第227話「帰る者、見送る者」
がしゃん、と重い音がした。
振り返ると、ベーダーが片膝をついていた。
長剣を杖のように床に突き、兜の奥で荒い息をしている。
「ベーダーさん!」
ミラが駆け寄った。
ベーダーの鎧の脇腹に、さっきまでなかった裂け目が走っていた。
その奥から、黒ずんだ血がにじみ出している。
「……十五年前の、傷だ」
ベーダーが、かすれた声で言った。
「殿を務めたときに、受けた」
「見張りの役目が、解けたのだ」
白い炎の中から、エランドの声がした。
「エアの見張りも、三層の分も、今はわしがまとめて引き受けておる。役目を降りた者は、役目を負った日の体に戻る」
「戻る、って」
ネリスが、耳を伏せた。
「迷宮の中では、長くはもたん」
アシェルが、膝をついたまま言った。
ミラが、ベーダーの脇腹に手を当てた。
「完全治癒」
光が、傷口を包んだ。
けれど、血は止まらなかった。
光が、傷の手前で押し返されていく。
「……効かない」
ミラの声が震えた。
「迷宮の中では、十五年ぶんの時が、傷のほうについておる」
アシェルが、静かに言った。
「外に出れば、話は別だ。スルのときのようにな」
スルが、はっと顔を上げた。
迷宮の中で死に、召喚獣として六人の壁に数えられずに外へ出て、クロスロードで蘇生の祈りを受けた。
スル自身が、そうやって戻ってきたのだ。
「召喚獣としてなら、連れて出られる」
カインは、自分の手のひらを見下ろした。
ゴーレムの契約をほどいたばかりの紋様。
枠が、一つ空いている。
アシェルは、そこまで見越していたのだ。
「ベーダーさん」
カインは、ベーダーの前にしゃがんだ。
「俺と、契約してくれませんか」
ベーダーの兜が、ゆっくりとカインを向いた。
「三層で言ったな。我は召喚契約の対象となりうるが、その方の召喚スキルでは無理だ、と」
「……言われました」
「今なら、届くかもしれん」
ベーダーは、手甲に覆われた手をカインへ差し出した。
カインは、その手に自分の手のひらを重ね、印を組んだ。
紋様が光る。
けれど、光は途中で揺らいだ。
ベーダーという存在の重さに、カインの印が追いつかない。
そのとき、カインの手の上に、もう一つの手が重なった。
ほどけかけた、透けた指。
アシェルの手だった。
「わしは、帰れん」
アシェルが言った。
「だが、帰る者を送り出すことはできる」
アシェルの手のひらの紋様が、カインの紋様に重なった。
二つの印が一つになり、光が、まっすぐにベーダーへ届いた。
ベーダーの体が、淡い光に包まれた。
「契約、成った」
アシェルが、手を離した。
「迷宮を出るまで、紋様の中で休ませておけ。中にいれば、傷は進まん」
カインは頷き、ベーダーを見た。
「ガラントさんが、待ってます」
ベーダーの兜の奥で、何かがわずかに揺れた。
「……ああ」
それだけ言って、ベーダーは光の粒になり、カインの手のひらの紋様へ吸い込まれていった。
カインは、その手をしばらく握りしめていた。
それから、紋様にもう一度指を重ねた。
「ララ」
淡い光の中から、エルフの魔法使いが現れた。
ララは辺りを見回し、アシェルの隣に並ぶ四人を見た。
それから、カインを見た。
「呼び戻してくれて、ありがとう」
「約束だったからな」
ララは、少し笑った。
それから、自分の胸に手を当てた。
「カイン。私、この契約、自分で解く」
カインは、驚かなかった。
どこかで、そうなるとわかっていた。
「……行くのか」
「うん。みんなと一緒に」
ララは、アシェルたちのほうを振り返った。
「八十年、一人だけ迷子だったから」
それから、カインに向き直った。
「最初は、頼まれたから、戦ってた」
ララの声は、静かだった。
「でも、途中からは、頼まれなくても戦ってた」
カインは、何も言えなかった。
ララは、胸に当てた手に、そっと力を込めた。
カインの手のひらの紋様から、細い糸が一本、ほどけていく感触があった。
痛くはなかった。
ただ、少しだけ、寂しかった。
「フィオラ」
アシェルが、呼んだ。
ララは、いや、フィオラは、振り返った。
