第214話「下働きの記憶、二人で打つ器」
ブロムの指は、三筋の炎の印の上で止まったままだった。
炉の火が、ぱちりと爆ぜる。
それでも、ブロムは動かなかった。
「ブロム」
ダダがもう一度呼ぶと、ようやく太い指がかすかに震えた。
ブロムは器を作業台にそっと戻し、背後の古い腰掛けに腰を落とした。
いつもなら、どれだけ炉の前に立っていても腰掛けなど使わない男だった。
「グンナルの親方の、印だ」
ブロムの声は、低くかすれていた。
「知ってたのか」
ダダは、思わず身を乗り出した。
「親父でさえ、ほとんど口にしなかった名前だ。なんで、あんたが」
「わしは、小僧だった」
ブロムは、自分の両手を見下ろした。
火傷の痕と、鎚だこだらけの手だ。
「十になるかならんかの頃だ。親方の工房で、炭を運んで、鞴を踏んで、床を掃いとった。鎚なんぞ、触らせてももらえんかった」
「……八十年前の話だろ」
「ドワーフの八十年だ。長いが、忘れるほどでもない」
ブロムは、ふっと息を吐いた。
笑ったのかどうか、ダダには判別がつかなかった。
「親方の仲間も、よう工房に出入りしとった」
ブロムは、遠くを見るような目をした。
「やかましい狐の娘がおってな。来るたびに、小僧のわしにまで菓子を押しつけては、しゃべり倒して帰っていく。ひょろっとした男は、毎度、仲間の荷物まで山ほど背負って、親方に鎚で小突かれとった」
ダダは、はっとした。
ネリスとスルが、コインの映像で見たと言っていた六人。
しゃべり続ける狐の娘と、荷物を背負いすぎた男。
「エルフの娘は、親方の打った杖の握りに、いつも文句をつけとった。ここの角度が一分違う、とな。親方は黙って直しとったが、あれは、たぶん楽しんどった」
ブロムの口元が、ほんのわずかに緩んだ。
「親方は、ほとんどしゃべらん人だった。黙って打って、黙って仕上げて、黙って仲間に渡す。その親方が、一つだけ、何度も口にしとった言葉がある」
ダダは、黙って続きを待った。
「戦う剣を打つな。六人を、戦わせ続けるための剣を打て」
工房の中が、しんと静まった。
ダダは、その言葉を知っていた。
自分が前衛を退き、仲間の得物を打つと決めたとき、この工房でブロムに言われた言葉だ。
お前さんが打つべきは、戦う剣じゃない。
六人を、戦わせ続けるための剣だ。
「あれは、あんたの言葉じゃなかったのか」
「わしの言葉なもんか」
ブロムは、首を横に振った。
「親方の言葉を、八十年、借りとっただけだ。お前さんに言うたとき、ようやく持ち主に近い者に返せた気がしとった。まさか、本当に親方の血筋だったとはな」
ダダは、何も言えなかった。
自分の家の印と、三筋の炎の印。
その二つが並んだ器を見下ろす。
あのとき、ブロムはダダの家の印を見て、何か思うところがあったのかもしれない。
聞いても、たぶん答えない。
ブロムは、そういう男だった。
「それで、だ」
ブロムが腰掛けから立ち上がり、器の内側に指を差し入れた。
底の窪みから、髪の毛ほどの細い溝が、縁に向かって放射状に走っている。
ダダがどれだけ眺めても、何のための仕組みか見当もつかなかったものだ。
「こいつを、わしは見たことがある」
「どこで」
「親方の工房の、奥の壁だ。炭で、大きく描いてあった」
ブロムの指が、溝の一本をゆっくりとなぞった。
「親方は、それを楔の器と呼んどった」
「楔の、器」
ダダは、その名を繰り返した。
「何かを、塞ぐための器だと聞いた。人が塞がずに済むように、とな」
ブロムは、窪みの縁を指の腹で叩いた。
こん、と澄んだ音がした。
「何を塞ぐのかまでは、小僧のわしには教えてもらえんかった。親方は、描きかけのまま潜って、帰ってこんかった。壁の図も、工房が人手に渡ったときに塗りつぶされた」
ダダは、器の窪みを見つめた。
何かを塞ぐ。
人が塞がずに済むように。
頭の奥で、エランドの言葉がちらりと浮かんだ。
ズールの管理者。
この世界の成り立ち。
それを、ブロムに話そうとした。
口を開きかけたところで、言葉が喉の奥でほどけていった。
(ブロムにも、話せないのか)
ダダは、黙って口を閉じた。
ブロムは、ダダの様子に気づいたのかどうか、何も聞かなかった。
