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『マラン、はじまりの迷宮』〜わからないことばかりの、迷宮攻略記〜  作者: 奇木 尋
第九部 ズール 先代との対面

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第219話「楔の限界、止める仲間」

石の床が、低く唸った。

ミラは、ペトラに握られていた手を思わず握り返した。

裂け目の縁が、これまでになく大きく脈打っている。

名前のない暗さが、縁の内側でゆっくりと膨らんでいた。

「……っ」

アシェルが、膝をついたまま体を折った。

背中から伸びる光の糸が、きしむように張りつめる。

その一本が、ぷつりと切れた。

切れた糸は、宙でほどけて消えた。

裂け目の縁が、そのぶんだけ、ほんの少し外へずれる。

「アシェル!」

ペトラが、ミラの手を離して駆け寄った。

グンナルも、ルゥも、ハクエンも。

ララも、杖を抱えたまま走った。

けれど、誰もアシェルの糸には触れられなかった。

伸ばした手が、光の糸を素通りしてしまう。

「触るな」

アシェルが、苦しそうに笑った。

「触れても、どうにもならん。これは、わしにしか持てんものだ」

アシェルは、ゆっくりと体を起こした。

さっきより、肩のほつれが広がっているように見えた。

指先は、もう半分ほど渦に溶けかけている。

「見てのとおりだ」

アシェルは、六人のほうを向いた。

「楔が、擦り切れた。八十年、よくもったほうだろう。だが、もう長くはもたん」

誰も、言葉を返せなかった。

ミラは、アシェルの擦り切れた肩から目を離せなかった。

浄光をかけようとして、止められた肩。

これは、傷ではないのだと言われた。

治せないものが、目の前でほどけていく。

「だから、待っとった」

アシェルの目が、カインに向いた。

「次の、万能士を」

カインの肩が、わずかに揺れた。

「召喚してみろ、と言ったのも。来い、と言ったのも。わしだ」

アシェルは、静かに続けた。

「楔になれるのは、何でもひととおりできる者だけだ。剣も、アルカナも、ノストスも、少しずつ持っとる者。器用貧乏の器用さが、ここでは要る。八十年待って、ようやく現れたのが、お前さんだ」

アシェルは、深く頭を下げた。

「すまん。お前さんに、代わってもらうしかない」

「代わる、というのは」

ワングが、低く聞いた。

「楔になった者は、どうなるのでござるか」

アシェルは、自分の背中の糸を目で示した。

「ここから、動けん。わしのようにな。ほかの迷宮に影を飛ばして、見張りを頼んで、それで精いっぱいだ」

「……八十年」

ノリアが、かすれた声で呟いた。

「八十年で済めば、いいほうかもしれん」

アシェルは、それ以上は言わなかった。

「アシェルのバカ!」

ルゥが、泣き声のまま叫んだ。

「また、一人で決めて! あのときも、そうだったじゃない!」

「ルゥ」

グンナルが、ルゥの肩に太い手を置いた。

それから、低く言った。

「わしらは、八十年前、止められなんだ。後ろに下がれと言われて、下がってしもうた」

グンナルの髭が、かすかに震えていた。

「下がらんかったら、どうなっとったかは、わからん。だが、下がったことは、ずっと悔いとる」

ミラの喉の奥が、冷たくなった。

(あの、ひと)

向こうのミラの姿をしていたペトラが、途切れ途切れに言った言葉。

あのひと、ひとりで、ぜんぶ。

止められなかった。

間に合わなかった。

あれは、アシェルのことだったのだ。

八十年前、ペトラは、一人で楔になろうとするこの人を止められなかった。

そして今、同じことが、目の前で起ころうとしている。

カインが、立ち上がった。

「わかった」

軽い声だった。

いつもの、何でもないことを引き受けるときの声。

「俺がやる」

カインは、頭をかいて笑った。

「俺がいないと困るだろ、って、ずっと言ってたからな。こういうときのために言ってたんだって、思うことにする」

(だめ)

