第225話「重なる手、器に灯る火」
「今だ!」
カインの声が、裂け目の前に響いた。
ノリアは、杖を握り直した。
ベーダーの一太刀で、顔のない形が大きく傾いている。
グンナルとスルの盾が、残った腕をまとめて押し返していた。
ワングとハクエンの刃が、形の胴を左右から縫い止めている。
ネリスとルゥが、足元を駆け回って、新しい腕が生える先から付け根を裂いていく。
押さえ込んでいる、というより、全員で押さえつけている。
そんな状態だった。
長くはもたない。
それが、見ているだけでわかった。
「アシェルさん、どこに置けばいい」
カインが、器を抱えて走りながら叫んだ。
「わしの前だ」
アシェルが、膝をついたまま、かすれた声で答えた。
「八十年前、わしが楔を打ち込んだところ。裂け目の、いちばん細いところだ」
アシェルの背中から伸びる光の糸が、数本だけ残っている。
その糸が集まる一点。
裂け目の縁が、ほんのわずかに狭まっている場所だった。
カインは、そこに膝をつき、器を石の床に置いた。
銀の縁に刻まれた八つの名が、裂け目の暗さを受けて光る。
器の底の窪みから、縁へ向かって、光が走り始めた。
街じゅうから集めた魔石の力が、芯から溝へ、溝から縁へと流れていく。
器が、ゆっくりと脈を打ち始めた。
裂け目の脈と、少しずつ、同じ速さに。
「……据わった」
アシェルが、長く息を吐いた。
「だが、火が入っておらん。このままでは、ただの器だ」
「火……」
ノリアは、器を見下ろした。
「魔石の力を、目覚めさせる火が要る」
アシェルが、ノリアを見た。
「器いっぱいに満ちたものを、一度に呼び起こすだけの火だ」
全員の目が、ノリアに集まった。
ノリアは、黙って頷いた。
わかっていた。
この中で、それだけの火を持っているのは、自分しかいない。
魔力の量だけは、誰にも負けない。
ずっと、それだけだった。
「反跳結界」
ミラの声がした。
ノリアの足元に、淡い光の輪が広がった。
「反跳結界」
器を置いたばかりのカインが、立ち上がりながら同じ呪文を重ねる。
二つの光の輪が重なって、ノリアと器を包み込んだ。
「これで、何が跳ね返っても、ノリアは焼けない」
ミラが、ノリアの背中に手を置いた。
「思いっきり、いって」
ノリアは、器の前に膝をついた。
杖を構える。
何を撃てばいいのか、一瞬だけ迷った。
終焉なら、撃てる。
第七階梯。
自分の持っている中で、いちばん大きな呪文。
けれど、あれは壊すための呪文だった。
今、必要なのは、壊す火ではない。
(繋ぐ、火)
ノリアは、杖の先を器の窪みに向けた。
そして、魔力を練り始めた。
練り始めたところで、形の腕の一本が、盾の列の隙間を抜けた。
まっすぐ、器とノリアのほうへ伸びてくる。
「させん」
ベーダーの長剣が、横から腕を払った。
払いきれなかった分を、スルの盾が受け止める。
スルの足が、石の床をこすって後ろへ滑った。
「ノリア、構わず続けろ」
スルが、盾の陰から短く言った。
「こっちは、止める」
ノリアは、振り返らなかった。
振り返ったら、練りかけた魔力が崩れる気がした。
練る。
練る。
五層で覚えた、魔力を練るやり方。
体の奥の、底の見えないところから、ありったけを引き上げていく。
手のひらの上で、魔力が膨らんだ。
膨らんで、膨らんで、形にならないまま溢れそうになる。
いつもそうだった。
量が多すぎて、型が追いつかない。
(だめ、また)
そのとき、ノリアの手の甲に、細くて白い手が重なった。
冷たかった。
ララだった。
いや、フィオラだった。
どちらでも、同じだった。
「量は、そのまま」
フィオラの声が、すぐ耳元でした。
「外を、細く。ほら、前に教えたでしょう」
重なった手のひらから、何かが流れ込んでくる。
魔力ではなかった。
型だった。
長い年月をかけて磨かれた、正確で、揺るぎない呪文の輪郭。
それが、ノリアの溢れかけた魔力の外側を、内側からそっと整えていく。
「……あ」
ノリアの手の中で、魔力が形になった。
大きさは、少しも減っていない。
それなのに、一滴もこぼれない。
「私に足りなかったものを、あなたは持ってる」
