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『マラン、はじまりの迷宮』〜わからないことばかりの、迷宮攻略記〜  作者: 奇木 尋
第九部 ズール 先代との対面

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第222話「刻まれた名、行けぬ鍛冶師」

ミーの小さな体が、アシェルの膝の上から、カインの肩へ戻ってきた。

金色の目は、もういつものミーの目だった。

エランドの声は、それきり聞こえなかった。

「あいつ、向こうで何か考え込んでおるな」

アシェルが、ミーの背中を見て小さく笑った。

「昔から、大事なことを決めた後は、しばらく黙る癖があった」

アシェルは、ゆっくりと立ち上がろうとした。

光の糸が張りつめ、途中で膝をつく。

それでも、目はさっきまでと違っていた。

「器を、持ってきてくれ」

アシェルは、カインを見上げて言った。

「それまで、わしがもたせる。もう少しだけならな」

「もう少しって、どれくらいだ」

「さあな」

アシェルは、肩をすくめた。

「八十年もったのだ。あと数日くらい、どうということはない」

強がりだと、誰にでもわかった。

ほどけかけた指先は、ここへ来たときより、明らかに透けていた。

「急ぐ」

カインは、立ち上がった。

「器が満ちたら、すぐに戻ってくる」

「頼む」

アシェルは、深く頭を下げた。

グンナルが、カインの前に立った。

太い腕を組み、しばらく黙っていた。

「……ダダ、と言ったな」

「ああ」

「伝えてくれ」

グンナルは、少しだけ言葉を探した。

「芯の打ち方、いい仕事だった、と」

カインは、頷いた。

「必ず」

ルゥが、ネリスに抱きついて何か言いかけ、ペトラに首根っこをつかまれて引き剥がされていた。

ハクエンは、ワングに一礼した。

ペトラは、ミラの手をもう一度握った。

「あんたたちが戻るまで、この人が倒れないように見とくからね」

「お願いします」

ミラは、ペトラの小さな手を握り返した。

ララは、アシェルの隣に膝をついたまま、動こうとしなかった。

「ララ」

カインが呼ぶと、ララは振り返った。

「一度、戻すぞ。また呼ぶ」

「……うん」

ララは、アシェルの手に一度だけ自分の手を重ねてから、光の粒になって消えた。

扉を抜け、白と黒の渦を戻る。

証は、帰り道のあいだ、ずっと静かに光り続けていた。

アーチの外に出ると、番人が砂時計を握ったまま、目を丸くしていた。

「今日は、ずいぶん長かったな」

砂時計の砂は、半分ほど落ちていた。

これまでで、いちばん長い潜行だった。

六人は、まずギルド長の執務室へ向かった。

ルーシェナは、カインの話を最後まで黙って聞いた。

アシェルの名を聞いたとき、ほんの少しだけ目を伏せた。

迷宮を司る方、の正体を聞いたときには、長く息を吐いた。

「ベーダーに見張りを頼んだ人が、八十年、一人で」

ルーシェナは、窓の外に目をやった。

「あの人、知ってたのかしらね。頼んだ相手が、どんな顔をしてたか」

「エランドが、見張りの役目をまとめて引き受けるって言ってた」

カインが言うと、ルーシェナの肩がかすかに揺れた。

「……それって」

「わからない。エランドは、それ以上言わなかった」

ルーシェナは、しばらく黙っていた。

それから、いつもの顔に戻って言った。

「なら、まずは器ね。行きなさい。ダダが待ってる」

その足で、六人はフォージタウンのブロムの工房へ向かった。

ダダは、炉の前で器に魔石を落としていた。

クロスロードの広間から運び込んだ袋が、工房の床に山と積まれている。

器の内側の溝は、根元から半分ほどのところまで、淡く光っていた。

「戻ったか」

ダダが振り返り、六人の顔を見て、手を止めた。

「……何かあったな」

カインは、全部話した。

裂け目のこと。

アシェルのこと。

影だった四人が、顔と名前を取り戻したこと。

器の仕組みを入れたのが、グンナル本人だったこと。

そして、グンナルからの伝言。

「芯の打ち方、いい仕事だった、って」

ダダは、何も言わなかった。

炉の火を見つめたまま、長いあいだ動かなかった。

鞴の前にいたブロムが、黙って工房の外へ出ていった。

二人にしておこう、という背中だった。

戸口で、ブロムが一度だけ振り返った。

「戦う剣を打つな、か」

誰に言うでもなく呟いて、ブロムは出ていった。

「……そうか」

ダダは、ようやくそれだけ言った。

それから、作業台の上の器を手に取った。

底を返し、二つの家の印を見つめる。

