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『マラン、はじまりの迷宮』〜わからないことばかりの、迷宮攻略記〜  作者: 奇木 尋
第九部 ズール 先代との対面

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第220話「戻る記憶、八十年越しの主従」

アシェルは、長いあいだ黙っていた。

開きかけた口を閉じ、また開きかけて、閉じる。

やがて、ほどけかけた指で、床の石をそっと撫でた。

「……一人で背負うのをやめたら」

かすれた声だった。

「誰が、これを塞ぐ」

裂け目が、低く脈打った。

アシェルの背中の糸が、また一本、きしんだ。

カインは、アシェルの前にしゃがんだまま、息を吸った。

「人じゃなくて、道具が塞ぐ」

アシェルが、顔を上げた。

「道具?」

「器があるんだ」

カインは、ゆっくりと話し始めた。

黒いドラゴンを討つために、ダダが打った銀の器のこと。

ドラゴンの喉で砕けた器を、向こうのもう一組が拾っていったこと。

それが、元の形以上に丁寧に継ぎ直されて、手元に戻ってきたこと。

器の内側に、誰も彫った覚えのない窪みと溝が加わっていたこと。

「ブロムっていう鍛冶屋が、それを見て言ったんだ。楔の器だって。何かを塞ぐための器。人が塞がずに済むように作られた器」

アシェルの目が、大きく見開かれた。

その目が、カインの肩越しに、グンナルのほうへ動いた。

グンナルは、腕を組んだまま、じっとカインを見ていた。

「……ブロム、と言ったか」

しゃがれた声だった。

「炭運びの小僧に、そういう名のがおった」

「その小僧が、今はフォージタウンで一番の鍛冶屋だ」

カインが言うと、グンナルは、ふんと鼻を鳴らした。

鳴らしたが、髭の奥の口元がわずかに緩んでいた。

「器の仕組みを入れたのは、あんたか」

カインが聞いた。

「わしだ」

グンナルは、あっさりと認めた。

「ドラゴンの跡で、欠片を拾った。底に、見たことのない印が打ってあった。炎が二筋。わしの知らん形だ。だが、槌の握りと、炎の抱かせ方でわかった。うちの家の印だと」

グンナルは、太い指で自分の胸を叩いた。

「影になっても、鎚の腕だけは残っとった。だから継いだ。ついでに、八十年前に描きかけて仕上げられんかったものを、中に仕込んだ」

「打ったのは、ダダだ」

カインは言った。

「俺たちの仲間で、鍛冶屋だ。あんたの弟さんの、孫だ」

グンナルの組んでいた腕が、ほどけた。

しばらく、何も言わなかった。

それから、背中を向けて、裂け目のほうを見た。

「……そうか」

それだけだった。

肩が、少しだけ震えていた。

「ダダは、芯を打った」

カインは、アシェルに向き直った。

「あんたの仲間が描いた図の、最後の一つだ。今、街じゅうから魔石を集めてる。器がいっぱいになれば、楔になるって」

アシェルは、黙って聞いていた。

その目に、さっきまでなかった光が差していた。

けれど、すぐに曇った。

「器だけでは、足らん」

アシェルが、低く言った。

「楔というのは、打ち込んで終わりではない。迷宮の側から、繋ぎとめておく者が要る。器と裂け目のあいだに立って、ずっと支え続ける者が」

「それが、あんたがやってきたことか」

「そうだ」

アシェルは、自分の背中の糸を見た。

「わしは、器もなしに、自分でそれをやった。だから擦り切れた。器があれば、支える者の負担は、ずっと軽くなる。だが、誰かが要ることに変わりはない」

「なら、俺が」

カインが言いかけて、ミラの視線に気づいて口を閉じた。

ミラは、何も言わずにカインを見ていた。

「……俺じゃ、ないんだよな」

カインは、頭をかいた。

「人がやったら、同じことになる。だったら」

そのときだった。

カインの左の肩が、ふっと重くなった。

振り返るより先に、柔らかな毛並みが首筋に触れる。

白い子猫が、いつの間にか肩の上に座っていた。

「ミー?」

呼んでもいなかった。

ミーは、カインの呼びかけに答えなかった。

金色の目で、まっすぐにアシェルを見ていた。

小さな口が、開いた。

「人でなければ、よいのだろう」

ミーの声ではなかった。

低く、少し偉そうで、いつも説明の足りない声。

エアの一層の白い家で、何度も聞いた声だった。

「エランド……?」

