第211話「映るのは役割、揃う足跡」
五度目の潜行で、盾の影が現れた。
白と黒の境目が細く揃った道の先に、大柄な影が一つ立っている。
獣人族の背丈に、広い肩。
左腕に、傷だらけの大盾。
「……兄さんだ」
ネリスが、小さく呟いた。
向こうのスルだった。
スルは、黙ってその姿を見つめていた。
自分と同じ顔が、自分と同じ盾を提げて、こちらを見ている。
(まあ、驚くよな)
カインは、横目でスルの様子をうかがった。
表情はほとんど動いていない。
ただ、盾の持ち手を握る指に、少しだけ力がこもっていた。
向こうのスルは、戦う気配を見せなかった。
くるりと背を向けると、道の奥へゆっくり歩き出す。
ついて来い、と言っているようだった。
「兄さんが、兄さんについて来いって言ってる」
ネリスが、どこか落ち着かない声で言った。
「ややこしいな」
スルが、ぼそりと返す。
「ややこしいのは、兄さんの顔のほう」
「俺の顔は、一つしかない」
いやいや、今は二つあるんだよな。
カインは、口に出さずにおいた。
「行こう。証は、まだゆっくりだ」
カインが言うと、五人が頷いた。
影の背中を追って、六人は進んだ。
しばらくして、カインは妙なことに気づいた。
影の歩いたあとに、足跡が残っている。
白と黒の境目に、薄い灰色の窪みが、一歩ごとに浮かんでは消えていくのだ。
「ネリス、あれ」
「見えてる」
ネリスが、しゃがみ込んで足跡に顔を寄せた。
「兄さん、ちょっと」
スルが、黙って前へ出る。
消えかけた窪みに、自分の足をそっと重ねた。
ぴたりと、収まった。
つま先の丸みも、踵の減り方も、何もかも。
「……同じだ」
スルが、低く言った。
カインは、背筋がすっと冷えるのを感じた。
似たような光景を、前にも見たことがある。
「三層で、あったよね」
ミラが、腰の袋から古い手帳を取り出した。
三層でもう一組の気配を追っていた頃から、遭遇のたびに書きつけてきた手帳だ。
ぱらぱらと頁をめくる指が、途中で止まる。
「足跡の大きさが、私たちの靴とぴったり揃ってた日。それから、角の向こうから、少し前に自分たちが言った台詞が聞こえてきた日」
「あったな」
カインは頷いた。
あのときは、声を真似る魔物の、ずっと上等なやつだろうと話したのだ。
結局、それでは説明がつかないまま、ここまで来た。
その間に、影の盾役は立ち止まっていた。
道の真ん中で、こちらに半身を向けて盾を構えている。
構えを見たとたん、カインは思わず口にしていた。
「……ダダっぽくないか、あれ」
盾を低く、体の真正面に据える。
両足を肩幅より広く開き、腰を落とす。
来るものは全部受け止める、という立ち方だった。
スルの構えは、もう少し高い。
獣人族らしく、いつでも跳べるように膝に余裕を持たせている。
「俺の姿だが、俺の立ち方じゃない」
スルが、はっきりと言った。
「ワングのときと同じでござるな」
ワングが、腕を組んだ。
「姿は、拙者たちを借りておる。だが、中身は、借り物ではない」
向こうのスルは、しばらくその構えのまま立っていた。
やがて盾を下ろし、道の脇へ一歩退いた。
先へ行け、と言うように。
そのまま、靄に溶けて消えた。
「ちょっと、待って」
ミラが、手帳の頁を戻し始めた。
「三層の盾のこと、書いてあったはず」
指が、ある頁で止まった。
ミラは、自分の字を確かめるように、ゆっくり読み上げた。
「向こうの盾役、今日もダダ型。こちらの前は、スル」
それから、次の頁。
「向こうの盾役、ダダ型。こちらの前は、ダダ。……こっちの前がどっちの日でも、向こうはずっとダダ型」
「黒いドラゴンの日も、そうだった」
ネリスが言った。
「あの日、ダダは宿で待ってた。前にいたのは、兄さん。なのに、向こうの盾はダダの形をしてた」
六人は、顔を見合わせた。
「じゃあ、なんで今日はスルなんだ」
カインは、自分に問いかけるように言った。
あの日と今とで、何が変わったのか。
答えたのは、スル本人だった。
「俺が、正式に六人目になった」
四層への扉が開いた日。
ダダが前を譲り、スルの手の甲に六弁の証が浮かんだ日だ。
「あの日まで、盾はダダの役だった」
スルは、盾の縁を指でなぞった。
「俺は、代わりに立っていただけだ」
「……そういうことか」
ミラが、手帳を胸に抱いた。
