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『マラン、はじまりの迷宮』〜わからないことばかりの、迷宮攻略記〜  作者: 奇木 尋
第十部 ズール 器と魔石と、そして・・・

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第226話「管理者の交代、休む岩」

白い炎が、裂け目の縁を這っていた。

両側の端を、少しずつ、少しずつ引き寄せていく。

顔のない形が、後ずさりながら、何本もの腕を器へ伸ばした。

その腕を、ベーダーの長剣が払う。

グンナルとスルの盾が受け止める。

ワングとハクエンの刃が断つ。

カインは、器の前に立っていた。

両腕が、やっと空いていた。

「器だけじゃ、足りないんだよな」

カインは、裂け目の縁を見上げた。

白い炎は、確かに裂け目をつなぎとめている。

それでも、縁はまだ脈打っていた。

器と裂け目のあいだで、何かがぐらついている。

支える者が、まだいない。

「そうだ」

カインの肩の上で、ミーが言った。

エランドの声だった。

「ここからは、わしの仕事だ」

ミーの小さな体が、ふわりと光った。

次の瞬間、光の中から、何かが抜け出してきた。

黄金の毛並みだった。

太い前足が、石の床を重く鳴らす。

背に子どもの一人くらいなら乗せて走れそうな、大きな獣。

エアの白い家で香箱を組んでいた猫とは、似ても似つかない姿だった。

それでも、金色の目だけは、いつものエランドの目だった。

カインの肩には、白い子猫が残っていた。

ミーは、ぽかんとした顔で、抜け出していった大きな背中を見上げていた。

「エランド……」

ネリスが、耳を立てた。

「それが、本当の姿?」

「八十年ぶりだがな」

エランドは、大きな前足を一歩踏み出した。

「肩が凝る。猫のほうが楽だった」

アシェルが、膝をついたまま、エランドを見上げていた。

「エル」

「主は、そこで休んでおれ」

エランドは、振り返らずに言った。

それから、器の前まで歩いていき、白い炎の中に身を沈めた。

燃える様子はなかった。

黄金の毛並みが、白い炎と溶け合っていく。

太い四肢が、器の縁に寄り添うように丸まる。

器と、裂け目と、エランドが、一つになっていく。

「……ほう」

炎の中から、エランドの声がした。

「一人で支えるものかと思っておったが、違うな」

「違う?」

カインが聞き返した。

「重さが、ほとんどない」

エランドの声は、どこか驚いているようだった。

「器の芯に、街じゅうの魔石の力が詰まっておる。縁には、名が八つ刻まれておる。あの頑固な鍛冶屋の名が、いちばん重い」

それから、エランドの金色の目が、六人を順に見た。

「それに、お前たちがおる。六弁の証を持った、六つの輪郭が。それが、わしの背中を下から押しておる」

カインは、自分の手の甲を見下ろした。

六弁の証が、白い炎と同じ色に光っていた。

ネリスの手も。

ノリアの手も。

ミラの手も。

ワングの手も。

スルの手も。

「主は、これを一人でやっておったのか」

エランドの声が、少しだけ低くなった。

「八十年も」

アシェルは、何も答えなかった。

ほどけかけた指で、自分の目元を押さえていた。

白い炎が、ひときわ大きく燃え上がった。

裂け目の両側の端が、最後の一歩ぶん、引き寄せられた。

顔のない形が、声にならない声を上げた。

空間そのものが、軋む音だった。

形が、ほどけていく。

腕が、胴が、暗さに戻っていく。

暗さが、裂け目の中へ吸い込まれていく。

そして、裂け目が閉じた。

音はなかった。

ただ、閉じた。

名前のない暗さがあった場所には、細い一本の線だけが残っていた。

その線の上に、白く燃える器と、黄金の獣が座っていた。

-

その瞬間のことを、マランの人々は、あとになってもうまく説明できなかった。

クロスロードの窓口で、リゼットは書類から顔を上げた。

理由はなかった。

ただ、顔を上げなければいけない気がした。

窓の外の空が、一瞬だけ、いつもより高く見えた。

フラグメンツの厨房で、ガラントは鍋をかき混ぜる手を止めた。

アーカイブの奥で、ティリーはペンを置いた。

フォージタウンの工房では、ダダが炉の前で天井を見上げていた。

見えるのは、煤けた梁だけだった。

それでも、ダダは長いあいだ、そこから目を離さなかった。

隣で、ブロムも同じように梁を見上げていた。

