第223話「運ばれる器、崩れかけの盾」
アーチをくぐった瞬間、カインは足を取られかけた。
白と黒の渦が、これまでと違う動き方をしていた。
いつもはゆっくりと巡っていた渦が、奥から手前へ、川のように流れてくる。
流れに逆らって立つだけで、体が後ろへ押し戻されそうになった。
「なに、これ」
ネリスが、耳を伏せた。
「裂け目が、開いてきておるのでござろう」
ワングが、渦の奥を睨んだ。
「中から、溢れてきておる」
カインは、胸に抱えた器を抱え直した。
布越しにも、器がほんのりと温かいのがわかる。
両腕がふさがっている。
剣を抜くことはできない。
「カイン、器だけ見てて」
ミラが、カインの隣に並んだ。
「ほかは、私たちがやる」
「……頼む」
カインは、器を片腕に預け直し、空いた手のひらの紋様に指を重ねた。
「ゴーレム」
渦の中に、岩の塊が立ち上がった。
カインの最初の召喚獣。
七つ目の試練で、片腕を肘から先まで失ったまま、休ませていた体だ。
残った片腕を、ゴーレムはゆっくりと持ち上げた。
「悪いな。休ませてやれなくて」
カインが言うと、ゴーレムは、カインと器のあいだに黙って立った。
それから、カインの前へ一歩出た。
器の前に。
言葉はなかった。
それでも、何をするつもりなのかは、はっきりとわかった。
カインは、紋様に置いたままの指を、少しだけ迷わせた。
召喚獣は、一度に一体しか呼べない。
ゴーレムを出している今、ララは呼べなかった。
(ララは、器を据えるときに呼ぶ)
今は、器の前に立つ者が要る。
カインは、紋様から指を離した。
ネリスの先導で、一行は流れに逆らって進み始めた。
最初の分かれ道で、渦の中から人影が四つ現れた。
グンナル。
ルゥ。
ペトラ。
ハクエン。
「遅いよ!」
ルゥが、真っ先に叫んだ。
「待ちくたびれた! アシェル、どんどん薄くなってるんだから!」
「迎えに来てくれたのか」
カインが言うと、グンナルが器を顎で示した。
「それを、見に来た」
グンナルの目が、布の隙間から覗く銀の縁に吸い寄せられた。
刻まれた八つの名。
その最後の一つで、視線が止まった。
グンナルは、何も言わなかった。
ただ、カインの前に立つゴーレムの隣に、自分の盾を構えて並んだ。
「器の前は、盾の仕事だ」
「なら、俺も」
スルが、グンナルの反対側に並んだ。
二つの盾と、一体の岩の体が、器の前に壁を作った。
「来る」
ネリスとルゥの声が、重なった。
渦の奥から、輪郭のない塊が押し寄せてきた。
一つや二つではない。
流れに乗って、次々と。
手足のようなものを伸ばし、崩れ、また伸ばしながら、まっすぐ器のほうへ向かってくる。
「器を狙っておる」
ハクエンが、低く言った。
「裂け目のほうも、わかっておるのだろう。あれが、自分を塞ぐものだと」
ハクエンが、刀を抜いた。
ワングが、その隣で村雨と氷姫を抜いた。
一刀と二刀。
並んで立つ二人の構えは、姿形こそ違うのに、重心の置き方だけがそっくりだった。
「ネリス、右!」
「わかってる!」
ネリスが右へ跳び、ルゥが左へ跳んだ。
二人の斥候が、塊の群れの両脇を駆け抜けていく。
狐と猫の影が、渦の中で交差した。
群れが、わずかに左右へ割れる。
その割れ目に、ハクエンとワングが踏み込んだ。
ワングの村雨が塊を断ち、ハクエンの一刀が、塞がりかけた端を寸分違わず斬り落とす。
二人とも、一度も相手のほうを見なかった。
見なくても、次にどこへ刃が来るのか、わかっているようだった。
「右の三体、拙者が」
「左は、わしが持つ」
短いやり取りだけで、二つの影が左右へ分かれた。
「封癒」
ノリアの声が、後ろから飛んだ。
斬られた塊の裂け目が、塞がらずに止まる。
ノリアが、そのまま杖を掲げた。
「業炎獄」
炎が、渦の中を奔った。
いつものノリアの炎だった。
大きく、太く、群れをまるごと呑み込んでいく。
「わっ、でっか!」
ルゥが、跳びのきながら叫んだ。
「フィオラの炎の、三倍はあるよ、あれ!」
「……褒めてる?」
ノリアが、眉を寄せた。
「褒めてる褒めてる! あの子が見たら、絶対悔しがる!」
ルゥは、けらけらと笑いながら、次の塊へ跳んでいった。
それでも、塊は途切れなかった。
斬っても、焼いても、流れに乗って次が来る。
何体かが、斥候の脇をすり抜けて、器の前の壁へ殺到した。
スルの盾が、一体を受け止める。
グンナルの盾が、もう一体を叩き返す。
三体目が、ゴーレムの胸に正面からぶつかった。
