第224話「十三の意味、呼ばれた見張り」
形が、立ち上がった。
裂け目からあふれた暗さが、天井の見えない高さまで積み上がり、ようやく伸びるのをやめる。
腕が、何本もあった。
数えようとすると、数えるそばから一本増え、一本溶ける。
胴のようなものが、ゆっくりと脈打っている。
顔は、どこにもなかった。
それでも、カインには、それがこちらを見ているのがわかった。
器を抱えた、自分の腕のあたりを。
「……あれが、裂け目の本体か」
スルが、盾を構えた。
「本体というより」
ハクエンが、刀の柄に手を添えたまま言った。
「裂け目が、自分を塞がれまいとして、形をとったのだろう」
アシェルが、膝をついたまま顔を上げた。
「八十年前にも、一度だけ見た。あのときは、わしが楔を打ち込んだ瞬間に、渦に戻った」
「今度は、戻らないってこと?」
ルゥが、耳を伏せた。
「楔が擦り切れておるからな」
アシェルは、苦しそうに息を吐いた。
「器を据えるには、あれを押さえ込まねばならん」
カインは、器を抱えたまま奥歯を噛んだ。
両腕がふさがっている。
剣も抜けない。
印も組めない。
「カインは、器だけ」
ミラが、カインの前に立った。
裂け目で止めたときと、同じ位置だった。
「今度は、戦う前から言っとく。器を据えるまで、カインは何もしないで」
「……わかってる」
カインは、苦笑した。
「一番、性に合わない役だけどな」
「知ってる」
ミラは、振り返らずに言った。
カインは、腕の中の器を見下ろした。
八つの名が、裂け目の暗さの中で淡く光っている。
そのとき、頭の奥で、古い言葉がよみがえった。
四層で、エランドが言っていたことだ。
十三は、お主たちと、もう一組、プラス、超えるべきものの数。
あのときは、何のことかわからなかった。
わからないまま、ずっと頭の隅に置いていた。
カインは、周りを見回した。
自分たち六人。
グンナル、ルゥ、ペトラ、ハクエン、フィオラ。
そして、裂け目の前に膝をつく、アシェル。
もう一組の六人。
それから、目の前の、顔のない巨大な形。
「……六と、六と、一」
カインは、呟いた。
「十三だ」
肩の上で、ミーが小さく鳴いた。
「ようやく数えたか」
一言だけ、エランドの声がした。
それきりだった。
「超えるべきもの、って」
ノリアが、形を見上げた。
「倒すんじゃなくて、超えるの?」
「わからん」
カインは、正直に答えた。
「でも、倒せって言われなかったのは、たぶん、そういうことなんだと思う」
形の腕が、一斉にこちらへ伸びた。
何本もの暗い腕が、器を抱えたカインへまっすぐに迫ってくる。
「前へ出るぞ」
グンナルが、盾を構えて踏み出した。
「おう」
スルが、その隣に並ぶ。
二枚の盾が、カインの前で重なった。
暗い腕が、二枚の盾にぶつかる。
重い音がした。
グンナルの足が、半歩沈む。
スルの足も、同じだけ沈んだ。
それでも、二人とも退かなかった。
「受け止めるのは、わしがやる」
グンナルが、盾の陰で低く言った。
「流すのは、お前さんの得意だろう」
「わかった」
スルが、盾の角度をわずかに変えた。
グンナルが正面で受け止めた腕を、スルの盾が斜めに流して、横へ逸らす。
受け止める盾と、流す盾。
二つの盾のあいだを、暗い腕は一本も抜けられなかった。
「右と左から、同時に」
ネリスが、ルゥと目を合わせた。
「言われなくても!」
ルゥが、もう駆け出していた。
猫と狐が、形の両脇へ回り込む。
ネリスの爪が右の腕の付け根を裂き、ルゥの短剣が左の腕の付け根を裂く。
左右から同時に傷を受けて、形の胴が大きくよじれた。
「ハクエン殿」
ワングが、低く呼んだ。
「合わせまする」
「型どおりに」
ハクエンが、短く答えた。
「お主の型は、もうわしの型ではない。だが、始まりは同じだ」
「今でござる」
ワングが、村雨と氷姫を抜いて踏み込んだ。
その隣に、ハクエンが並ぶ。
二刀と一刀。
三つの刃が、よじれた胴へ同時に走った。
ワングの村雨が縦に、幻の右手の氷姫が横に。
ハクエンの一刀が、その交わるところを、まっすぐに貫く。
三刀が、一つの傷になった。
形の胴に、深い裂け目が走る。