「図と、ほとんど同じだ」
ブロムが、器を炉の明かりに傾けた。
「だが、一つだけ足りん。窪みの真ん中に、芯が通っとらん」
ブロムの指の先で、窪みの底にごく浅い穴が開いていた。
何かを差し込むために空けられた、細い穴だ。
「親方の図では、ここに芯を打ち込んで、そいつが溝の全部を束ねることになっとった。親方は、そこまで描いて、そこで止まった」
「向こうで、仕上げなかったってことか」
「仕上げられんかったんだろうよ」
ブロムの声が、少しだけ柔らかくなった。
「芯は、器を打った本人の鎚でなけりゃ、器になじまん。親方の口癖の、もう一つだ。これは、お前さんの器だ。お前さんが打った銀に、親方が仕組みを彫り込んだ。芯を打てるのは、親方じゃない」
ブロムは、器をダダの前に押し出した。
「お前さんだ」
ダダは、器を両手で受け取った。
銀は、炉の熱を吸って、ほんのりと温かかった。
自分が打った器。
八十年前に途切れた仕事。
それが、今、一つの器の中で継ぎ合わされている。
(大伯父さん)
会ったこともない人を、ダダは初めてそう呼んだ。
「打つ」
ダダは言った。
「手伝ってくれるか」
「小僧の仕事でよけりゃな」
ブロムは鞴に足をかけた。
八十年前と同じ場所に、立つように。
炉の火が、ごうと音を立てて明るくなった。
芯にするミスリルの細い棒を、ダダは火の中に差し入れた。
色が変わるのを待つあいだ、二人とも口をきかなかった。
鞴の音と、火の音だけが、工房に満ちていた。
「今だ」
ブロムの声で、ダダは棒を引き出し、金床に据えた。
鎚を振り上げる。
一打目。
金属が鳴った。
その瞬間、ダダは手のひらに、覚えのある手応えを感じた。
鎚から銀へ、何かが流れ込んでいく。
仲間の盾を打つときに、いつも感じるものだった。
一打ごとに、金属が少しだけ固く、温かくなる。
打たれた銀が、受け止める側の顔になっていく。
エランドから授かった加護。
仲間全体を底上げする、育つ力。
盾を置いてから、ダダはそれを鎚に乗せて打ってきた。
その手応えが、今、器の芯にもはっきりと乗っている。
「……お前さんの鎚は、打つたびに何か乗っとるな」
鞴を踏みながら、ブロムが呟いた。
「わかるのか」
「わかる。親方の鎚も、そうだった」
ダダの手が、一瞬だけ止まった。
「何が乗っとったのかは、知らん。だが、親方の打った盾を持った連中は、みんな妙に倒れにくかった。小僧の目にも、それだけはわかった」
ダダは、何も答えずに、また鎚を振り下ろした。
二打目。
三打目。
十打目を過ぎたあたりで、ブロムが黙って窪みの位置を指さした。
ダダは頷き、芯の先を窪みの穴に合わせる。
軽く一打。
芯が、すっと沈んだ。
その瞬間、器の内側の溝が、端から端まで一度だけ淡く光った。
髪の毛ほどの細い線が、窪みから縁へ、放射状に光を走らせる。
すぐに消えた。
それでも、確かに光った。
「通ったな」
ブロムが、鞴から足を下ろした。
「芯が、溝を束ねた。親方の図のとおりだ」
ダダは、鎚を置いた。
額の汗を拭うことも忘れていた。
「これで、使えるのか」
「形はな」
ブロムは、器を覗き込んだ。
「だが、楔の器は、器だけじゃ何も塞げん。中身が要る」
「中身」
「魔石だ。窪みに注いで、芯から溝へ、溝から縁へ、力を行き渡らせる。器いっぱいに満ちたとき、初めて楔になる。親方は、そう言うとった」
ダダは、棚の小袋から手持ちの魔石を一掴み取り出した。
ノアの浅いところで拾ったような、小指の先ほどの石だ。
それを、窪みにそっと落とす。
石は、底に触れた途端に淡く光り、溶けるように消えた。
溝の根元が、爪の先ほどだけ明るくなる。
それきりだった。
もう一掴み落とす。
同じだった。
光は、根元から少しも先へ進まない。
ブロムが、腕を組んで長いこと黙り込んだ。
やがて、指を折って何かを数え始める。
「深層の、上等な魔石でな」
ブロムが、ようやく口を開いた。
「縁まで満たすとなると、エクスチェンジの蔵を一つ空にして、足りるかどうか、というところだ」
ダダは、窪みの底の小さな光を見つめた。
六人が、何年潜り続けても届かない量だった。
一つのパーティで集められる量では、とてもなかった。