二筋の炎と、三筋の炎。

「名前を、刻む」

ダダが言った。

「前に言っただろう。六人分、名前を刻み直すって。この器にも刻む」

ダダは、細い鏨を取り、器の縁の内側に当てた。

一打ずつ、丁寧に。

ダダ。

カイン。

ネリス。

ノリア。

ミラ。

ワング。

スル。

七つの名が、器の縁に並んでいく。

鏨の音だけが、工房に響いていた。

七つ目を刻み終えたところで、ダダの手が止まった。

少しだけ迷うように、鏨の先が縁の上をさまよう。

それから、七つの名の最後に、もう一つだけ刻み足した。

グンナル。

「……入れていいのか、わからん」

ダダは、鏨を置いて呟いた。

「会ったこともない人だ」

「入れていいと思う」

ミラが言った。

「あの人、ずっとダダのこと、見てたんだと思うから」

ダダは、何も答えなかった。

ただ、刻んだばかりの八つ目の名を、太い指でそっとなぞった。

その夜、フラグメンツの扉を開けると、ガラントが店の奥から大きな木箱を二つ抱えて出てきた。

「待ってたぞ」

ガラントは、どさりと木箱をカウンターに置いた。

蓋を開けると、魔石がぎっしり詰まっていた。

店の魔石灯の予備も、厨房の火の元の分も、全部だという。

「理由は聞かん」

ガラントは、腕を組んで六人を見下ろした。

「クロスロードの貼り紙も見た。理由のない貼り紙に、ギルド長の名前。それで、お前らが最近、そろって同じ顔をしとる」

ガラントは、にっと笑った。

「お前らの顔を見れば、わかる。それで十分だ」

カインは、何か言おうとして、やめた。

言えることは、何もなかった。

代わりに、深く頭を下げた。

六人も、それに続いた。

「やめろやめろ、湿っぽい」

ガラントは、手を振った。

「帰ってきたら、一杯奢らせろ。それでいい」

ガラントは、それから少しだけ声を落とした。

「……あいつのことも、何かわかったら、そのとき聞かせてくれ」

あいつ、が誰のことか、六人にはわかった。

三層の見張りをしている、長身の戦士。

カインは、口を開きかけた。

エランドが引き受けると言った、見張りの役目のこと。

やはり、言葉は喉の奥で並ばなかった。

「……必ず」

それだけが、どうにか出てきた。

ガラントは、それで満足したように頷いた。

ガラントの木箱の魔石を、ダダが器に落としたのは、その夜遅くのことだった。

最後の一掴みが窪みに触れた瞬間、器の溝が、根元から縁まで、一度にすべて光った。

銀の器が、工房の中で白く輝く。

刻まれた八つの名が、光の中に浮かび上がった。

「……満ちた」

ダダが、かすれた声で言った。

翌朝、ズールの門の前に、六人とダダとルーシェナが立っていた。

器は、ダダが布に包んで抱えていた。

ずっしりと重い。

重さは、魔石の重さではなかった。

「ダダ」

カインが言った。

「持つよ」

ダダは、すぐには手放さなかった。

アーチの向こうの薄暗がりを、じっと見つめていた。

六人の壁。

パーティは、もう六人いる。

ダダが一歩でもアーチをくぐれば、七人目として弾かれる。

わかりきったことだった。

「俺は、行けん」

ダダが言った。

「だが、俺の名は行く」

ダダは、器を包んだ布を、ゆっくりとほどいた。

縁に刻まれた八つの名が、朝の光を受けて鈍く光る。

「盾は、もう提げないと決めた」

ダダは、器をカインの両腕に預けた。

「だがこれは、盾だ」

カインは、器を受け取った。

銀の縁の、ダダの名のところが、ほんのりと温かかった。

「必ず、届ける」

「当たり前だ」

ダダは、ふんと鼻を鳴らした。

鳴らしたが、目が赤かった。

ダダは、それからスルの前に立った。

盾の縁の、二筋の炎の印を、太い指で確かめる。

「向こうのグンナルが、これをなぞったって聞いた」

「なぞってた」

スルが頷いた。

「黙って、ずっと」

「……そうか」

ダダは、スルの盾を拳で軽く叩いた。

「なら、この盾も持っていけ。器の隣で、構えてろ」

「言われなくても」

スルが、短く答えた。

ネリスが、横でふっと笑った。

ルーシェナが、一歩前に出た。

いつもの、ノリの良い姉ちゃんの顔だった。

けれど、目の奥だけは、少しも笑っていなかった。

「行ってらっしゃい」

ルーシェナは、六人を一人ずつ見た。

「ちゃんと、帰ってきなさい。全員でね」

「「「はい」」」

六人の声が、揃った。

番人が、縄を外す。

六人の手の甲で、六弁の証が光った。

カインは、器を胸に抱えて、アーチをくぐった。


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