手のひらに落ちた。

何も聞かなかった。

聞かなくても、わかったようだった。

広間の入口から、重い足音が駆け込んできた。

ダダだった。

工房から走ってきたらしく、髭に煤がついたままだった。

「……全員か」

息を切らしながら、ダダが六人の顔を順に数えた。

「全員」

カインが答えると、ダダは大きく息を吐いて、その場に立ち尽くした。

「おかえり」

それだけ言って、ダダはそっぽを向いた。

「ガラントさんには」

ミラが、ルーシェナに聞いた。

「まだ言ってないわ」

ルーシェナは、首を振った。

「あの人の顔は、あの人の店で見たいでしょう。それに、ガラントが泣くところ、ここの職員に見せるのは気の毒よ」

ミラが、広間の真ん中に進み出た。

スルが蘇生の祈りを受けたときと、同じ場所だった。

床の石の、少しだけ色の違う一枚。

あの日も、ミラはここに膝をついた。

「カイン」

ミラが、振り返った。

スルが、ミラの背中を見ていた。

あの日、ここで蘇ったのはスル自身だった。

目を開けたとき、最初に見えたのは泣きそうな顔のネリスと、汗だくのミラだったという。

「ミラなら、できる」

スルが、短く言った。

ミラは、振り返らずに頷いた。

「いいよ」

カインは頷き、紋様に指を重ねた。

呼び出すのではなく、召喚を解くための印。

ゴーレムを送り出したときと、同じ印だった。

「ベーダーさん」

紋様から、光があふれた。

光は石の床の上で人の形になり、全身鎧の長身の戦士が現れた。

ベーダーは、一歩だけ立っていた。

それから、音を立てて崩れ落ちた。

鎧の脇腹から、黒ずんだ血が床に広がっていく。

兜が転がり落ち、中から顔が現れた。

痩せた、日に焼けた男の顔だった。

十五年前のまま、年を取っていない顔。

目は閉じていた。

胸は、もう動いていなかった。

広間の入口で、誰かが息を呑む音がした。

騒ぎを聞きつけた職員たちが、遠巻きに集まり始めている。

リゼットが、黙って人垣の前に立ち、それ以上誰も近づけないようにしていた。

ミラが、ベーダーの傍らに膝をついた。

両手を、ベーダーの胸の上にかざす。

スルのときと、同じ手順だった。

同じ場所で、同じ祈りを。

ネリスが、スルの袖をつかんでいた。

スルは、何も言わずにその手を握り返していた。

「蘇生の祈り・真」

ミラの声が、広間に静かに響いた。

淡い光が、ミラの手のひらから降りていく。

光は、ベーダーの胸に触れ、鎧の隙間から中へ染み込んでいった。

何も起こらなかった。

十を数えるあいだ、何も。

ミラの額に、汗が浮かんだ。

唇が、祈りの言葉の続きを繰り返している。

カインは、拳を握りしめていた。

(間に合え)