「封癒!」
ノリアの声が飛んだ。
塞がりかけた裂け目が、そこで止まる。
ノリアの隣で、ララが杖を掲げた。
ノリアは、ララのほうを見もしなかった。
見なくても合わせられる、という顔をしていた。
渦の中で、ララの指がノリアの手首に触れたあの日から、二人の呪文は少しずつ噛み合うようになっていた。
「雷殺」
二人の声が重なった。
ノリアの太い雷と、ララの細い雷。
二本の光が、途中で一本に撚り合わさった。
太さはノリアのまま、まっすぐさはララのまま。
撚り合わさった雷が、三刀の傷の真ん中へ吸い込まれていく。
形が、初めて声のようなものを上げた。
音ではなかった。
空間そのものが、軋んだ。
腕の一本が、盾の脇をすり抜けてルゥの肩を打った。
ルゥが、石の床に転がる。
「ルゥ!」
ペトラが、フレイルを放り出すようにして駆け寄った。
小さな手をルゥの肩に当て、何かを祈る。
ミラの祈りとは違う、古い言葉だった。
「浄光」
ミラが、その祈りに重ねるように唱えた。
二つの光が、ルゥの肩の上で一つになる。
「……いたた、ありがと!」
ルゥが、跳ね起きた。
ペトラとミラが、顔を見合わせた。
言葉はなかった。
それでも、二人とも少しだけ笑っていた。
「効いた……!」
ミラが、叫んだ。
けれど、形は崩れなかった。
傷口から新しい暗さがあふれ出し、腕がまた一本、二本と生えてくる。
裂け目の縁が、大きく脈打った。
アシェルの背中の糸が、また一本、切れた。
「……足らんか」
アシェルが、呻いた。
「十三のうち、こちらは十二。向こうは一つだが、裂け目ごとだ。数では、まだ押し切れん」
アシェルは、ほどけかけた手を持ち上げた。
その手のひらに、カインと同じような紋様が、薄く浮かんでいた。
「アシェルさん、何を」
カインが叫んだ。
「最後の、召喚だ」
アシェルは、残った光の糸を一本、自分の手のひらに巻きつけた。
糸が、紋様の上でほどけていく。
「わしが見張りを頼んだ者の中に、一人、この底まで声の届く者がおる」
紋様が、強く光った。
アシェルの口が、ある名を呼んだ。
「ベーダー」
石の床の上に、光の柱が立った。
光の中から、長身の人影が現れた。
全身を鎧に包み、長剣を一振り提げている。
エアの三層の、色の判別できない部屋で出会った戦士。
「私が、ベーダーだ」と名乗った、あの人だった。
ベーダーは、辺りを見回した。
裂け目を見て、顔のない形を見て、盾を構える二人と、刀を構える二人と、呪文を唱える二人を見た。
最後に、膝をついたアシェルを見た。
ベーダーの足が、止まった。
兜の奥の目が、大きく見開かれるのが、カインにもわかった。
「……あなたが」
ベーダーの声が、かすれた。
「あなたが、迷宮を司る方」
アシェルは、ベーダーを見上げた。
ほどけかけた顔で、少しだけ笑った。
「十五年、すまなかった」
ベーダーは、何も言わなかった。
言えないようだった。
その背後で、顔のない形の腕が、また一斉に持ち上がった。
ベーダーは、振り返った。
長剣を、ゆっくりと抜く。
「……話は、あとで」
ベーダーの兜が、一度だけカインのほうを向いた。
器を抱えたカインと、その肩のミーと、前に立つミラを見る。
「三層で会った、万能士の青年か」
「……覚えててくれたんですか」
「忘れるものか。ガラントに、声を届けてくれた」
ベーダーの声が、わずかに和らいだ。
「その器を守ればいいのだな」
「頼みます」
カインが言うと、ベーダーは頷いた。
それだけ言って、ベーダーはグンナルとスルの盾の隣に並んだ。
迫ってきた腕の一本を、ベーダーの長剣が根元から断ち切った。
一太刀だった。
十五年、エアの三層を一人で見張り続けてきた者の太刀筋だった。
「……頼もしい」
グンナルが、ぼそりと呟いた。
「礼には及ばん」
ベーダーは、兜の奥で短く答えた。
「殿は、慣れている」
断たれた腕の付け根から、暗さが噴き出す。
形の胴が、大きく傾いた。
裂け目の縁が、そのぶんだけ、ほんのわずかに縮んだ。
カインは、腕の中の器を見下ろした。
銀の縁が、脈を打つように光っている。
据えるなら、今だった。




