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『マラン、はじまりの迷宮』〜わからないことばかりの、迷宮攻略記〜  作者: 奇木 尋
第八部 ズール 影の導き

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第212話「悔いの治癒師、間に合わせる手」

アーチの前で、ミラは自分の両手を一度だけ握って開いた。

六度目の潜行だった。

「証、みんな光ってる?」

振り返って確かめると、五人がそれぞれ手の甲を見せた。

六つの花弁が、同じ速さで淡く脈を打っている。

「今日は、盾の影が消えたところの先まで」

ネリスが、アーチの奥を見据えて言った。

「わかった。無理はしない」

カインが頷き、番人が黙って縄を外した。

アーチをくぐると、足の裏から地面が消える。

白と黒の渦の中を、六人はいつもの並びで進んだ。

ミラは、歩きながら指先に小さく魔力を集めてみた。

呪文にはしない。

形を作る手前で、ほどけないかどうかを確かめるだけだ。

ズールに入るようになってから、これが癖になっていた。

(今日は、いつもより重い)

集めた魔力が、指の隙間から砂のようにこぼれていく。

呪文を唱えるときには、ここからさらに形を作らなければならない。

この前アーカイブで、ノリアは魔法使いの席が空いていると言っていた。

それを聞いてから、ミラは向こうの自分のことばかり考えていた。

向こうのワングも、向こうのスルも、一人ずつ前に出てきた。

向こうの自分は、まだ一度、道を指さしただけだ。

「来る」

ネリスが鋭く言った。

前方の渦が一か所だけ濁り、みるみる膨らんでいく。

スルが盾を構えて、ネリスの前に出た。

次の瞬間、輪郭のない塊が、スルの盾の縁を越えて伸びた。

腕とも触手ともつかないものが、盾を構えた左腕に巻きつく。

「兄さん!」

ネリスが叫んだ。

スルは声も上げずに、巻きつかれた腕ごと塊を引き剥がそうとしている。

締めつけられた籠手が、みしりと鳴った。

ミラは、手のひらを前に向けた。

(間に合わせる)

「癒しの波」

唱えた瞬間、呪文の形が指の間でほどけかけた。

ここでは、いつもそうだ。

街で唱えれば一息で済む呪文が、ズールでは両手で水をすくうように、こぼれないよう支えていないと形にならない。

ミラは奥歯を噛みしめ、ほどけかけた輪郭を掴み直した。

淡い光が、どうにかスルの腕に届く。

籠手の隙間から滲み始めていた血が、そこで止まった。

「助かる」

スルが短く言い、塊を盾ごと押し返した。

その隙に、ワングの村雨が走る。

ノリアの封癒が、裂け目の塞がりを止める。

カインの一太刀で、塊は白と黒の渦にほどけて消えた。

ミラは、自分の手のひらを見下ろした。

指先が、かすかに震えている。

間に合った。

それなのに、心臓の音がなかなか静まらなかった。

(今の、半拍、遅かった)

誰も気づいていない程度の遅れだ。

結果は、何も変わらなかった。

それでも、ミラの体は、その半拍をちゃんと覚えていた。

「ミラ、大丈夫?」

ノリアが、顔を覗き込んだ。

「うん。ちょっと、疲れただけ」

嘘ではなかった。

全部でも、なかったけれど。

そのとき、ネリスの耳がぴくりと動いた。

「……いる」

道の先に、人影が一つ立っていた。

小柄な体に、軽装の鎧。

腰にロングソード、左腕に丸盾。

向こうのミラだった。

(私、だ)

自分と同じ顔が、こちらを見ている。

向こうのミラは、戦う気配を見せなかった。

道を指さすこともしなかった。

ただ、ミラの手元をじっと見つめていた。

さっき、呪文の形を掴み直したばかりの、その手を。

「ミラ殿を、見ておるでござるな」

ワングが、低く言った。

「私に、用があるのかな」

ミラは、一歩前に出た。

「ミラ」

カインが、呼び止めかけた。

「大丈夫。証は、まだゆっくりだし」

ミラは、振り返らずに答えた。

なぜか、そうしなければいけない気がした。

近づくにつれて、ミラは妙なことに気づいた。

向こうのミラの右手が、ときどき腰のあたりをさまよう。

ロングソードの柄ではない。

もっと下の、何もない場所だ。

そこにあるはずの何かを握ろうとして、空を掴んでは、また戻る。

(あれ、フレイルの持ち方だ)

ミラには、すぐにわかった。

ロードになる前、ずっと腰に提げていた鎖つきの鈍器。

握りの位置も、柄を探す指の癖も、ノームの治癒師が昔から受け継いできた持ち方そのものだった。

自分の姿をしているのに、手だけが、別の誰かの手をしている。

三歩の距離まで近づいたとき、向こうのミラの唇が動いた。

「……と」

かすれた音だった。

ミラは、足を止めた。

(今、声が)

