第222話「刻まれた名、行けぬ鍛冶師」
ミーの小さな体が、アシェルの膝の上から、カインの肩へ戻ってきた。
金色の目は、もういつものミーの目だった。
エランドの声は、それきり聞こえなかった。
「あいつ、向こうで何か考え込んでおるな」
アシェルが、ミーの背中を見て小さく笑った。
「昔から、大事なことを決めた後は、しばらく黙る癖があった」
アシェルは、ゆっくりと立ち上がろうとした。
光の糸が張りつめ、途中で膝をつく。
それでも、目はさっきまでと違っていた。
「器を、持ってきてくれ」
アシェルは、カインを見上げて言った。
「それまで、わしがもたせる。もう少しだけならな」
「もう少しって、どれくらいだ」
「さあな」
アシェルは、肩をすくめた。
「八十年もったのだ。あと数日くらい、どうということはない」
強がりだと、誰にでもわかった。
ほどけかけた指先は、ここへ来たときより、明らかに透けていた。
「急ぐ」
カインは、立ち上がった。
「器が満ちたら、すぐに戻ってくる」
「頼む」
アシェルは、深く頭を下げた。
グンナルが、カインの前に立った。
太い腕を組み、しばらく黙っていた。
「……ダダ、と言ったな」
「ああ」
「伝えてくれ」
グンナルは、少しだけ言葉を探した。
「芯の打ち方、いい仕事だった、と」
カインは、頷いた。
「必ず」
ルゥが、ネリスに抱きついて何か言いかけ、ペトラに首根っこをつかまれて引き剥がされていた。
ハクエンは、ワングに一礼した。
ペトラは、ミラの手をもう一度握った。
「あんたたちが戻るまで、この人が倒れないように見とくからね」
「お願いします」
ミラは、ペトラの小さな手を握り返した。
ララは、アシェルの隣に膝をついたまま、動こうとしなかった。
「ララ」
カインが呼ぶと、ララは振り返った。
「一度、戻すぞ。また呼ぶ」
「……うん」
ララは、アシェルの手に一度だけ自分の手を重ねてから、光の粒になって消えた。
扉を抜け、白と黒の渦を戻る。
証は、帰り道のあいだ、ずっと静かに光り続けていた。
アーチの外に出ると、番人が砂時計を握ったまま、目を丸くしていた。
「今日は、ずいぶん長かったな」
砂時計の砂は、半分ほど落ちていた。
これまでで、いちばん長い潜行だった。
六人は、まずギルド長の執務室へ向かった。
ルーシェナは、カインの話を最後まで黙って聞いた。
アシェルの名を聞いたとき、ほんの少しだけ目を伏せた。
迷宮を司る方、の正体を聞いたときには、長く息を吐いた。
「ベーダーに見張りを頼んだ人が、八十年、一人で」
ルーシェナは、窓の外に目をやった。
「あの人、知ってたのかしらね。頼んだ相手が、どんな顔をしてたか」
「エランドが、見張りの役目をまとめて引き受けるって言ってた」
カインが言うと、ルーシェナの肩がかすかに揺れた。
「……それって」
「わからない。エランドは、それ以上言わなかった」
ルーシェナは、しばらく黙っていた。
それから、いつもの顔に戻って言った。
「なら、まずは器ね。行きなさい。ダダが待ってる」
その足で、六人はフォージタウンのブロムの工房へ向かった。
ダダは、炉の前で器に魔石を落としていた。
クロスロードの広間から運び込んだ袋が、工房の床に山と積まれている。
器の内側の溝は、根元から半分ほどのところまで、淡く光っていた。
「戻ったか」
ダダが振り返り、六人の顔を見て、手を止めた。
「……何かあったな」
カインは、全部話した。
裂け目のこと。
アシェルのこと。
影だった四人が、顔と名前を取り戻したこと。
器の仕組みを入れたのが、グンナル本人だったこと。
そして、グンナルからの伝言。
「芯の打ち方、いい仕事だった、って」
ダダは、何も言わなかった。
炉の火を見つめたまま、長いあいだ動かなかった。
鞴の前にいたブロムが、黙って工房の外へ出ていった。
二人にしておこう、という背中だった。
戸口で、ブロムが一度だけ振り返った。
「戦う剣を打つな、か」
誰に言うでもなく呟いて、ブロムは出ていった。
「……そうか」
ダダは、ようやくそれだけ言った。
それから、作業台の上の器を手に取った。
底を返し、二つの家の印を見つめる。
二筋の炎と、三筋の炎。
「名前を、刻む」
ダダが言った。
「前に言っただろう。六人分、名前を刻み直すって。この器にも刻む」
