第212話「悔いの治癒師、間に合わせる手」
アーチの前で、ミラは自分の両手を一度だけ握って開いた。
六度目の潜行だった。
「証、みんな光ってる?」
振り返って確かめると、五人がそれぞれ手の甲を見せた。
六つの花弁が、同じ速さで淡く脈を打っている。
「今日は、盾の影が消えたところの先まで」
ネリスが、アーチの奥を見据えて言った。
「わかった。無理はしない」
カインが頷き、番人が黙って縄を外した。
アーチをくぐると、足の裏から地面が消える。
白と黒の渦の中を、六人はいつもの並びで進んだ。
ミラは、歩きながら指先に小さく魔力を集めてみた。
呪文にはしない。
形を作る手前で、ほどけないかどうかを確かめるだけだ。
ズールに入るようになってから、これが癖になっていた。
(今日は、いつもより重い)
集めた魔力が、指の隙間から砂のようにこぼれていく。
呪文を唱えるときには、ここからさらに形を作らなければならない。
この前アーカイブで、ノリアは魔法使いの席が空いていると言っていた。
それを聞いてから、ミラは向こうの自分のことばかり考えていた。
向こうのワングも、向こうのスルも、一人ずつ前に出てきた。
向こうの自分は、まだ一度、道を指さしただけだ。
「来る」
ネリスが鋭く言った。
前方の渦が一か所だけ濁り、みるみる膨らんでいく。
スルが盾を構えて、ネリスの前に出た。
次の瞬間、輪郭のない塊が、スルの盾の縁を越えて伸びた。
腕とも触手ともつかないものが、盾を構えた左腕に巻きつく。
「兄さん!」
ネリスが叫んだ。
スルは声も上げずに、巻きつかれた腕ごと塊を引き剥がそうとしている。
締めつけられた籠手が、みしりと鳴った。
ミラは、手のひらを前に向けた。
(間に合わせる)
「癒しの波」
唱えた瞬間、呪文の形が指の間でほどけかけた。
ここでは、いつもそうだ。
街で唱えれば一息で済む呪文が、ズールでは両手で水をすくうように、こぼれないよう支えていないと形にならない。
ミラは奥歯を噛みしめ、ほどけかけた輪郭を掴み直した。
淡い光が、どうにかスルの腕に届く。
籠手の隙間から滲み始めていた血が、そこで止まった。
「助かる」
スルが短く言い、塊を盾ごと押し返した。
その隙に、ワングの村雨が走る。
ノリアの封癒が、裂け目の塞がりを止める。
カインの一太刀で、塊は白と黒の渦にほどけて消えた。
ミラは、自分の手のひらを見下ろした。
指先が、かすかに震えている。
間に合った。
それなのに、心臓の音がなかなか静まらなかった。
(今の、半拍、遅かった)
誰も気づいていない程度の遅れだ。
結果は、何も変わらなかった。
それでも、ミラの体は、その半拍をちゃんと覚えていた。
「ミラ、大丈夫?」
ノリアが、顔を覗き込んだ。
「うん。ちょっと、疲れただけ」
嘘ではなかった。
全部でも、なかったけれど。
そのとき、ネリスの耳がぴくりと動いた。
「……いる」
道の先に、人影が一つ立っていた。
小柄な体に、軽装の鎧。
腰にロングソード、左腕に丸盾。
向こうのミラだった。
(私、だ)
自分と同じ顔が、こちらを見ている。
向こうのミラは、戦う気配を見せなかった。
道を指さすこともしなかった。
ただ、ミラの手元をじっと見つめていた。
さっき、呪文の形を掴み直したばかりの、その手を。
「ミラ殿を、見ておるでござるな」
ワングが、低く言った。
「私に、用があるのかな」
ミラは、一歩前に出た。
「ミラ」
カインが、呼び止めかけた。
「大丈夫。証は、まだゆっくりだし」
ミラは、振り返らずに答えた。
なぜか、そうしなければいけない気がした。
近づくにつれて、ミラは妙なことに気づいた。
向こうのミラの右手が、ときどき腰のあたりをさまよう。
ロングソードの柄ではない。
もっと下の、何もない場所だ。
そこにあるはずの何かを握ろうとして、空を掴んでは、また戻る。
(あれ、フレイルの持ち方だ)
ミラには、すぐにわかった。
ロードになる前、ずっと腰に提げていた鎖つきの鈍器。
握りの位置も、柄を探す指の癖も、ノームの治癒師が昔から受け継いできた持ち方そのものだった。
自分の姿をしているのに、手だけが、別の誰かの手をしている。
三歩の距離まで近づいたとき、向こうのミラの唇が動いた。
「……と」
かすれた音だった。
ミラは、足を止めた。
(今、声が)
これまで、影たちは一度も声を出さなかった。
口が動いても、何ひとつ届かなかった。
「……と、め……」
途切れ途切れの音が、白と黒の渦の中に落ちていく。
風の中で、遠くの誰かが叫んでいるような声だった。
「……とめ、られ……なかっ、た」
止められなかった。
そう聞こえた。
「今の、聞こえた?」
ミラは、後ろを振り返った。
五人とも、首を傾げていた。
「何も」
ネリスが、耳を立てたまま言った。
「口は、動いてたけど」
ネリスの耳にも届かない声が、ミラにだけ届いている。
ミラは、向こうのミラに向き直った。
「誰を、止められなかったの」
向こうのミラは、答えなかった。