ネリスが、耳を立てた。

アシェルが、ミーを見上げていた。

膝をついたまま、身じろぎもせずに。

その唇が、ゆっくりと動いた。

「……エル」

短い呼び名だった。

エランド、ではなかった。

もっと気安くて、もっと古い呼び方。

ミーの小さな体が、びくりと震えた。

「エル」

アシェルが、もう一度呼んだ。

今度は、はっきりと。

ミーの金色の目が、大きく揺れた。

カインの肩に、爪が食い込む。

痛かったが、カインは動かなかった。

肩の上で、何かが起きていた。

ミーの向こう側、ずっと遠くのエアの一層で、黄金の毛並みの猫が、長い夢から覚めようとしている。

なぜか、カインにはそれがわかった。

「……背中」

ミーの口から、エランドの声が漏れた。

「荷物を、山ほど背負った、ひょろりとした背中。振り返って、わしを呼ぶ声。少しだけ、待っていろ、と」

声が、震えていた。

あのエランドの声が。

「わしの前足は、黄金で、太くて、主の隣を歩くのに慣れておった。主と繋がっておった。それが、あの裂け目の前で、ぷつりと切れて」

ミーの小さな体が、カインの肩の上で身を乗り出した。

「……思い出した」

エランドの声が、はっきりと言った。

「全部、思い出したぞ」

アシェルが、ほどけかけた手を、ミーのほうへ伸ばした。

指先は、もう半分ほど渦に溶けていた。

ミーは、カインの肩から飛び降りた。

アシェルの膝の上に、小さな前足でそっと乗る。

「……遅いぞ、主」

ミーの口から、エランドが言った。

アシェルの顔が、くしゃりと歪んだ。

「すまん」

アシェルは、ミーの小さな頭に、額をつけた。

「待たせすぎたな」

誰も、しばらく何も言わなかった。

ルゥが、声を殺して泣いていた。

ペトラが、ルゥの背中をさすっていた。

ララは、杖を抱えたまま、目を閉じていた。

ハクエンは、静かに頭を垂れていた。

「八十年だ」

エランドの声が、ぼそりと言った。

「わしは、八十年、自分が誰かも知らずに、エアの見張りをしておった。頼まれた覚えもないのにな。今思えば、主の真似事をしておったのだろう」

ミーは、アシェルの膝の上から、背後の裂け目を見上げた。

アシェルの背中から伸びる、擦り切れた光の糸を。

「主は、八十年、それをやってきたのか」

「……ああ」

「一人で」

「ああ」

ミーは、しばらく黙っていた。

それから、小さな前足で、アシェルの胸をとんと叩いた。

「わしがやる」

エランドの声だった。

迷いのない声だった。

「わしは、人ではない。主の召喚獣で、迷宮の見張りだ。器と裂け目のあいだに立って、ずっと支え続ける。それは、わしの得意とするところだ」

「エル」

アシェルが、首を振りかけた。

「主は、もう十分に背負った」

エランドの声が、それを遮った。

「今度は、わしの番だ」

「でも」

ノリアが、思わず口を挟んだ。

「エランドは、エアの見張りでしょ。エアを離れられないって」

「離れられんから、ちょうどいい」

エランドの声が、少しだけいつもの調子に戻った。

「迷宮の見張りが、迷宮の底で見張るだけのことだ。エアの分も、ここからまとめて引き受ける。三層の、あの長身の戦士の分もな」

カインは、はっとした。

ベーダーのことだ。

「それって」

「今は、それ以上聞くな」

エランドの声が、ぴしゃりと言った。

「説明が足りんのは、わしの性分だ。知っておるだろう」

ネリスが、小さく吹き出した。

ミラも、目元を拭いながら笑っていた。

アシェルは、何も言い返せなかった。

ほどけかけた手で、ミーの小さな背中を撫でる。

何度も、何度も。

八十年ぶんを取り戻すように。

カインは、黙ってそれを見ていた。

六つ目の試練で、召喚してみろという声に応えて、巨大な猫が縮んでミーになった日のことを思い出す。

あのとき頭に響いた声は、アシェルのものだった。

呼ばれて縮んだミーは、エランドの欠片だった。

(最初から、繋がってたのか)

主の声に呼ばれて、主の召喚獣の欠片が、次の万能士の肩に乗った。

偶然と呼ぶには、あまりにできすぎている。

それでも、誰かがそう仕組んだのかどうかは、カインにはわからなかった。

わからないままで、いい気がした。

肩の上に残った爪の痕が、じんわりと熱かった。


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