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『マラン、はじまりの迷宮』〜わからないことばかりの、迷宮攻略記〜  作者: 奇木 尋
第九部 ズール 先代との対面

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第221話「黄金の獣、八十年前の主」

白い家の座布団の上で、わしは目を開けた。

窓もないのに、壁はうっすらと明るい。

エアの一層の、いつものわしの家だ。

隅の籠は、空っぽだった。

ミーは今、ズールの底で、あの小僧の肩に乗っておる。

その目と口を借りて、わしはさっきまで、主と話しておった。

主。

その言葉が、もう喉に引っかからない。

わしは、前足を見下ろした。

小さな、黄金の毛並みの、猫の前足だ。

八十年、ずっとこの足だった。

だが、思い出した。

わしの前足は、本当は、これの何倍もあった。

八十年前。

わしは、大きな獣だった。

黄金の毛並みに、太い四肢。

背に子どもの一人くらいなら乗せて走れるほどの体で、石の床を一歩ごとに重く鳴らしておった。

そして、いつも、主の隣を歩いておった。

主は、ひょろりとした男だった。

剣を一振り腰に提げて、荷物を山ほど背負っておる。

荷物の半分は、どう見ても仲間の分だった。

「主。なぜ一人で持つ」

わしが聞くと、主はいつも笑った。

「俺が持てば、みんな手が空くだろ」

「わしの背に載せればよい」

「エルは、いざってときに走ってもらわなきゃ困る」

エル。

主は、わしをそう呼んだ。

エランド、などと大仰な名を付けたのも主だったが、呼ぶときはいつも、その短いほうだった。

「アシェル、また荷物増えてるよ!」

先頭を歩く狐の娘が、振り返って叫ぶ。

ルゥだ。

やかましい娘だった。

朝から晩まで、しゃべらずにいられない。

道を探っているあいだも、罠を外しているあいだも、口だけは動いておる。

それでいて、罠を見落としたことは一度もなかった。

街に戻れば、鍛冶屋の小僧にまで菓子を押しつけて回っておった。

「そこ、型が崩れてる」

澄んだ声が、主の背中に飛ぶ。

フィオラだ。

エルフの魔法使いで、呪文の型にかけては誰よりうるさかった。

主が剣の合間に唱える呪文を、いちいち直す。

杖の握りの角度が一分違うと、鍛冶のグンナルに打ち直させる。

それなのに、自分の魔力が足りないことを、誰よりも気にしておった。

型は完璧なのに、撃てる数が少ない。

夜、野営の火のそばで、一人で杖を握りしめておる姿を、わしは何度か見た。

グンナルは、黙って打つ男だった。

野営のたびに小さな金床を下ろし、仲間の得物の刃こぼれを一つずつ直す。

しゃべるのは、打ち終えた得物を仲間に渡すときの一言だけ。

「戦わせ続けるための剣だ。戦う剣じゃない」

いつも同じことを言っておった。

打ち上げた刃を、両の手のひらで包んで、しばらくじっと見つめる癖があった。

ペトラは、世話焼きのノームだった。

誰かが擦り傷一つこしらえれば、すぐに飛んできて祈りを唱える。

主が荷物を持ちすぎれば、フレイルの柄で背中を小突く。

ルゥがしゃべりすぎれば、口に干し果物を押し込む。

笑い皺の深い、よく笑う女だった。

ハクエンは、無口な剣士だった。

隊列のいちばん後ろを、刀の柄に手を添えたまま、黙って歩く。

重心をわずかに後ろ足にかけて、鍔からこぶし一つぶん手を離した、あの立ち方で。

抜くことは、滅多になかった。

抜かずに済むなら、それがいちばんだと言っておった。

野営の夜は、にぎやかだった。

ルゥがしゃべり、ペトラが笑い、グンナルが黙々と刃を研ぎ、ハクエンが火の番をする。

フィオラは、たいてい少し離れたところで、杖の握りを確かめておった。

「ララ、こっちおいで。冷えるよ」

ある晩、ペトラがそう呼んだ。

フィオラが、露骨に顔をしかめた。

「その呼び方、やめて。子どもの頃の呼び名なの」

「知ってるよ。だから呼んでるの」

ペトラは、にこにこと笑っておった。

「ララ、って顔してるもの、今」

「してない」

しておった。

火のそばに来たフィオラの頬は、火のせいだけでなく赤かった。

わしは、主の足元で丸くなりながら、それを眺めておった。

主が、わしの背中を撫でながら、小さく笑っておった。

あの夜のことを、わしは、今の今まで忘れておった。