ミラの背中が、そう言っているように見えた。

今度は、間に合わせる。

ズールの渦の中で、ペトラの空っぽの手を包みながら、ミラはそう言ったのだ。

二十を数えたころだった。

ベーダーの指が、ぴくりと動いた。

脇腹の傷口で、黒ずんだ血が止まる。

裂けた肉が、内側からゆっくりと閉じていく。

十五年ぶんの時間が、ようやく傷から剥がれ落ちていくように。

ベーダーの胸が、大きく一度、上下した。

「……っ」

咳き込むような音がした。

ベーダーの目が、開いた。

焦点の合わない目が、天井を見上げ、それからミラを見た。

「……ここは」

「クロスロードです」

ミラが、震える声で答えた。

「迷宮の、外です」

ベーダーは、しばらく黙っていた。

それから、ゆっくりと手を持ち上げ、自分の顔に触れた。

兜のない、自分の顔に。

「外、か」

その声が、ひどく小さかった。

人垣の前にいたリゼットが、一歩だけ進み出た。

「クロスロードへ、おかえりなさい」

いつもと同じ、事務的な声だった。

それでも、いつもより少しだけ柔らかかった。

「入場記録の、十五年前の分。帰還の欄に、今日の日付を入れておきます」

ベーダーは、リゼットを見上げて、かすかに頷いた。

ミラは、両手を膝の上に下ろした。

下ろした手が、震えていた。

それを見て、ノリアがミラの隣にしゃがみ込み、黙って肩を寄せた。

カインは、自分の手のひらを見下ろした。

紋様の中にいたはずの気配が、消えていた。

ベーダーが人として蘇った瞬間に、契約はほどけたのだ。

紋様に残っているのは、肩の上の白い子猫の分だけだった。

「ミー、だけになっちゃったね」

ネリスが、カインの手元を覗き込んだ。

「三つあった枠が、二つ空いた」

「……うん」

カインは、紋様を指でなぞった。

ゴーレムの枠。

ララの枠。

どちらも、今は空っぽだった。

「新しいのと、契約する?」

ネリスが聞いた。

カインは、少し考えてから首を振った。

「空けとく」

「空けとくの?」

「ああ」

カインは、ゴーレムの核の石が入った懐に、そっと手を当てた。

「あそこは、ゴーレムとララの席だ。誰かに座らせる気には、まだならない」

「まだ、でござるか」

ワングが、小さく笑った。

「ずっと、かもな」

カインも、笑い返した。

肩の上で、ミーが一度だけしっぽを揺らした。

そのとき、人垣が静かに割れた。

ルーシェナが、ベーダーの前に歩み出た。

ベーダーは、床に手をついて、どうにか上体を起こしていた。

その目が、ルーシェナを捉えた。

ほんの少しだけ、見開かれた。

「……ルーシェナ、か」

「ええ」

ルーシェナは、ベーダーの前に立ったまま、見下ろしていた。

いつもの、ノリの良い姉ちゃんの顔ではなかった。

ギルド長の顔でもなかった。

十五年前、同じパーティで背後を締めていた、仲間の顔だった。

「背が、伸びたか」

ベーダーが、かすれた声で言った。

「伸びてないわよ。エルフだもの」

ルーシェナは、そう言って、ふっと笑った。

笑いながら、その目の端から、一粒だけ涙がこぼれた。

「毎晩、夢を見たわ。あの夜の夢」

ルーシェナは、ベーダーの前に膝をついた。

「あなたが殿に立って、私たちが背中を向けて走る夢。何度見ても、振り返ると、あなたの背中が闇に消えていくの」

ルーシェナは、ベーダーの肩に手を置いた。

鎧越しでも、確かにそこにある肩だった。

「……もう、見なくていいのね」

ベーダーは、答えなかった。

代わりに、ルーシェナの手の上に、自分の手を重ねた。

十五年の夢が、そこで終わった。

その夜、アーカイブの奥で、ティリーは一冊の古い記録帳を開いていた。

十五、六年前の、エアの未帰還記録。

頁をめくる指が、ある一行の上で止まる。

代表、ベーダー。

帰還せず。

ティリーは、ペンを手に取った。

それから、長いあいだ動かなかった。

書くべきことは、たくさんあった。

ズールのこと。

迷宮を司る方のこと。

八十年前の六人のこと。

けれど、そのどれも、言葉にしようとすると文字が並ばない気がした。

並んだとしても、それは記録というより、物語になってしまう気がした。

ティリーは、ペン先を紙に置いた。

帰還せず、の横に、小さく一行だけ書き足す。

十五年後、帰還。

それだけ書いて、ティリーはペンを置いた。

記録帳を閉じる前に、もう一度だけその一行を眺めた。

わからないことは、わからないまま書く。

それが、ティリーのやり方だった。

けれど、この一行だけは、わかっていることを、わかっているとおりに書けた。

ティリーは、少しだけ口の端を上げて、記録帳を閉じた。


あと2話です。エピローグもあります。

よろしくお願いいたします。

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