ノアの浅瀬から戻ったばかりの新人の少年は、ギルド本部の前の広場で、ぽかんと空を見上げていた。

エクスチェンジの窓口でも、エンポリアムの店先でも、ヘクサインの共用室でも。

誰もが、手を止めて空を見上げた。

何かが通り過ぎていった。

大きくて、遠くて、誰の顔も見ていない何かが。

「……今の、何だ」

広場の誰かが、呟いた。

「さあな」

隣の誰かが、肩をすくめた。

「カレントが、動いたんだろ」

本当にそうだったのかどうかは、誰にもわからない。

わかるのは、その日、マランじゅうの人々が、同じ瞬間に同じ空を見上げたということだけだった。

ギルド長の執務室で、ルーシェナは窓辺に立っていた。

空を見上げたまま、長いあいだ動かなかった。

それから、小さく笑った。

「……おかえりなさい、は、まだ早いわね」

-

ズールの底では、白い炎がゆっくりと落ち着き始めていた。

誰も、しばらく口をきかなかった。

ルゥが、最初に泣き出した。

ペトラが、ルゥの肩を抱いた。

グンナルは、閉じた裂け目の線を、黙って見つめていた。

ワングとハクエンは、並んで刀を鞘に収めた。

同じ速さで、同じ角度で。

どちらからともなく、互いに小さく頭を下げていた。

ノリアは、ミラの腕の中で、閉じた線をぼんやりと眺めていた。

「塞がった……?」

「塞がった」

ミラが、ノリアの髪をそっと撫でた。

ベーダーは、長剣を下ろしたまま、兜の奥で黙っていた。

その肩が、ほんのわずかに下がっていた。

十五年ぶんの荷を、ようやく下ろしたような下がり方だった。

カインは、大きく息を吐いた。

全身から、力が抜けていく。

そのとき、隣でララが、カインの袖を引いた。

「ねえ」

「ん?」

「あの子にも、見せてあげて」

ララは、カインの手のひらの紋様を見ていた。

「ゴーレム。ずっと、あなたの前に立ってたんでしょう。ここまで器を運んだのも、あの子」

カインは、はっとした。

器の前でひびだらけになりながら、最後まで一歩も退かなかった岩の背中。

休ませてやれなかった。

休めと言って、戻したきりだった。

「でも、ララを戻したら」

「すぐ呼び戻して」

ララは、少しだけ笑った。

「私は、どこにも行かない。まだ、ね」

カインは、頷いた。

「ララ、少しだけ戻ってくれ」

ララの姿が、光の粒になって消えた。

カインは、空いた紋様に指を重ねた。

「ゴーレム」

岩の体が、石の床の上に立ち上がった。

胸と肩のひびは、グンナルが縫い継いだところだけ、かろうじてつながっていた。

片腕は、肘から先がない。

ゴーレムは、ゆっくりと周りを見回した。

閉じた裂け目を見た。

白く燃える器と、その隣の黄金の獣を見た。

それから、カインを見た。

ゴーレムは、カインの前まで歩いてきた。

一歩ごとに、岩の欠片がこぼれた。

そして、カインの前で、膝をついた。

それきり、立ち上がらなかった。

立ち上がれないのだと、カインにはわかった。

もう、戦える体ではなかった。

ここまで、この体で来てくれたのだった。

カインは、ゴーレムの前にしゃがみ込んだ。

岩の額に、手のひらを当てる。

ひんやりとしていた。

初めて呼んだ日から、何も変わらない手触りだった。

「……ありがとな」

カインの声が、少しだけかすれた。

「最初から、ずっと前に立っててくれた」

ゴーレムは、何も言わなかった。

言葉を持たない召喚獣だった。

それでも、岩の頭が、ほんの少しだけ下がった。

頷いたように見えた。

カインは、紋様に指を重ねた。

召喚を、解く。

戻すのではない。

契約そのものを、ほどく。

呼び出すのではなく、送り出すための印だった。

膝をついたままのアシェルが、その手元を黙って見ていた。

ゴーレムの体が、端から静かに崩れ始めた。

岩に、土に、細かな砂に。

崩れた砂は、石の床の上で小さな山になり、やがて渦の中へ溶けていった。

あとに、掌に乗るほどの小さな石が一つだけ残った。

丸く、なめらかで、ほんのりと温かい石だった。

ゴーレムの、核の石だった。

カインは、それを拾い上げた。

両手で包み込むように持って、しばらくじっと見つめていた。

「休んでくれ」

カインは、石に向かって言った。

「今度こそ、ちゃんと」

肩の上で、ミーが小さく鳴いた。

「みゃー」

いつもの、ミーの声だった。


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