ダダは、細い鏨を取り、器の縁の内側に当てた。
一打ずつ、丁寧に。
ダダ。
カイン。
ネリス。
ノリア。
ミラ。
ワング。
スル。
七つの名が、器の縁に並んでいく。
鏨の音だけが、工房に響いていた。
七つ目を刻み終えたところで、ダダの手が止まった。
少しだけ迷うように、鏨の先が縁の上をさまよう。
それから、七つの名の最後に、もう一つだけ刻み足した。
グンナル。
「……入れていいのか、わからん」
ダダは、鏨を置いて呟いた。
「会ったこともない人だ」
「入れていいと思う」
ミラが言った。
「あの人、ずっとダダのこと、見てたんだと思うから」
ダダは、何も答えなかった。
ただ、刻んだばかりの八つ目の名を、太い指でそっとなぞった。
その夜、フラグメンツの扉を開けると、ガラントが店の奥から大きな木箱を二つ抱えて出てきた。
「待ってたぞ」
ガラントは、どさりと木箱をカウンターに置いた。
蓋を開けると、魔石がぎっしり詰まっていた。
店の魔石灯の予備も、厨房の火の元の分も、全部だという。
「理由は聞かん」
ガラントは、腕を組んで六人を見下ろした。
「クロスロードの貼り紙も見た。理由のない貼り紙に、ギルド長の名前。それで、お前らが最近、そろって同じ顔をしとる」
ガラントは、にっと笑った。
「お前らの顔を見れば、わかる。それで十分だ」
カインは、何か言おうとして、やめた。
言えることは、何もなかった。
代わりに、深く頭を下げた。
六人も、それに続いた。
「やめろやめろ、湿っぽい」
ガラントは、手を振った。
「帰ってきたら、一杯奢らせろ。それでいい」
ガラントは、それから少しだけ声を落とした。
「……あいつのことも、何かわかったら、そのとき聞かせてくれ」
あいつ、が誰のことか、六人にはわかった。
三層の見張りをしている、長身の戦士。
カインは、口を開きかけた。
エランドが引き受けると言った、見張りの役目のこと。
やはり、言葉は喉の奥で並ばなかった。
「……必ず」
それだけが、どうにか出てきた。
ガラントは、それで満足したように頷いた。
ガラントの木箱の魔石を、ダダが器に落としたのは、その夜遅くのことだった。
最後の一掴みが窪みに触れた瞬間、器の溝が、根元から縁まで、一度にすべて光った。
銀の器が、工房の中で白く輝く。
刻まれた八つの名が、光の中に浮かび上がった。
「……満ちた」
ダダが、かすれた声で言った。
翌朝、ズールの門の前に、六人とダダとルーシェナが立っていた。
器は、ダダが布に包んで抱えていた。
ずっしりと重い。
重さは、魔石の重さではなかった。
「ダダ」
カインが言った。
「持つよ」
ダダは、すぐには手放さなかった。
アーチの向こうの薄暗がりを、じっと見つめていた。
六人の壁。
パーティは、もう六人いる。
ダダが一歩でもアーチをくぐれば、七人目として弾かれる。
わかりきったことだった。
「俺は、行けん」
ダダが言った。
「だが、俺の名は行く」
ダダは、器を包んだ布を、ゆっくりとほどいた。
縁に刻まれた八つの名が、朝の光を受けて鈍く光る。
「盾は、もう提げないと決めた」
ダダは、器をカインの両腕に預けた。
「だがこれは、盾だ」
カインは、器を受け取った。
銀の縁の、ダダの名のところが、ほんのりと温かかった。
「必ず、届ける」
「当たり前だ」
ダダは、ふんと鼻を鳴らした。
鳴らしたが、目が赤かった。
ダダは、それからスルの前に立った。
盾の縁の、二筋の炎の印を、太い指で確かめる。
「向こうのグンナルが、これをなぞったって聞いた」
「なぞってた」
スルが頷いた。
「黙って、ずっと」
「……そうか」
ダダは、スルの盾を拳で軽く叩いた。
「なら、この盾も持っていけ。器の隣で、構えてろ」
「言われなくても」
スルが、短く答えた。
ネリスが、横でふっと笑った。
ルーシェナが、一歩前に出た。
いつもの、ノリの良い姉ちゃんの顔だった。
けれど、目の奥だけは、少しも笑っていなかった。
「行ってらっしゃい」
ルーシェナは、六人を一人ずつ見た。
「ちゃんと、帰ってきなさい。全員でね」
「「「はい」」」
六人の声が、揃った。
番人が、縄を外す。
六人の手の甲で、六弁の証が光った。
カインは、器を胸に抱えて、アーチをくぐった。