代わりに、その目がゆっくりとミラの肩越しに動いた。
後ろに立つ五人の中の、誰かを見ている。
視線の先を確かめる前に、向こうのミラがまた口を開いた。
「……あの、ひと……ひとりで……ぜんぶ……」
言葉が、途中で渦に呑まれる。
「……まにあわ……なかっ、た」
その一言が、ミラの胸の奥の、ずっと触れずにきた場所に届いた。
間に合わなかった。
その言葉なら、よく知っている。
前のパーティにいた頃のことだ。
あの日のことは、今も誰にも話していない。
祈りの言葉を最後まで唱えきる前に、手の中の温かさが消えていった。
思い出せるのは、その感触だけだった。
自分の未熟さのせいだと、何度も思った。
今も、どこかでそう思っている。
「……私も、ある」
ミラは、自分でも驚くほど静かな声で言った。
「間に合わなかったこと」
向こうのミラの目が、ミラに戻ってきた。
「そのあと、ずっと、祈るのが怖かった。唱えても、また届かないんじゃないかって」
言葉にしたのは、初めてだった。
ダダにも、カインにも、話したことはない。
自分と同じ顔をした誰かにだから、言えたのかもしれない。
「でも、今は、隣にみんながいる」
ミラは、自分の手を見下ろした。
さっき、半拍遅れて、それでも間に合った手だ。
「一人で唱えてるんじゃないって、わかったから。怖くても、唱えられるようになった」
向こうのミラは、黙って聞いていた。
腰のあたりをさまよっていた右手が、止まっている。
「だから、今度は」
ミラは、一歩前に出た。
向こうのミラの、何も握っていない右手を、自分の両手で包む。
温かさも、冷たさもなかった。
それでも、確かにそこに手があった。
「今度は、間に合わせる」
ミラは、はっきりと言った。
「誰かが、一人で全部背負おうとしたら。今度は、私が止める」
自分でも、なぜそう言ったのかわからなかった。
向こうが止められなかった誰か。
その誰かの代わりに、今、目の前にいる誰かを思い浮かべていた気がする。
向こうのミラの唇が、また動いた。
声は、もう届かなかった。
けれど、今度は読めた。
たのむ。
そう言っていた。
そのときだった。
向こうのミラの顔が、一瞬だけ揺らいだ。
水面に石を落としたように、輪郭がほどける。
ほどけた奥に、別の顔があった。
ミラよりも、さらに小柄な女だった。
丸い頬に、日に焼けた肌。
白いものの混じった髪を、きっちりと二つに編んでいる。
目尻に、笑い皺が深く刻まれていた。
笑うことの多かった人の顔だ、とミラは思った。
今は、泣き出しそうな顔をしていた。
腰には、使い込まれたフレイルが提げられている。
瞬き一つのあいだに、顔はまたミラのものに戻っていた。
包んでいたはずの手が、指の間からすり抜ける。
向こうのミラは、靄に溶けるように消えていった。
ミラは、空になった両手を、しばらく胸の前に掲げたままでいた。
(今の、人)
ノームの、治癒師。
アーカイブの帳面に並んでいた名前が、頭に浮かんだ。
ペトラ。
「ミラ」
カインが、すぐ後ろに来ていた。
「証、速くなってきた。戻ろう」
「……うん」
ミラは頷いて、振り返った。
カインの顔を見た瞬間、さっきの言葉が、胸の中でもう一度鳴った。
あの、ひと。
ひとりで、ぜんぶ。
ミラは、何も言わずに、カインの袖を一度だけ強く引いた。
「な、なんだよ」
「なんでもない」
カインが、わけがわからないという顔で頭をかく。
ミラは、そのまま前を向いて歩き出した。
アーチの外に出ると、番人が砂時計を握ったまま、いつものように首を傾げていた。
砂は、ほんのひとつまみしか落ちていない。
石畳の感触が戻ってきたところで、ミラはようやく口を開いた。
「さっきの向こうの私、しゃべってた」
五人が、足を止めた。
「声、聞こえたの?」
ノリアが、目を丸くする。
「私にだけ。途切れ途切れだったけど」
「何と、申しておったでござるか」
ワングが聞いた。
「止められなかった、って。間に合わなかった、って」
ミラは、少しだけ言葉を選んだ。
「それから、たのむ、って」
「頼む、か」
カインが、腕を組んだ。
「何を頼まれたんだ」
「……わからない」
半分は、本当だった。
残りの半分は、まだ言葉にしたくなかった。
「最後に、顔が変わったの。一瞬だけ」
ミラは、自分の両手を見下ろした。
「ノームの、年配の女の人。フレイルを提げてた」
誰も、すぐには何も言わなかった。
ワングが、ゆっくりと息を吐く。
「ハクエン殿の型に、続いて」
「ペトラ」
スルが、帳面の名前をそのまま口にした。
「治癒師、と書いてあった」
ミラは、小さく頷いた。
同じノームの血を引く、治癒師。
自分の少し先を、ずっと昔に歩いていた人。
その人が、何かを止められずに、八十年も悔いている。
「私、あの人に、もう一回会いたい」
ミラが言うと、ネリスがミラの袖をつかんだ。
「一人で行かないでよ」
「行かない」
ミラは、少しだけ笑った。
「一人で背負わないって、今、約束してきたところだから」