「向こうは、見てる私たちの姿を映してる。でも、そこに立ってる人をそのまま映すんじゃなくて」
「その役が、今、誰のものか」
カインが、言葉を継いだ。
「それを映してる」
口にしてみると、不思議なくらいしっくりきた。
「足跡が揃うのも、当たり前か。俺たちの足を映してるんだから」
「聞き覚えのある台詞も、でござるな」
ワングが頷いた。
「あれは、拙者たち自身の声を返しておっただけ、かもしれぬ」
「鏡、ってこと?」
ノリアが、首を傾げた。
「たぶんな。姿と声は、俺たちの鏡。でも、中にいるのは、別の誰かだ」
カインは、そこで言葉を切った。
それなら、魔法使いの影が空っぽなのはなぜなのか。
ノリアも同じことを考えたらしく、何か言いかけて、黙った。
誰も、その先を口にしなかった。
カインの手の甲で、証の明滅が速くなり始めていた。
「今日は、ここまでだ」
「賛成」
ネリスが、真っ先に踵を返した。
アーカイブの奥の机で、ティリーはミラの手帳を最初の頁から読んでいた。
小柄な体で、手帳を両手に広げている。
読み終えると、ティリーは小さく息をついた。
「三層のころから、こんなに細かく」
「いつか、ティリーさんに渡そうと思ってたんです」
ミラが、少し照れくさそうに言った。
「それで、今日のお話ですが」
ティリーが、カインのほうを向いた。
カインは、今日のことを話そうとした。
ところが、「ズールの」と言いかけたところで、言葉が喉の奥でつかえてしまう。
順番に並ぶはずの言葉が、ばらばらになって出てこない。
(またか)
カインは一度息を吐いてから、言い方を変えた。
「もう一組の盾が、ダダの形から、スルの形に変わりました」
今度は、すんなり出てきた。
「言えるところだけで、結構です」
ティリーは、何かを察したように頷いた。
「言えないものを、無理に言わせる趣味はありませんので」
カインは、残りのことも、言える形に直しながら話した。
足跡のこと。
構えだけが違ったこと。
映っているのは役割ではないか、という考え。
ティリーは、一度も口を挟まずに聞いていた。
それから、棚から新しい記録帳を一冊引き抜いた。
表紙の題の欄に、ペン先を置く。
そこで、ぴたりと手が止まった。
「……何と呼べばいいんでしょう」
「もう一組、ですかね」
カインが言う。
「それは、あなた方の呼び方です。記録の題としては、少し」
「鏡の六人、とか」
ノリアが言ってみる。
「中身は鏡ではない、とおっしゃいましたよね」
「……言った」
「対の六人、というのは」
ミラが言うと、ティリーは少し考えてから、首を横に振った。
「それも、こちらから見た形だけです」
ティリーは、題の欄を空けたまま、表紙をめくった。
「名前は、向こうが名乗るまで空けておきます」
ペン先が、最初の頁を走り始める。
最初に書かれたのは、こうだった。
向こうの盾役、ダダの形から、スルの形へ。
続けて、もう一行。
姿は役割を映す。中身は、別の誰か。
その次で、ティリーはペンを止めた。
しばらく迷ってから、小さく書き足す。
推測、とだけ。
「一つ、書いてほしいことがある」
ノリアが、机の端に手をついた。
「向こうの魔法使い。私の形をしてるけど、あれだけは中身がない。立ち方にも、首の傾け方にも、何もない」
ティリーのペンが、紙の上で止まった。
「中身がない、というのは」
「わからない。ほかの五人は、中に誰かいる感じがする。あれだけ、いない」
ノリアは、少しだけ言葉を探した。
「空いてる、って感じ」
「空いている」
ティリーは、その言葉をそのままその下に書き写した。
魔法使いの席、空いている。
「わかったら、また教えてください。書き足しますので」
「……うん」
ノリアは、杖を握る手に少し力を込めた。
「見えないものを、見えないまま書くのには慣れました」
ティリーは、記録帳を閉じずに言った。
「映っているものを、映っているまま書くのは、これが初めてです」
「難しいですか」
ミラが聞く。
「少し」
ティリーは、空欄のままの題の欄を指でなぞった。
「でも、空けておく場所があるというのは、悪くありません」
帰り道、スルは一度だけ自分の盾を見下ろした。
「ダダに、話す」
「何を?」
ネリスが聞く。
「向こうの盾が、ダダの立ち方をしてた」
スルは、少しだけ口の端を上げた。
「たぶん、喜ぶ」




