第217話「裂け目の前、待っていた男」
影たちが後ろに並んだまま、誰も動かなかった。
六人も、動けなかった。
扉は、目の前にある。
開けないと決めたばかりだった。
器を持たずに、この先へ行くべきではない。
理由はうまく言えないが、カインはそう感じていた。
「……戻るか」
カインが言いかけたときだった。
扉の向こうで、重いものが擦れる音がした。
黒ずんだ石の両開きが、内側から、ゆっくりと押し開かれていく。
誰も、手を触れていなかった。
「開いた……」
ノリアが、杖を抱きしめた。
「こちらからは、開けておらぬでござる」
ワングが、村雨の柄に手をかけた。
「向こうから、開けられたのでござる」
扉の隙間から、風が吹いてきた。
白と黒の渦の中で、初めて感じる風だった。
冷たくはない。
ただ、ひどく古い匂いがした。
埃と、鉄と、何かが長いあいだ燃え続けている匂い。
「……行くしかないな」
カインは、手の甲を見下ろした。
証は、脈を打たずに静かに光り続けている。
「開けてもらったのに、帰りますってのも、失礼だろ」
「そういう問題?」
ネリスが呆れた声を出した。
呆れながらも、先頭に立って扉の隙間へ踏み込んでいく。
スルが、すぐにその後ろについた。
扉の向こうは、広い空間だった。
白と黒の渦が、ここでは壁のように遠くまで退いている。
足の下には、はっきりとした床の感触があった。
石だ。
ズールに入ってから、初めて踏む石だった。
そして、その奥に、それがあった。
裂け目だった。
空間そのものが、縦に大きく裂けていた。
天井があるのかどうかもわからない高さから、足元の石の床まで。
裂け目の内側には、色がなかった。
白でも、黒でもない。
見つめようとすると、目のほうが逃げていくような、名前のない暗さ。
エアの三層で見た、色の判別できない部屋。
あの部屋の色に、どこか似ている気がした。
裂け目の縁は、ゆっくりと脈打っていた。
開こうとする力と、閉じようとする力が、そこで押し合っているように見えた。
「……あれ、何」
ネリスが、耳を伏せた。
誰も、答えられなかった。
スルが、黙ってネリスの前に半歩出た。
盾を構えはしなかった。
構えたところで、どうにかなる相手ではない。
それでも、前に立たずにはいられないようだった。
「近づくな、とは言わない」
スルが低く言った。
「だが、俺より前には出るな」
ネリスは、珍しく言い返さずに頷いた。
裂け目の前に、人が一人立っていた。
背中をこちらに向けている。
ひょろりとした男だった。
着ているものは、元が何色だったのかわからないほど色褪せ、裾がほつれて糸が垂れている。
腰に剣を一振り提げていた。
その背中から、細い光の糸が何本も伸びていた。
糸は裂け目の縁へ向かい、縫い目のように、両側の端をつなぎとめている。
男の輪郭は、ところどころが擦り切れていた。
肩の線が、指先が、影たちと同じように、渦の中に少しずつほどけかけている。
それでも、男は立っていた。
背中が、ゆっくりとこちらを向いた。
痩せた顔だった。
頬がこけ、目の下に深い影がある。
年は、よくわからなかった。
若いようにも見えたし、ひどく年を取っているようにも見えた。
ただ、目だけが、驚くほど穏やかだった。
「よく来たな」
男が言った。
低く、少しかすれた声だった。
その声を聞いた瞬間、カインの背筋に震えが走った。
(この声だ)
召喚してみろ。
来い。
頭の中に響いたあの声と、同じだった。
「次の、万能士」
男は、まっすぐにカインを見ていた。
「……俺のこと、知ってるのか」
カインは、自分の声が少しかすれているのに気づいた。
「知っとる。ずっと、見とった」
男は、ほんの少しだけ口の端を上げた。
「見ることしか、できんかったがな」
そのとき、カインの背後で気配が動いた。
振り返ると、向こうのカインが一歩前に出ていた。
影の中でひときわ薄かった輪郭が、カインの横をすり抜けて、裂け目の前の男へ歩いていく。
男の前で、影は立ち止まった。
それから、水が水に溶けるように、男の姿の中へ吸い込まれて消えた。
男は、影が消えた胸のあたりに、そっと手を当てた。
「長いこと、使い走りをさせたな」