ミラは、声に出す前に、もう立ち上がっていた。

けれど、先に口を開いたのはノリアだった。

「カイン」

ノリアは、座ったまま、カインを見上げていた。

杖を握る手が、白くなるほど力んでいる。

「前に、なんで潜るのかって聞かれたとき、私、答えたよね」

カインが、ノリアを見た。

「パーティに、私の居場所があるから、って」

ノリアの声は、震えていなかった。

「カインの居場所も、ここなんだけど」

カインの笑顔が、少しだけ固まった。

ミラは、カインの前に回り込んだ。

両腕を広げて、裂け目とカインのあいだに立つ。

背の低いミラが立ったところで、カインの視界を塞げるわけではない。

それでも、そこに立った。

「ミラ」

カインが、困ったように言った。

「どいてくれ」

「どかない」

ミラは、まっすぐにカインを見上げた。

「約束したの。誰かが一人で全部背負おうとしたら、今度は私が止めるって」

カインの顔から、笑みが消えた。

「……誰と」

「あの人と」

ミラは、振り返らずに言った。

背中の向こうに、ペトラがいるのはわかっていた。

アシェルのそばに膝をついたまま、こちらを見ているのも。

「間に合わなかったこと、私にもある。前のパーティで。だから、今度は間に合わせる」

ミラは、広げた腕に力を込めた。

「カインが一人でそこに行くなら、私が、その前に立つ」

「ミラ、俺は」

「知ってる」

ミラは、カインの言葉を遮った。

「カインは、いつもそうやって笑って引き受けるの。荷物も、段取りも、面倒なことも。それで、みんな助かってきた。私も」

ミラの声が、少しだけ揺れた。

「でも、これは、笑って引き受けていいことじゃない」

誰も、何も言わなかった。

裂け目の脈だけが、低く響いていた。

ミラの背中に、視線が刺さっていた。

ペトラの視線だった。

振り返らなくても、わかった。

八十年前、この人ができなかったことを、自分は今、している。

ペトラが、その背中をどんな顔で見ているのか。

ミラは、振り返らなかった。

振り返ったら、泣いてしまいそうだった。

「……そう」

背中の向こうで、小さな声がした。

しゃがれた、ペトラの声だった。

「それで、いいんだよ」

ミラは、唇を噛んだ。

「……兄さん」

ネリスが、スルの袖を引いた。

スルは、黙って立ち上がり、ミラの隣に並んだ。

盾は構えなかった。

ただ、そこに立った。

「俺は、一度、迷宮に呑まれた」

スルが、カインを見ずに言った。

「戻ってこられたのは、お前が呼んだからだ。一人だったら、今もあっちにいる」

ネリスも、その反対側に並んだ。

「カイン、ばか」

ネリスは、それだけ言って、カインの袖を強くつかんだ。

耳が、ぺたりと伏せられていた。

「カイン殿」

ワングが、村雨と氷姫を腰に戻しながら立ち上がった。

「一人に背負わせて、拙者たちだけ帰れと申されるか。それは、侍の道に反するでござる」

ノリアも、杖をついて立ち上がった。

五人が、カインの前に並んでいた。

カインは、五人の顔を順に見た。

アシェルのそばで、ララが立ち上がった。

杖を胸に抱いたまま、アシェルを見下ろす。

「あなたもよ」

ララの声は、静かだった。

「八十年前、私たち、下がれって言われて下がった。今度は、あなたが止められる番」

アシェルは、ララを見上げたまま、何も言わなかった。

それから、長い息を吐いた。

「……参ったな」

カインは、頭をかいた。

「俺がいないと困るだろ、って言うたびに、お前らが困った顔してた理由、今わかった気がする」

それから、カインはミラを見下ろした。

「……ありがとな、ミラ」

ミラは、広げていた腕をゆっくりと下ろした。

腕が、今になって震えていた。

「止められて、よかった」

ミラは、それだけ言った。

声に出してみて、初めて自分がどれだけ怖かったのかがわかった。

止められなかったら、どうしようと思っていた。

八十年前のペトラと同じ場所に、自分も立つことになるのではないかと。

背中の向こうで、ペトラが小さく鼻をすする音がした。

カインは、五人の肩越しにアシェルを見た。

膝をついたまま、ほどけかけた指で床を支えている、擦り切れた先代。

一人で全部やれば、誰も傷つかないと思った人。

その結果、八十年、一人でここにいた人。

「アシェルさん」

カインは、五人のあいだを通って、アシェルの前にしゃがみ込んだ。

「あんたも、俺も、同じことを言ってたんだな。俺がやれば、って」

アシェルは、黙ってカインを見ていた。

「一人で背負うのは、もうやめにしよう」

カインは、はっきりと言った。

「俺も。あんたも」

アシェルの目が、揺れた。

八十年、裂け目の前で一度も揺れなかったであろう目が、初めて迷っていた。

開きかけた口が、何かを言おうとして、閉じる。

その背後で、裂け目がまた、低く脈打った。


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