第216話「変わる顔、呼ぶ声」
クロスロードの奥の広間では、魔石の山が今日も少しずつ高くなっていた。
窓口に並ぶ冒険者の列は、朝から途切れていない。
「器は、まだ満ちてない」
工房から様子を見に来たダダが、山を見上げて言った。
「満ちるまで、もう少しかかる。その間に、お前たちは道を確かめておけ」
「奥まで、行ってくる」
カインが答えた。
「一番奥の、手前まで。器を運ぶ道を、先に見ておきたい」
「無理はするな」
ダダは、それだけ言って工房へ戻っていった。
背中が、いつもより少しだけ急いでいた。
八度目の潜行だった。
アーチをくぐり、白と黒の渦に足が沈む。
カインは、自分の手の甲を見下ろした。
証の明滅は、ゆっくりだ。
「こっち」
ネリスが、迷いなく歩き出した。
「今日は、いつもより奥まで引っ張られてる感じがする」
「引っ張られてる?」
ミラが聞き返す。
「うん。道が、向こうから寄ってくるみたい」
ネリスの言葉どおり、今日の道はやけに素直だった。
白と黒の境目が、まっすぐに奥へと伸びている。
分かれ道も、ほとんどなかった。
最初の影が現れたのは、しばらく進んだところだった。
向こうのワングが、道の脇に立っていた。
いつものように、柄に添えた手を鍔からこぶし一つ分だけ離している。
ワングが、足を止めた。
「……顔が」
低い声だった。
カインも、影の顔を見た。
ワングの顔だった。
ワングの顔の、はずだった。
角の形が、わずかに違う。
鱗の色が、少しだけ褪せている。
目元に、ワングにはない深い皺が刻まれていた。
鏡に映っていた顔が、内側から、別の誰かの顔に押し上げられている。
そんなふうに見えた。
「拙者では、ござらぬな」
ワングが、静かに言った。
「もう、姿すら、借りておられぬ」
ワングは、影に向かって深く頭を下げた。
道場で、師の師の名が読み上げられるときにだけするような、長い礼だった。
向こうのワングは、黙って奥を指さした。
そして、靄に溶けた。
先へ進むにつれて、影は次々と現れた。
向こうのミラは、頬の丸みが変わっていた。
ミラよりも小柄で、目尻に笑い皺がある。
「あの人だ」
ミラが、胸の前で手を握った。
向こうのミラは、ミラと目が合うと、ほんの少しだけ頭を下げた。
声は、今日は聞こえなかった。
それでも、ミラは同じように頭を下げ返した。
「たのむ、って言われたから」
ミラは、誰にともなく小さく呟いた。
「ちゃんと、覚えてる」
向こうのスルは、背丈が縮んでいた。
獣人族の広い肩の上に、ずんぐりとした顎と、編み込んだ髭の影がちらついている。
「……ドワーフだ」
スルが呟いた。
「ダダに、似てる」
向こうのカインだけは、顔がよく見えなかった。
影の中でもひときわ薄く、輪郭が揺れている。
それでも、背中に背負った荷物が、明らかに一人分より多かった。
(荷物、持ちすぎだろ)
カインは、思わず心の中で突っ込んでいた。
ネリスとスルがコインの映像で見たという、あの男の背中だった。
「向こうのノリアは?」
ノリアが、辺りを見回した。
「今日は、まだ見てない」
「最後に出てくるのかもな」
カインが言うと、ノリアは黙って杖を抱え直した。
空っぽの影が、今日も空っぽのままなのか。
それとも、何かが変わっているのか。
ノリアの横顔は、どちらを願っているのか、カインには読めなかった。
最後に現れたのは、向こうのネリスだった。
道の真ん中に立って、こちらを待っていた。
耳の形が、猫のものから少し変わっている。
先が尖って、毛並みがふさふさしていた。
しっぽも、ネリスのものより太く、先だけが白い。
「狐だ」
ネリスが言った。
向こうのネリスは、今日は腕を振り回さなかった。
両手を胸の前で握りしめて、何かを堪えるように立っている。
口が、何度も開きかけては閉じた。
「……っ」
小さな音が、漏れた。
全員が、息を止めた。
「……や」
向こうのネリスの喉が、ひくりと動く。
「やっと……」
声だった。
かすれて、ひび割れて、ずっと使っていなかった楽器のような声。
それでも、今度は全員の耳に届いていた。
「やっと、しゃべれた」
向こうのネリスの目が、見る間に潤んだ。
次の瞬間、堰を切ったように言葉があふれ出した。
「しゃべれた! ねえ、しゃべれたよ! 聞こえてる? 聞こえてるよね? ずっと、ずーっと言いたかったの!」