それから、アシェルの隣に並んだ。
グンナル、ルゥ、ペトラ、ハクエン。
そして、アシェル。
六人が、そろって並んでいた。
八十年ぶりに、本当に六人で。
「……もう、行くの」
ノリアが、フィオラに言った。
声が、少しだけ揺れていた。
「行く」
フィオラは、ノリアの手を一度だけ握った。
「あなたの火、きれいだった。大きすぎたけど」
「……あなたの型も」
ノリアは、握られた手を握り返した。
「きれいすぎたけど」
二人は、同時に笑った。
ルゥは、ネリスに抱きついて、最後までしゃべり続けていた。
「あのね、あんたのお兄さん、大事にしなよ! あと、道に迷わないのはいいけど、たまには迷ってもいいんだからね! 迷った先に、いいもの落ちてることあるし! それから——」
「わかった。わかったから」
ネリスは、呆れた顔で、それでも振りほどかなかった。
しっぽが、ルゥのしっぽに絡まっていた。
ペトラは、ミラの両手を包み込んだ。
「あんたは、間に合わせたね」
笑い皺の深い目が、濡れていた。
「八十年ぶんの、あたしの分まで」
「……ペトラさんが、教えてくれたから」
ミラの声も、震えていた。
ペトラは、何も言わずに頷いた。
ミラも、黙って頷き返した。
グンナルは、白い炎の中の器の前に膝をついた。
銀の縁に刻まれた、八つの名。
その一つ目に、太い指を置いた。
ダダ。
グンナルは、その名を、ゆっくりと指でなぞった。
一文字ずつ、確かめるように。
それから、最後の、自分の名にも指を置いた。
何も言わなかった。
言わないまま、立ち上がった。
その目が、少しだけ赤かった。
「ダダに伝えてくれ」
グンナルが、スルに言った。
「いい器だった、と」
「伝える」
スルが、短く答えた。
アシェルの前に、光が満ちていった。
閉じた裂け目の線の向こうから、あたたかい光が差し込んでくる。
迷宮に還る道だと、誰に言われなくてもわかった。
六人が、光のほうへ歩き出した。
その直前、ハクエンが足を止めた。
ワングのほうを振り返り、深く頭を下げる。
背をまっすぐに伸ばしたまま、腰から折る礼。
頭の角度が、ほんのわずかに右へ傾いていた。
カインは、息を呑んだ。
隣で、ワングも身を固くしていた。
その礼を、二人とも知っていた。
白の点で取り込み、戦いのあとに一礼して光の粒になって消えた、あの鎧の剣士。
カイザーと、同じ角度だった。
「……ハクエン殿」
ワングが呟いた。
「白の点で、拙者は、あの太刀筋に見覚えがあると申した。あれは」
ワングの声が、途中で途切れた。
ハクエンは、何も答えなかった。
顔を上げ、少しだけ笑って、光のほうへ向き直った。
それが何だったのかは、わからない。
わからないまま、カインもワングも、深く頭を下げ返していた。
アシェルが、最後に振り返った。
「次の、万能士」
アシェルは、カインを見た。
「一人で背負うのは、やめにしたんだったな」
「ああ」
カインは、頷いた。
「なら、いい」
アシェルは、笑った。
「エルを、頼む。口は悪いが、根はいいやつだ」
「知ってる」
カインが答えると、白い炎の中で、エランドがふんと鼻を鳴らす音がした。
荷物を何も背負っていない、軽い背中だった。
カインは、息を吸った。
ノストス寺院で、死者を迷宮へ送るときの言葉。
街で、何度も耳にしてきた言葉。
「いってらっしゃい」
六人の声が、重なった。
アシェルたちは、振り返らずに手を上げた。
光の中へ、六つの背中が溶けていった。
あとには、白く燃える器と、その隣で丸くなる黄金の獣と、閉じた裂け目の細い線だけが残った。
カインの肩に、ふっと小さな重さが戻ってきた。
白い子猫が、肩の上に座っていた。
「ミー」
カインが呼ぶと、ミーは金色の目でカインを見上げた。
小さな口が、開いた。
「わしは、残るぞ」
エランドの声だった。
器の隣で丸くなっている黄金の獣が、片目だけ開けてこちらを見ていた。
「……文句があるか」
カインは、思わず笑った。
笑いながら、目の奥が熱くなった。
「ないよ」
「みゃー」
ミーが、ミーの声で鳴いた。




