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『マラン、はじまりの迷宮』〜わからないことばかりの、迷宮攻略記〜  作者: 奇木 尋
第八部 ズール 影の導き

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第213話「空っぽの席、型を知る杖」

「ララを、連れていけない?」

ヘクサインの共用室で、ノリアは杖を膝に乗せたまま言った。

夕飯の皿が片づいたあとで、卓にはまだ湯気の残る杯が並んでいる。

カインが、杯を持つ手を止めた。

「ズールに?」

「うん。向こうの魔法使いの影、見せてみたい」

アーカイブでティリーに話してから、ノリアはずっと、あの空っぽの影のことを考えていた。

ほかの五人の影には、中に誰かがいる。

あれだけ、いない。

アーカイブで、フィオラという名前を読んだララは、理由もわからないまま杖を握り直していた。

頬に、一筋の涙まで伝わせて。

「ララに見せたら、何かわかる気がする」

「呼べないことは、ないけどな」

カインは、自分の手のひらの紋様を見下ろした。

「ズールで呼んだことは、まだない。向こうでちゃんと形になるかどうか」

「試すだけでも、いいと思う」

ミラが、横から言った。

「ララも、仲間だから。私たちだけで、ララのことを決めるのは、なんか違う」

「ララ本人に、聞いてみればよかろう」

ワングの一言で、話はまとまった。

次の潜行で、中に入ってから呼んでみる。

嫌がったら、すぐに戻す。

それだけ決めて、その夜は早めに休んだ。

七度目の潜行だった。

アーチをくぐり、白と黒の渦に足が沈む。

証の明滅が落ち着いているのを確かめてから、カインは手のひらの紋様に指を重ねた。

「ララ」

淡い光が、渦の中にぼんやりと灯った。

灯った光は、なかなか形を結ばなかった。

街で呼ぶときより、ずっと時間がかかる。

ノリアが息を詰めて見守るうちに、ようやくエルフの魔法使いが姿を現した。

輪郭が、ほかの六人と同じように、うっすらと滲んでいる。

ララは辺りを見回した。

上も下もない白と黒を、いつもの感情の薄い目で、ゆっくりと眺める。

「ここ、知らない」

「ズールっていう迷宮だ。気分は悪くないか」

カインが聞いた。

ララは、少しだけ首を傾げた。

「……嫌じゃない」

それだけ言って、杖を抱え直した。

「ララ、今日は戦うためじゃなくて、見てほしいものがあるの」

ノリアが言うと、ララは黙ってノリアを見た。

わかった、とも、わからない、とも言わなかった。

それがララの、いつもの返事だった。

ネリスの先導で、六人とララは奥へ進んだ。

二つ目の分かれ道で、ネリスの耳が立った。

「いる。……全員」

靄が、六つ同時に立ち上がった。

向こうのカイン。

向こうのネリス。

向こうのミラ。

向こうのワング。

向こうのスル。

それぞれに、立ち方の癖があった。

向こうのネリスは今日も落ち着きなく体を揺らし、向こうのスルは腰を落として盾を低く据えている。

向こうのワングは、柄に添えた手を鍔からこぶし一つ分だけ離していた。

そして、五人から少し離れたところに、向こうのノリアが立っていた。

杖を抱えた、エルフの少女の姿。

ノリアは、それをまっすぐ見つめた。

(やっぱり、空っぽ)