岩の体が、軋んだ。
胸に、大きなひびが走る。
それでも、ゴーレムは一歩も退かなかった。
残った片腕で塊を抱え込み、そのまま渦の中へ押し潰す。
「ゴーレム!」
カインが叫んだ。
ゴーレムは、振り返らなかった。
次の塊が来る。
また、胸で受ける。
ひびが、肩まで広がった。
「浄光!」
ミラが、手のひらを向けた。
光はゴーレムに届いた。
だが、岩のひびは塞がらなかった。
「効かない……!」
「岩には、祈りは通りにくいよ」
ペトラが、ミラの隣に駆け寄った。
フレイルを腰から外し、ゴーレムの足元に膝をつく。
「祈りじゃなくて、手で直すしかない」
「なら、わしの仕事だ」
グンナルが、盾を構えたまま、腰から小さな鎚を抜いた。
次の塊を盾で受け止めながら、もう片方の手で、ゴーレムの胸のひびに鎚を当てる。
こん。
乾いた音がした。
ひびが、ほんの少しだけ閉じた。
「割れ目を縫うのは、得意でな」
グンナルは、盾で塊を押し返しながら、また鎚を振るった。
こん。
こん。
縫い継ぎ。
器の継ぎ目と、同じ打ち方だった。
そのとき、足元の渦が大きくうねった。
流れが一度に強まり、カインの足がすくわれる。
体が傾き、腕の中の器が滑った。
「——っ!」
銀の器が、カインの腕を離れかけた。
その下に、岩の手が差し込まれた。
ゴーレムの、残った片腕だった。
ひびだらけの手のひらが、器をそっと受け止めて、カインの胸へ押し戻す。
「……ありがとな」
カインは、器を抱き直した。
ゴーレムは、何事もなかったように、また前を向いた。
肩の上で、ミーが小さく身じろぎした。
「急げ」
一言だけ、エランドの声がした。
それきり、また黙った。
カインは、器を抱えたまま、その光景を見ていた。
六人と、四人。
十人に、ゴーレムと、肩の上のミー。
欠けたところはあっても、二組の六人が、初めて同じ側に並んで戦っている。
(八十年、待たせたんだもんな)
そう思うと、胸の奥が熱くなった。
「抜けるぞ!」
スルの声で、一行は前へ出た。
塊の群れを押し分けるように、流れに逆らって進む。
ゴーレムは、胸と肩にひびを抱えたまま、器の前を歩き続けた。
一歩ごとに、岩の欠片がぽろぽろと落ちる。
それでも、足は止まらなかった。
やがて、見覚えのある扉が見えた。
黒ずんだ石の両開きは、開いたままだった。
扉を抜けた先で、一行は足を止めた。
裂け目が、前に来たときより、ひと回り大きくなっていた。
縁の脈打ちが、速い。
その手前で、アシェルが膝をついていた。
背中から伸びる光の糸は、数えるほどしか残っていない。
輪郭は、肩から胸のあたりまで、ほとんど透けていた。
カインは、器の前に立ち続けていたゴーレムの背中に声をかけた。
「ゴーレム、戻れ。少し休んでろ」
岩の体が、ひびだらけのまま、ゆっくりと振り返った。
それから、光の粒になって消えていった。
カインは、空いた紋様にすぐ指を重ねた。
「ララ」
淡い光が灯り、エルフの魔法使いが姿を現した。
現れるなり、ララは裂け目の前のアシェルを見た。
「……ララで、いいのか」
カインが、少し迷って聞いた。
「フィオラって、呼んだほうが」
「どっちでもいい。どっちも、私」
その声には、もう、感情の薄さはなかった。
ララは、それだけ答えてアシェルのもとへ駆け出した。
ペトラも、すでにアシェルのそばに膝をついていた。
ララは、杖を放り出すようにしてその隣に膝をつく。
二人とも、アシェルの体には触れられなかった。
触れようとした指が、透けた肩をすり抜けてしまう。
「……持ってきたぞ」
カインは、器を包んだ布をほどいて見せた。
銀の縁に刻まれた八つの名が、裂け目の暗さの中で、かすかに光った。
アシェルの目が、その名を一つずつなぞっていく。
最後の名のところで、目元がゆるんだ。
「……来たか」
アシェルが、かすれた声で言った。
「間に合った、と言いたいところだが」
アシェルの目が、裂け目のほうへ向いた。
裂け目の暗さが、縁からあふれ出していた。
あふれた暗さは、床に落ちず、宙で渦を巻いていく。
渦は、ゆっくりと一つの形に集まり始めていた。
大きい。
天井の見えない高さまで、まだ伸びていく。
腕のようなものが、何本も。
顔のようなものが、どこにもない。
「あれが」
カインは、器を強く抱きしめた。
「超えるべきもの、か」
誰も、答えなかった。
答える代わりに、全員が武器を構え直していた。




