第218話「八十年の空白、戻る名前」
アシェルは、裂け目に背を向けたまま、石の床に腰を下ろした。
光の糸が、背中から裂け目の縁へぴんと張る。
座っても、糸は緩まなかった。
「立っとるのも、座っとるのも、ここでは同じでな」
アシェルは、六人を手招きした。
六人は、少しためらってから、アシェルの前に腰を下ろした。
影たちは、六人の後ろに立ったままだった。
「八十年前」
アシェルは、静かに語り始めた。
「わしらは、六人でエアに潜っとった。今のお前さんたちと同じようにな。深く、深く潜って、エアの底を抜けた。その先に、ここがあった」
アシェルは、背後の裂け目を親指で指した。
「これを、見つけてしまった」
裂け目の縁が、ゆっくりと脈打つ。
「これが開ききれば、迷宮という迷宮が溢れる。ノアも、エアも、たぶん街ごと呑まれる。見た瞬間に、それだけはわかった。理屈ではなくな」
「……それで、どうしたんだ」
カインが聞いた。
「塞いだ」
アシェルは、あっさりと言った。
「わしが、楔になって」
誰も、すぐには何も言えなかった。
アシェルの背中の光の糸が、それが何を意味するのかを、黙って示していた。
「万能士というのは、便利なものでな。何でもひととおりできる。だから、楔の役も、まあ、できてしまった」
アシェルは、自分の擦り切れた指先を眺めた。
「仲間を下がらせて、一人で前に出た。全部、わしがやれば、誰も傷つかんと思った」
その言葉に、カインは胸の奥がひやりとするのを感じた。
俺がいないと困るだろ。
自分がいつも口にしている言葉と、どこか同じ形をしていた。
「だが、甘かった」
アシェルの声が、少しだけ低くなった。
「楔を打ち込んだ瞬間、裂け目からあふれた魔素が、後ろにいた仲間を呑んだ。四人は、輪郭を失って、影になった。一人は、魔素の渦に呑まれて、そのまま見失った。わしの召喚獣は、わしとの繋がりを断ち切られて、どこかへ弾き飛ばされた」
アシェルは、六人の後ろに並ぶ影たちに目を向けた。
「それから、ずっとここにおる」
「ずっと……」
ミラが、小さく繰り返した。
「八十年だ」
その一言が落ちた瞬間、後ろの影たちが動いた。
向こうのネリスが、一歩前に出た。
「……え」
かすれた声だった。
「八十年?」
向こうのネリスは、アシェルの顔を見つめた。
それから、自分の手を見下ろした。
「嘘でしょ。だって、そんな……ちょっと長いな、くらいで……」
声が、震えていた。
あれほど止まらなかったおしゃべりが、そこでぷつりと途切れた。
向こうのミラが、両手で口を押さえていた。
向こうのスルは、盾を取り落としそうになって、慌てて握り直した。
向こうのワングは、身じろぎもせずに立っていた。
ただ、柄に添えた手が、かすかに震えていた。
「……知らなかったのか」
カインが、アシェルに聞いた。
「影には、時が流れんのだ」
アシェルは、苦しそうに目を細めた。
「わしにも、伝えるすべがなかった。声が届かんかったからな」
そのときだった。
影たちの顔が、揺らいだ。
水面に石を落としたように、鏡の顔がほどけていく。
その下から、別の顔が浮かび上がった。
向こうのスルだった影は、ずんぐりとしたドワーフの男になった。
編み込んだ髭に、炉の火で焼けた赤い頬。
背中に、使い込まれた盾を背負っている。
向こうのネリスだった影は、狐の耳の娘になった。
先の白い、太いしっぽ。
濡れた目で、何度もまばたきをしている。
向こうのミラだった影は、小柄なノームの女になった。
白いものの混じった二つ編みに、目尻の笑い皺。
腰に、フレイルを提げている。
向こうのワングだった影は、年老いたドラゴニートの剣士になった。
褪せた鱗に、深い皺。
一振りの刀を、腰に佩いている。
「グンナル」
アシェルが、一人ずつ名を呼んだ。
ドワーフの男が、太い指で自分の顔を確かめるように撫でた。
「ルゥ」
狐の娘が、しゃくり上げた。
「ペトラ」
ノームの女が、両手で顔を覆った。
「ハクエン」
老いた剣士が、静かに目を閉じた。
名前を呼ばれるたびに、影の輪郭がくっきりとしていく。
影ではなく、人の姿だった。
ただ、一人だけ、何も変わらない影があった。
魔法使いの席の、空っぽの影。
ノリアの形のまま、どこも見ていない影。