影に向かって言ったのか、自分に向かって言ったのか、わからなかった。
「あれ、あんただったのか」
カインが言った。
「俺の影のふりをして、道を指さしてたの」
「わしの影が、お前さんの形を借りとった」
男は頷いた。
「ここからは動けんのでな。影を飛ばすのが、精いっぱいだった」
男の背後で、裂け目の縁がひときわ大きく脈打った。
光の糸が張りつめ、男の肩がわずかに揺れる。
男は振り返りもしなかった。
慣れているのだ、とカインは思った。
ずっと、こうしてきたのだ。
ミラが、思わず前に出た。
手のひらを、男の擦り切れた肩へ向ける。
「浄光——」
「やめとけ」
男が、穏やかに首を振った。
「気持ちだけ、もらっとく。これは、傷ではないのでな」
「でも、ほどけてる」
ミラの声が、少し震えていた。
「肩も、指も。放っておいたら」
「放っておいたら、そのうち全部ほどける」
男は、事もなげに言った。
「それまでに、お前さんたちが来てくれた。それで十分だ」
ミラは、手のひらを向けたまま動けなかった。
何かを言い返そうとして、言葉が見つからないようだった。
カインは、ミラの肩にそっと手を置いた。
ミラの肩は、細かく震えていた。
「あんたは」
カインは、一歩前に出た。
「あんたは、何者なんだ」
男は、少しのあいだ黙っていた。
それから、静かに答えた。
「このズールを、預かっとる者だ」
「管理者……」
ミラが、小さく呟いた。
エランドが言っていた。
ズールで、管理者と会うことになる、と。
ベーダーやエランドと、似たようなもの。
「それと、もう一つ」
男は、裂け目のほうへ視線を流した。
「わし一人では、どうにも目が届かんでな。ほかの迷宮にも、見張りを置いた。迷宮が溢れんように、よどまんように、内側から見ていてくれる者たちを」
六人は、顔を見合わせた。
見張り。
その言葉を、六人は知っていた。
エアの三層、色の判別できない部屋で、長身の戦士が自分をそう呼んでいた。
大神カレントとは別の、迷宮を司る方に頼まれた、と。
カインは、男を見つめた。
擦り切れた姿。
背中から伸びる光の糸。
一人分より多い荷物を背負っていた、影の背中。
アーカイブの帳面に並んでいた、六つの名前。
その先頭に書かれていた、ヒューマンの万能士。
「……アシェル」
カインは、その名を口にしていた。
男の目が、わずかに見開かれた。
「名を、知っとるのか」
「アーカイブの、未帰還の記録で見た」
カインは、ゆっくりと言った。
「八十年前の、万能士。召喚の能あり」
男は、長いあいだ黙っていた。
やがて、ふっと息を吐いた。
笑ったようにも、ため息をついたようにも聞こえた。
「そうか。記録には、残っとったか」
否定はしなかった。
それが答えだった。
カインは、拳を握った。
聞かなければならないことが、一つあった。
「……ベーダーさんに見張りを頼んだのは、あんたか」
アシェルの顔から、穏やかさが少しだけ引いた。
その目が、カインから外れて、足元の石の床に落ちる。
「そうだ」
短い答えだった。
「わしが、頼んだ」
アシェルは、それ以上は言わなかった。
言わなかったが、その肩が、裂け目の脈とは別のもので、かすかに揺れていた。
ガラントの店で、ベーダーの肉声を聞いた夜のことを、カインは思い出していた。
元気で、いるか。
いつか、また、お前の店で、一杯やりたい。
その声の主を、十五年、迷宮に縛りつけた人が、今、目の前にいる。
カインの後ろで、影たちが静かにざわめいていた。
向こうのネリスが、何か言いたそうに口を開けては閉じている。
向こうのワングが、刀の柄から手を離し、アシェルに向かって頭を垂れていた。
向こうのスルは、盾を下ろしたまま、裂け目とアシェルを交互に見ていた。
空っぽの向こうのノリアだけが、相変わらず、どこも見ていなかった。
アシェルは、影たちのほうを一度だけ見た。
その目が、ほんの一瞬だけ、ひどく懐かしそうに細められた。
それから、カインに視線を戻した。
「話さねばならんことが、たくさんある」
アシェルは言った。
「座れるような場所では、ないがな」
裂け目が、また大きく脈打った。