小僧が呼び出したあのエルフの魔法使いを、初めてララと呼ぶのを聞いたとき、どこかで聞いた響きだと思った。

あれは、気のせいではなかったのだな。

そして、主だ。

何でもひととおりこなす、便利屋あがりの万能士。

剣を振り、呪文を唱え、傷を手当てし、飯を作り、道を決め、揉め事をまとめる。

全部、自分でやろうとする。

仲間が手を出す前に、もう片づけてしまっておる。

「アシェルは、一人で抱えすぎ」

ペトラが、何度そう言ったかわからん。

主は、そのたびに笑ってごまかした。

わしは、その笑い顔が、好きではなかった。

好きではなかったが、隣を歩くのをやめたことは、一度もない。

あの日も、そうだった。

エアの底を抜けた先で、わしらはあれを見つけた。

空間そのものが縦に裂けた、名前のない暗さ。

縁が脈打つたびに、迷宮全体が軋んでおった。

獣のわしには、理屈より先にわかった。

あれが開ききれば、何もかもが呑まれる。

主も、同じだったらしい。

主は、裂け目を見上げたまま、長いこと黙っておった。

それから、荷物を下ろした。

仲間の分まで背負っておった、あの山ほどの荷物を。

「みんな、下がってくれ」

主の声は、いつもと変わらなかった。

「アシェル、何する気」

ルゥの声が、震えておった。

「ちょっと、塞いでくる」

主は、振り返らずに言った。

ペトラが、主の袖をつかもうとした。

主は、それを、そっとほどいた。

「大丈夫だ。俺がやれば、誰も傷つかない」

下がれ、と主はもう一度言った。

皆、下がった。

主が本気でそう言うとき、逆らえる者は、わしらの中に一人もおらんかった。

わしだけが、主の隣に残った。

主は、わしの首を一度だけ撫でた。

そして、振り返って笑った。

逆光の中で、口が動いた。

「エル。少しだけ、待っていろ」

主が、裂け目に向かって歩いていった。

その背中から、光の糸が何本も伸びた。

糸が裂け目の縁に届いた瞬間、世界が白く弾けた。

裂け目から、魔素があふれた。

白と黒の渦が、わしらの上に覆いかぶさってきた。

わしは、主に向かって駆けようとした。

その瞬間、胸の奥で、何かがぷつりと切れた。

主と、わしを繋いでおったもの。

名を呼べば応え、呼ばれれば駆けつける、あの見えない糸が。

切れた勢いで、わしの体は後ろへ弾き飛ばされた。

弾き飛ばされながら、わしは見た。

ルゥが、グンナルが、ペトラが、ハクエンが。

渦に触れたところから、輪郭がほどけていく。

色が抜け、顔が抜け、声が抜けて、影になっていく。

そして、フィオラが。

フィオラだけが、あふれた魔素の渦に、まるごと呑まれていった。

杖を握ったまま、主の名を呼びながら。

その声が、渦の中でかき消えた。

わしが覚えておるのは、そこまでだ。

気がついたら、エアの一層の石畳の上にいた。

小さな、黄金の猫の姿で。

自分が誰かも、どこから来たのかも、わからずに。

わからないまま、わしはエアを見張り始めた。

魔物の湧き方を見て、壁の軋みを聞いて、深いところの流れがよどまんように。

誰に頼まれたのでもない。

なぜそうするのかも、わからなかった。

わしは、いつ、どこから来たのだろうな。

眠れぬ夜に、何度そう考えたことか。

答えは、ずっと、ここにあった。

主の真似事を、しておったのだ。

迷宮が溢れんように、一人で見張る。

主が、裂け目の前でそうしておったように。

そして、待っておった。

少しだけ、待っていろ。

あの一言を、名前も顔も忘れたまま、それだけは守り続けておった。

「……わしは、ずっと、主を待っていたのか」

誰に聞かせるでもなく、呟いた。

声に出してみると、ひどく腑に落ちた。

八十年は、少しだけ、ではなかったがな。

籠の中の空っぽの座布団に、ミーの白い毛が一本だけ残っておった。

あれは、わしが切り分けた欠片だ。

切り分けたときには、なぜそうしたのかわからなかった。

今なら、わかる。

主の次に現れる万能士の肩に、何かを預けておきたかったのだ。

主の隣に、もう一度立つために。

わしは、座布団から降りた。

白い家の戸口まで歩いて、エアの石畳を見下ろす。

苔の光が、いつものように通路を照らしておった。

いつもの夜だ。

だが、もう、いつもの見張りではない。

「待たせすぎだ、主」

わしは、深い闇のほうへ目を細めた。

「今度は、わしが隣に立つ番だ」


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