「……聞こえてる」
ネリスが、一歩引いた。
「よかったあ! あのね、コインの部屋、覚えてる? あれ、わかった? 手紙ってちゃんと伝わった? 私、身振りだけで説明するの、ほんとに大変だったんだから!」
「伝わった」
「よかった! それとね、あんたのお兄さん! 盾の人! ずっと気になってたの、あのドラゴンの日から! ちゃんと戻ってこられたんだね、よかったねえ、ほんとによかった!」
向こうのネリスは、スルのほうを向いて、ぶんぶんと手を振った。
スルは、盾の陰で少しだけ身を引いた。
「それからそれから、あんたの足、速いよね! 私も速いんだけど、あんたのほうが一歩目が鋭い! どこで覚えたの、あの踏み込み!」
「……うるさい」
ネリスが、耳を伏せた。
「あと、あんたたち、道の選び方が上手! 私たちのときは、もっと迷ったの! 迷って迷って、あの人がいつも地図広げて、でも地図なんか役に立たなくて——」
「うるさい」
ネリスが、もう一度言った。
さっきより、少し声が大きかった。
「あっ、ごめん、ごめんね! でも、しゃべれるのが嬉しくて! どれくらいしゃべれなかったのか、自分でもわかんないんだけど、すっごく長かった気がして——」
止まらなかった。
ネリスが呆れた顔でカインを振り返った。
助けろ、と目が言っていた。
カインは、笑いをこらえるのに苦労した。
(これは、コインの映像の、しゃべり続けてた狐の娘だな)
間違いなかった。
「なあ」
カインが、どうにか口を挟んだ。
「名前、教えてくれないか」
向こうのネリスは、ぱっとカインのほうを向いた。
「名前? 私の? 私はね——」
そこで、声が途切れた。
口は動いている。
それなのに、名前のところだけ、音にならなかった。
向こうのネリスは、何度か口を開け閉めして、それから頬をふくらませた。
「……もう! なんでそこだけ!」
その文句だけは、はっきりと聞こえた。
ネリスが、小さく吹き出した。
すぐに咳払いでごまかしたが、しっぽが揺れていた。
「……変なやつ」
「変じゃないよ!」
向こうのネリスは、両手を腰に当てて胸を張った。
それから、急に真顔になって、道の奥を指さした。
「この先。もうすぐだよ。……あの人が、待ってる」
「あの人?」
カインが聞き返したとき、頭の奥に声が響いた。
来い。
低く、短い声だった。
耳で聞いたのではない。
頭の中に、直接置かれたような声。
カインは、その声を知っていた。
五層の六つ目の試練で、弱点の像が浮かばない巨大な猫と向き合っていたとき。
召喚してみろ、と頭の中で告げたのと、同じ声だった。
「カイン?」
ミラが、顔を覗き込んできた。
「今、誰か何か言ったか」
カインは、五人を見回した。
五人とも、首を横に振った。
向こうのネリスだけが、じっとカインを見ていた。
何も言わずに、少しだけ嬉しそうな顔をしていた。
「……呼ばれた」
カインは、道の奥を見つめた。
「前に、召喚してみろって言った声だ。今度は、来いって」
誰も、すぐには何も言わなかった。
「行こう」
スルが、短く言った。
「呼ばれたなら、行けばいい」
道は、それからすぐに終わった。
白と黒の渦の中に、初めて、形のあるものが立っていた。
扉だった。
黒ずんだ石でできた、見上げるほど大きな両開きの扉。
ズールの門のアーチと、同じ石に見えた。
扉の前で、カインは自分の手の甲を見下ろした。
証の明滅が、止まっていた。
速くなったのではない。
六枚の花弁が、脈を打つのをやめて、ただ静かに光り続けている。
五人の手の甲も、同じだった。
「ここが、一番奥……?」
ノリアが、かすれた声で言った。
「たぶんな」
カインが答えた。
今日は、開けない。
器を持たずに開けてはいけない気がした。
理由は、うまく言えなかった。
そのとき、背後で靄が動く気配がした。
振り返ると、影たちが立っていた。
向こうのカイン。
向こうのスル。
向こうのミラ。
向こうのワング。
向こうのネリス。
そして少し離れて、空っぽの、向こうのノリア。
影たちは、もう道を指さしていなかった。
六人の後ろに、一列に並んでいた。
まるで、ずっと前から、そこが自分たちの場所だったかのように。
ズールのお話も、最終章に入ります。
よろしくお願いいたします。




