第210話「声のない斥候、積まれたコイン」
白と黒の渦の中で、道が三つに裂けていた。
(三つ。前は、なかった)
ネリスは足を止め、耳を左右に振った。
まっすぐの道からは、奥へ引かれるような気配がする。
右の道は、たぶん行き止まりだ。
左の細い道だけが、よくわからなかった。
わからない、というのは珍しい。
五層で道に迷わない感覚を授かってから、分かれ道で迷ったことは一度もない。
「どうした」
すぐ後ろで、スルが聞いた。
「左が、読めない」
「読めない?」
「何かある。でも、道じゃないみたい」
そのとき、左の道の入口で靄が揺れた。
輪郭が立ち上がる。
猫の耳に細い肩、腰には短刀。
向こうのネリスだった。
(また、私)
四度目の潜行ともなると、自分と同じ顔にもいくらか慣れてくる。
慣れてくる、はずだった。
向こうのネリスは、こちらを見るなり両手を大きく振り回した。
右手で左の道を指し、左手でネリスを指し、それから両手でぐるぐると円を描く。
最後に、自分の胸をどんどんと叩いた。
「……なに、あれ」
ネリスは思わず呟いた。
「来い、と言っておるのではござらぬか」
ワングが、後ろから首を伸ばす。
「たぶん。でも、腕が多すぎ」
向こうのネリスは、今度は跳ねていた。
その場で三度跳ねて左の道を指し、また跳ねる。
しっぽが、ちぎれそうなほど振られている。
「ネリスって、あんなだっけ」
ノリアが小声で聞いた。
「違う」
即答だった。
(私、あんなに手、動かさない)
姿はたしかに自分なのに、中身がまるで別の誰かだ。
声が出ないぶん、全身でしゃべろうとしている。
そんな感じがした。
向こうのネリスは、ネリスを指さし、それからスルを指さした。
二人を交互に、何度も。
カインが一歩前に出ようとすると、両腕で大きな×を作ってみせる。
「俺は、だめらしい」
カインが苦笑して足を止めた。
「私と、兄さんだけ?」
ネリスが聞くと、向こうのネリスは首がもげそうなほど頷いた。
それから、スルの顔をじっと見つめた。
その一瞬だけ、手足がぴたりと止まる。
黒いドラゴンを討った日にも、同じ顔を見た気がした。
ネリスによく似た影が、スルを見て息を呑んでいたのだ。
「……どうする」
スルが、カインを振り返った。
カインは自分の手の甲に目を落とす。
証の明滅は、まだゆっくりだった。
「行ってこい。ただし、誰か一人でも証が速くなったら、すぐ戻れ」
「わかった」
「ネリス、スルから離れないでね」
ミラが、心配そうに付け足した。
「離れない」
向こうのネリスは、もう左の道の奥へ跳ねていくところだった。
何度も振り返っては、手招きをする。
早く、早く。
声がなくても、それだけはよくわかった。
左の道は狭かった。
スルの盾が、ときどき白と黒の境目をこする。
「せまいな」
「兄さん、横向き」
「ああ」
スルは盾を体の前に寄せ、半身になって進んだ。
前を行く向こうのネリスが、振り返ってはスルの盾を指さし、口を押さえている。
「……笑ってる」
ネリスは眉を寄せた。
「そうか」
スルは気にした様子もない。
「兄さん、笑われてる」
「狭い道では、盾はそういうものだ」
そういう話ではない、とネリスは思う。
声がないのに、笑い転げているのだけはわかる。
わかるのが、少し腹立たしかった。
(私の顔で、そういうことしないで)
やがて、道がふっと開けた。
小部屋だった。
白と黒の渦が、そこだけ壁のように固まっている。
床らしきものまで、うっすらと見えた。
その真ん中に、コインが積まれていた。
山だった。
ネリスの腰の高さまで、ざらざらと盛り上がっている。
赤、青、緑、黄、白、黒。
エアの二層で、印の場所の魔物を倒すたびに拾ってきた、あのコインだった。
「……なんで、ここに」
ネリスは山の前にしゃがみ込んだ。
一枚つまんでみる。
手触りも重さも、二層で拾ったものと変わらない。
二層のコインは、その場所で冒険したパーティの記憶の残骸だという。
アプレイザルの鑑定士が、そう言っていた。
倒れた冒険者たちの想いが、形を変えて迷宮に残ったものだと。
それが、どうしてこんなに。
「数えきれないな」
スルが、山を見下ろした。
「何百、じゃ、きかない」
スルは山の裾に手を伸ばし、緑のコインを一枚だけ拾い上げた。
指の腹で、表面をゆっくりとなぞる。