杖を抱えているのに、杖を持っている感じがしない。

立っているのに、どこにも重さがかかっていない。

まばたきもしない。

首も傾げない。

誰かが中にいて動かしているのではなく、ただ、そこにノリアの形が映っているだけだった。

水たまりに映った空のような影。

覗き込んでも、奥には何もない。

そのとき、ノリアの隣でララが一歩前に出た。

杖を抱えたまま、空っぽの影をじっと見ている。

誰も、何も言わなかった。

ララの口が、ゆっくりと開いた。

「あそこ」

声は小さかった。

それでも、はっきりと全員に届いた。

「私の、場所だった気がする」

ノリアは、息を呑んだ。

ララが自分から何かを言うのを、初めて聞いた。

呼ばれれば答える。

聞かれれば、わからないと言う。

これまで、ララの言葉はいつもそうだった。

「ララ」

カインが、そっと呼んだ。

ララは、振り返らなかった。

「わからない。でも、あそこ、空いてる。空いてるのが、なんだか、落ち着かない」

向こうのカインが、ララのほうを見ていた。

ほかの四つの影も、同じ方を見ている。

空っぽの影だけが、どこも見ていなかった。

「来る!」

ネリスが叫んだ。

影たちの足元の渦が濁り、輪郭のない塊が三つ、ぐずぐずと膨らみ始めていた。

影たちは、それを避けるように靄へ溶けていく。

「スル、前! ワング、右を頼む」

カインが指示を飛ばした。

スルの盾が一つ目の塊を受け止め、ワングの二刀が二つ目を裂く。

三つ目は、ほかの二つの陰から、大きく回り込もうとしていた。

「ノリア、あれを頼めるか」

「やる」

ノリアは、杖を構えた。

雷殺。

単体の敵なら、これがいちばん確実だ。

手のひらに、魔力を集める。

練る。

五層の試練のあいだに覚えた、魔力を練るやり方だ。

ここでは、それすら思うようにいかなかった。

集めた魔力が、端から白と黒の渦に溶け出していく。

こぼすまいと力を込めるほど、輪郭が膨らんで崩れそうになる。

(また、大きくなりすぎる)

このまま撃てば、雷は太く広がって、塊の手前にいるスルまで巻き込みかねない。

抑えようとすれば、今度は形そのものがほどけていく。

そのとき、ノリアの手首に、冷たい指先が触れた。

ララだった。

いつの間にか、ノリアのすぐ横に立っている。

「そこ、広げすぎ」

ララの指が、ノリアの手のひらの縁をなぞった。

魔力の、輪郭のいちばん外側。

ノリアがいつも、形を作るより先に溢れさせてしまうところだ。

「量は、そのまま。外を、細く」

ララの指が触れた場所から、ほどけかけていた輪郭がすっと締まった。

器の縁を、誰かが内側から整えてくれたような感じだった。

ノリアの魔力はそのままに、形のほうが、正しい位置に収まっていく。

(あ、これ)

ノリアは、初めて呪文の型というものを手で触った気がした。

これまで、型は教わっても、いつも指の隙間から溢れていった。

その型が、今は手のひらの中で、きちんと形を保っている。

「……撃って」

ララが言った。

「雷殺」

雷が走った。

いつもの雷殺ではなかった。

太く広がって落ちるノリアの雷ではなく、糸のように細く、まっすぐな一本の光。

それが、回り込もうとしていた塊の真ん中を、寸分の狂いもなく貫いた。

スルの肩のすぐ横を通ったのに、スルの毛一本焦がしていない。

塊は、音もなく渦にほどけて消えた。

「……今の、ノリアか」

スルが、盾越しに振り返った。

「私、だけじゃない」

ノリアは、自分の手のひらを見下ろした。

まだ、ララの指の冷たさが残っている。

残りの二つの塊を、カインとワングが片づけた。

渦が、また静かに巡り始める。

ノリアは、ララのほうを向いた。

ララは、もう何事もなかったように杖を抱えていた。

「ララ。今の、どうやったの」

「わからない」

ララは、首を傾げた。

「手が、勝手に、そうした」

ノリアは、ララの手を見つめた。

細くて白い指だった。

さっき、ほんの一瞬触れただけで、ノリアが何百回やってもできなかったことをやってのけた指。

(この人、型を知ってる)

知っている、どころではない。

完璧に、体が覚えている。

それなのに、ララの撃つ呪文は、召喚されて初めてあれほどの威力を持ったのだという。

カインのレベルから、力を受け取っているから。

前に、カインがそう話していた。

「この人は、型が完璧なんだ」

ノリアは、呟いた。

「でも、きっと、魔力が足りなかった」

ララが、ノリアを見た。

長いあいだ、黙っていた。

それから、ほとんど聞き取れないくらいの声で言った。

「……足りなかった」

ララの目が、白と黒の渦のどこか遠くを見ていた。

「ずっと」

誰も、口を開かなかった。

ノリアは、胸の奥がきゅっと縮むのを感じた。

魔力ばかり多くて、型が覚えられなかった自分。

型は完璧なのに、魔力が足りなかった誰か。

どちらも、欲しいものを持っていなかった。

そして、どちらも、相手の欲しいものを持っていた。

(羨ましいって、思われる側だったんだ、私)

ずっと、自分は足りない側だと思っていた。

遅くて、大きすぎて、どこにもきちんと収まらない魔法使い。

その多すぎる魔力を、誰かがずっと欲しがっていたのかもしれない。

考えたこともなかった。

「ララ」

ノリアは、ララの手をそっと取った。

「また、教えて。今の」

ララは、少しだけ目を瞬かせた。

「……うん」

カインの手の甲で、証の明滅が速くなり始めていた。

「戻ろう」

カインの声に、全員が頷いた。

帰り道、ノリアは一度だけ振り返った。

分かれ道の奥に、空っぽの影がまだ一つだけ残っていた。

ほかの影が消えたあとも、そこに映り続けている。

ララも、同じほうを見ていた。

空っぽの影は、やはり、どこも見ていなかった。


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