フィオラが、ノリアの手に自分の手を重ねたまま言った。
「あなたに足りなかったものを、私は持ってた」
「……二人で、ちょうど」
ノリアは、呟いた。
「ええ。ちょうど」
フィオラが、笑った。
「何を撃つの」
ノリアは、少しだけ考えた。
終焉ではない。
業炎獄でも、雷殺でもない。
「火花炎」
フィオラの手が、一瞬止まった。
それから、声を上げて笑った。
「第一階梯? これだけの魔力で?」
「うん」
ノリアは、杖を握りしめた。
「私が、一番最初に覚えた火だから」
何十回、何百回やっても、ほかの型は指の隙間からこぼれていった。
かろうじて形になったのが、この火一つだけだった。
的を台ごと吹き飛ばして、教えてくれた人を黙らせた火。
ファイアで足りないことなんて、そうそうない。
そう言い張って、ずっと撃ち続けてきた火。
「いいわね」
フィオラが、手に力を込めた。
「あなたらしい」
ノリアの頭に、五層で聞いた声がよみがえった。
黒い小鬼の部屋で終焉を撃ち尽くして、膝をついたとき。
肩に置かれた手と一緒に届いた、カインの一言。
十分だ。
あのとき、自分はずっとその言葉を待っていたのだと思った。
今は、少し違う。
十分かどうかは、自分で決める。
この火で、足りる。
「火花炎」
ノリアとフィオラの声が、重なった。
杖の先から、火が生まれた。
小さな火だった。
指先に灯るほどの、一粒の火。
その一粒に、ノリアの底の見えない魔力が、フィオラの完璧な型に包まれて、全部込められていた。
火は、器の窪みに落ちた。
一瞬、何も起こらなかった。
次の瞬間、器が白く燃え上がった。
芯から溝へ、溝から縁へ。
街じゅうの魔石の力が、一粒の火に呼び起こされて、一斉に目を覚ました。
白い炎が、器の縁から立ち上がり、裂け目の縁へと伸びていく。
燃やすための炎ではなかった。
裂け目の両側の端を、つなぎとめるための炎だった。
アシェルの光の糸と同じように。
けれど、それよりずっと太く、ずっと明るく。
銀の縁に刻まれた八つの名が、白い炎の中で、ひとつずつ強く輝いた。
ダダ。
カイン。
ネリス。
ノリア。
ミラ。
ワング。
スル。
グンナル。
顔のない形が、初めて大きく後ずさった。
アシェルの背中から伸びていた、最後の数本の光の糸。
それが、白い炎に触れたところから、ふっと緩んだ。
糸が切れたのではなかった。
白い炎が、糸の役目を引き取ったのだった。
アシェルが、自分の背中を振り返った。
それから、信じられないものを見るように、器を見つめた。
「……八十年ぶりに、背中が軽い」
かすれた声が、震えていた。
反跳結界の内側で、ノリアは膝をついた。
杖が、手から滑り落ちた。
拾い上げる力も、残っていなかった。
「ノリア」
ミラが、すぐ後ろにしゃがみ込んで、ノリアの肩を支えた。
「……焼けて、ない」
ノリアは、自分の手を見下ろして言った。
「私の火で、誰も」
「うん。誰も」
ミラが、ノリアの肩を抱く腕に力を込めた。
魔力が、底をついていた。
それでも、手のひらは温かかった。
フィオラの手が、まだそこに重なっていた。
☆
同じ頃、フォージタウンのブロムの工房。
ダダは、炉の前に座っていた。
朝、ズールの門で六人を見送ってから、ずっとそこにいた。
何かを打つわけでもなく、ただ炉の火を見ていた。
鞴の前では、ブロムが黙って火の番をしている。
不意に、炉の火が大きく揺れた。
風など、吹いていない。
鞴も、踏んでいない。
それなのに、炎が一瞬だけ、炉の口から大きく伸び上がった。
白い炎だった。
ダダは、立ち上がっていた。
炎は、すぐに元の大きさに戻った。
いつもの、赤い炉の火だった。
「……今のは」
ブロムが、鞴から足を下ろして呟いた。
ダダは、答えなかった。
自分の両手を見下ろす。
火傷の痕と、鎚だこだらけの手。
芯を打った手。
名前を刻んだ手。
その手のひらが、じんわりと温かかった。
ブロムが、ダダの背中を見ていた。
「親方も」
ブロムが、ぽつりと言った。
「こういう火を、見たかったんだろうな」
ダダは、振り返らずに頷いた。
「届いたか」
ダダは、炉の火に向かって、小さく言った。