緑のコインを二枚重ねたあの日のことを、ネリスは今でも覚えていた。
角を持つ魔物。
呑まれていく五人の冒険者。
その中に、兄がいた。
「俺たちの分も、この中にあるのかもしれない」
スルが、ぽつりと言った。
「……あるかもね」
ネリスは、兄の手元から目をそらさなかった。
スルは少しのあいだ緑のコインを見つめていたが、やがて元の場所にそっと戻した。
山の一番上に、崩さないように。
向こうのネリスは、その様子を黙って見ていた。
跳ねもせず、腕も振り回さずに。
(そういう顔も、できるんだ)
ネリスがそう思ったときには、向こうのネリスはもういつもの調子に戻っていた。
山の向こう側から、またひょいと顔を出した。
山を指さし、自分を指さし、それからネリスを指さす。
次に、両手の指で小さな四角を作った。
四角を、半分に折るしぐさ。
端を、指でなぞって封をするしぐさ。
最後に、それを両手で差し出すしぐさ。
「……手紙?」
ネリスが言うと、向こうのネリスは両手を突き上げた。
跳ねた。
三度どころではなく、跳ねた。
「手紙、だそうだ」
スルが、静かに言った。
「誰から、誰に」
ネリスが聞く。
向こうのネリスは自分の胸を叩き、それから後ろを振り返った。
誰もいない、白と黒の壁のほうを。
そこに、まだ誰かが立っているかのように。
それから、ネリスの胸をまっすぐ指さした。
(向こうの六人から、私たちに?)
二層で集めてきたコイン。
記憶の残骸だと思っていた。
それは、きっとそうなのだろう。
でも、残骸だけではなかったのかもしれない。
誰かが、次に来る誰かのために、わざと置いていったもの。
「重ねろ、ってこと?」
ネリスは山の中から、同じ色のコインを二枚拾い上げた。
赤だった。
向こうのネリスが、ぶんぶんと頷く。
首の心配をするのは、もうやめた。
「兄さん」
「ああ」
スルが、ネリスの隣にしゃがむ。
ネリスは二枚の赤いコインを、そっと重ねた。
映像が、流れ込んできた。
いつもと同じだった。
音はない。
目を閉じているのか開けているのかもわからないまま、見たことのない景色が頭の中に広がっていく。
石造りの通路。
エアに似ているが、少し違う。
六人の冒険者が歩いていた。
先頭は、狐の耳をした獣人の娘だ。
しっぽを揺らし、振り返っては何か言っている。
口が、止まらない。
声は聞こえないのに、しゃべり続けているのだけはわかった。
(……あれだ)
ネリスは直感した。
さっきの、腕の多すぎる自分と、まったく同じ動き方だった。
狐の娘のすぐ後ろに、ひょろりとした男がいる。
荷物を山ほど背負っていた。
どう見ても、一人分の量ではない。
その男の隣を、太い前足が歩いていた。
黄金の毛並みの、男の背丈よりも大きな獣の足。
獣の顔は、映像の端に切れて見えなかった。
エルフの女が、男の背中を杖でつついている。
荷物を持ちすぎだ、と言っているようだった。
男は笑って、首を振る。
フレイルを提げた小柄なノームが、呆れた顔で肩をすくめた。
少し離れて、ドラゴニートの剣士が一人。
刀の柄に手を添えたまま、黙って歩いている。
重心が、わずかに後ろ足にかかっていた。
(ワングの、あの人)
景色が切り替わった。
野営だった。
篝火の周りに、五人が座っている。
その輪から少し外れて、ドワーフが一人、小さな金床に向かっていた。
盾を背中から下ろし、鎚を握っている。
金床の上には、打ち上がったばかりの短い刃が一本。
ドワーフは鏨を取り、刃の根元に何かを打ち込み始めた。
一つ、二つ、三つ。
小さく、慎重に。
ネリスは息を呑んだ。
隣で、スルの肩がこわばるのがわかった。
炎を抱いた槌。
炎の揺らぎが、三筋。
ダダの工房で、器の底に見たのと同じ印だった。
ドワーフは鏨を置いた。
打ち上がった刃を、両の手のひらで包むように持ち上げる。
そして、じっと見つめた。
長いあいだ、身じろぎもせずに。
黒いドラゴンを討った日、焼け跡から器の欠片を拾い上げた影がいた。
ダダに似た、盾を提げた影。
あの影も、こうやって欠片を手のひらで包み、じっと見つめていた。
同じ手つきだった。
(グンナル)
ネリスが胸の内でその名を呼んだとき、ドワーフがふと顔を上げた。
こちらを見たような気がした。
そこで、映像は途切れた。