それは、名前を呼ばれることもないまま、ふっと薄れて、渦の中に消えていった。
「あ……」
ノリアが、思わず手を伸ばしかけた。
手は、何も掴まなかった。
「アシェル」
グンナルが、低い声で言った。
しゃがれた、久しぶりに使う喉の声だった。
「フィオラは」
アシェルは、答えなかった。
答えられないようだった。
ノリアが、カインの袖を引いた。
「カイン」
それだけで、カインにはわかった。
ノリアの目が、まっすぐにカインの手のひらを見ていた。
カインは頷き、紋様に指を重ねた。
「ララ」
淡い光が、石の床の上に灯った。
エルフの魔法使いが、杖を抱えて姿を現す。
ララは、いつものように辺りを見回した。
裂け目を見て、影だった人たちを見て、最後にアシェルを見た。
アシェルが、立ち上がろうとした。
光の糸が張りつめて、途中で止まる。
膝をついたまま、アシェルはララを見上げた。
その唇が、震えた。
「……フィオラ」
口の中だけで呟くような声だった。
黒いドラゴンを討った日、向こうのカイン型の影が、ララを見つめて呟いた声。
あのとき、風に紛れて届かなかった名前だった。
ララの手から、杖が滑り落ちかけた。
ララは、それを両手で握り直した。
アーカイブで、帳面の名前を見たときと同じ仕草だった。
ララの目が、ゆっくりと見開かれていく。
感情の薄かった顔に、色が差していく。
何かが、奥のほうから押し上げられてくるように。
「……アシェル」
ララの声だった。
けれど、ララの声ではなかった。
ずっと同じ声なのに、中身が満ちていた。
「フィオラ!」
ルゥが、涙でぐしゃぐしゃの顔のまま叫んだ。
「八十年だって! 八十年! あたしたち、八十年もここにいたんだって!」
「……八十年」
ララは、震える唇で繰り返した。
それから、アシェルの擦り切れた肩と、ほどけかけた指先を見た。
「そんなに、待たせて」
一歩、アシェルのほうへ踏み出す。
「遅刻したのは、あなたのほう」
アシェルの顔が、くしゃりと歪んだ。
笑ったのか、泣いたのか、カインにはわからなかった。
ルゥが、声を上げて泣き出した。
ペトラが、ララの肩をそっと抱いた。
それから、ペトラはミラのほうを振り返った。
目尻の笑い皺が、涙で濡れていた。
「あんたが、聞いてくれた子だね」
声は、しゃがれていたが、あの途切れ途切れの声と同じだった。
「たのむ、って言ったの、ちゃんと覚えててくれた」
「覚えてます」
ミラは、まっすぐに頷いた。
「忘れません」
ペトラは、何か言いかけて、やめた。
代わりに、ミラの手を、ノームの小さな両手で強く握った。
グンナルは、鼻をすすって、そっぽを向いた。
ノリアは、黙ってララの背中を見つめていた。
ララが、ふと振り返った。
ノリアと目が合う。
さっきまでのララなら、そのまま何も言わずに目をそらしていただろう。
「あの席」
ララは、空っぽの影が消えた場所に目をやった。
「私の代わりに、あなたが映ってたのね」
「……私、何もしてないけど」
ノリアは、杖を握りしめた。
「知ってる」
ララは、ほんの少しだけ笑った。
ララが笑うのを見るのは、たぶん、ここにいる誰にとっても初めてだった。
「空いてた席に、ちょうどいい形があった。それだけ。でも、おかげで、戻ってこられた気がする」
ノリアは、何も言えずに頷いた。
杖を握る指に、ぎゅっと力がこもっていた。
隣で、ワングが立ち上がる気配がした。
ワングは、ハクエンの前まで歩いていった。
それから、村雨と氷姫を鞘ごと腰から外し、石の床に膝をついた。
「拙者の型の、始まりの方でござるか」
ハクエンが、ワングを見下ろした。
ワングの失われた右手を見た。
幻の右手が握っていた、氷姫の鞘を見た。
二振りの刀を、見た。
「一刀を、二刀にしたか」
ハクエンの声は、枯れていたが、よく通った。
「片手を失って、それでも、二刀に」
ハクエンの口元が、ゆっくりとほころんだ。
「型は、ここまで伸びたか」
ワングは、顔を上げなかった。
床についた左手の甲に、ぽつりと雫が落ちた。
その向こうで、グンナルがスルの盾をじっと見ていた。
縁に打たれた、二筋の炎の印。
グンナルは、何も言わなかった。
ただ、太い指で、その印をそっとなぞった。