これまで、影たちは一度も声を出さなかった。

口が動いても、何ひとつ届かなかった。

「……と、め……」

途切れ途切れの音が、白と黒の渦の中に落ちていく。

風の中で、遠くの誰かが叫んでいるような声だった。

「……とめ、られ……なかっ、た」

止められなかった。

そう聞こえた。

「今の、聞こえた?」

ミラは、後ろを振り返った。

五人とも、首を傾げていた。

「何も」

ネリスが、耳を立てたまま言った。

「口は、動いてたけど」

ネリスの耳にも届かない声が、ミラにだけ届いている。

ミラは、向こうのミラに向き直った。

「誰を、止められなかったの」

向こうのミラは、答えなかった。

代わりに、その目がゆっくりとミラの肩越しに動いた。

後ろに立つ五人の中の、誰かを見ている。

視線の先を確かめる前に、向こうのミラがまた口を開いた。

「……あの、ひと……ひとりで……ぜんぶ……」

言葉が、途中で渦に呑まれる。

「……まにあわ……なかっ、た」

その一言が、ミラの胸の奥の、ずっと触れずにきた場所に届いた。

間に合わなかった。

その言葉なら、よく知っている。

前のパーティにいた頃のことだ。

あの日のことは、今も誰にも話していない。

祈りの言葉を最後まで唱えきる前に、手の中の温かさが消えていった。

思い出せるのは、その感触だけだった。

自分の未熟さのせいだと、何度も思った。

今も、どこかでそう思っている。

「……私も、ある」

ミラは、自分でも驚くほど静かな声で言った。

「間に合わなかったこと」

向こうのミラの目が、ミラに戻ってきた。

「そのあと、ずっと、祈るのが怖かった。唱えても、また届かないんじゃないかって」

言葉にしたのは、初めてだった。

ダダにも、カインにも、話したことはない。

自分と同じ顔をした誰かにだから、言えたのかもしれない。

「でも、今は、隣にみんながいる」

ミラは、自分の手を見下ろした。

さっき、半拍遅れて、それでも間に合った手だ。

「一人で唱えてるんじゃないって、わかったから。怖くても、唱えられるようになった」

向こうのミラは、黙って聞いていた。

腰のあたりをさまよっていた右手が、止まっている。

「だから、今度は」

ミラは、一歩前に出た。

向こうのミラの、何も握っていない右手を、自分の両手で包む。

温かさも、冷たさもなかった。

それでも、確かにそこに手があった。

「今度は、間に合わせる」

ミラは、はっきりと言った。

「誰かが、一人で全部背負おうとしたら。今度は、私が止める」

自分でも、なぜそう言ったのかわからなかった。

向こうが止められなかった誰か。

その誰かの代わりに、今、目の前にいる誰かを思い浮かべていた気がする。

向こうのミラの唇が、また動いた。

声は、もう届かなかった。

けれど、今度は読めた。

たのむ。

そう言っていた。

そのときだった。

向こうのミラの顔が、一瞬だけ揺らいだ。

水面に石を落としたように、輪郭がほどける。

ほどけた奥に、別の顔があった。

ミラよりも、さらに小柄な女だった。

丸い頬に、日に焼けた肌。

白いものの混じった髪を、きっちりと二つに編んでいる。

目尻に、笑い皺が深く刻まれていた。

笑うことの多かった人の顔だ、とミラは思った。

今は、泣き出しそうな顔をしていた。

腰には、使い込まれたフレイルが提げられている。

瞬き一つのあいだに、顔はまたミラのものに戻っていた。

包んでいたはずの手が、指の間からすり抜ける。

向こうのミラは、靄に溶けるように消えていった。

ミラは、空になった両手を、しばらく胸の前に掲げたままでいた。

(今の、人)

ノームの、治癒師。

アーカイブの帳面に並んでいた名前が、頭に浮かんだ。

ペトラ。

「ミラ」

カインが、すぐ後ろに来ていた。

「証、速くなってきた。戻ろう」

「……うん」

ミラは頷いて、振り返った。

カインの顔を見た瞬間、さっきの言葉が、胸の中でもう一度鳴った。

あの、ひと。

ひとりで、ぜんぶ。

ミラは、何も言わずに、カインの袖を一度だけ強く引いた。

「な、なんだよ」

「なんでもない」

カインが、わけがわからないという顔で頭をかく。

ミラは、そのまま前を向いて歩き出した。

アーチの外に出ると、番人が砂時計を握ったまま、いつものように首を傾げていた。

砂は、ほんのひとつまみしか落ちていない。

石畳の感触が戻ってきたところで、ミラはようやく口を開いた。

「さっきの向こうの私、しゃべってた」

五人が、足を止めた。

「声、聞こえたの?」

ノリアが、目を丸くする。

「私にだけ。途切れ途切れだったけど」

「何と、申しておったでござるか」

ワングが聞いた。

「止められなかった、って。間に合わなかった、って」

ミラは、少しだけ言葉を選んだ。

「それから、たのむ、って」

「頼む、か」

カインが、腕を組んだ。

「何を頼まれたんだ」

「……わからない」

半分は、本当だった。

残りの半分は、まだ言葉にしたくなかった。

「最後に、顔が変わったの。一瞬だけ」

ミラは、自分の両手を見下ろした。

「ノームの、年配の女の人。フレイルを提げてた」

誰も、すぐには何も言わなかった。

ワングが、ゆっくりと息を吐く。

「ハクエン殿の型に、続いて」

「ペトラ」

スルが、帳面の名前をそのまま口にした。

「治癒師、と書いてあった」

ミラは、小さく頷いた。

同じノームの血を引く、治癒師。

自分の少し先を、ずっと昔に歩いていた人。

その人が、何かを止められずに、八十年も悔いている。

「私、あの人に、もう一回会いたい」

ミラが言うと、ネリスがミラの袖をつかんだ。

「一人で行かないでよ」

「行かない」

ミラは、少しだけ笑った。

「一人で背負わないって、今、約束してきたところだから」


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