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『マラン、はじまりの迷宮』〜わからないことばかりの、迷宮攻略記〜  作者: 奇木 尋
第八部 ズール 影の導き

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第210話「声のない斥候、積まれたコイン」

白と黒の渦の中で、道が三つに裂けていた。

(三つ。前は、なかった)

ネリスは足を止め、耳を左右に振った。

まっすぐの道からは、奥へ引かれるような気配がする。

右の道は、たぶん行き止まりだ。

左の細い道だけが、よくわからなかった。

わからない、というのは珍しい。

五層で道に迷わない感覚を授かってから、分かれ道で迷ったことは一度もない。

「どうした」

すぐ後ろで、スルが聞いた。

「左が、読めない」

「読めない?」

「何かある。でも、道じゃないみたい」

そのとき、左の道の入口で靄が揺れた。

輪郭が立ち上がる。

猫の耳に細い肩、腰には短刀。

向こうのネリスだった。

(また、私)

四度目の潜行ともなると、自分と同じ顔にもいくらか慣れてくる。

慣れてくる、はずだった。

向こうのネリスは、こちらを見るなり両手を大きく振り回した。

右手で左の道を指し、左手でネリスを指し、それから両手でぐるぐると円を描く。

最後に、自分の胸をどんどんと叩いた。

「……なに、あれ」

ネリスは思わず呟いた。

「来い、と言っておるのではござらぬか」

ワングが、後ろから首を伸ばす。

「たぶん。でも、腕が多すぎ」

向こうのネリスは、今度は跳ねていた。

その場で三度跳ねて左の道を指し、また跳ねる。

しっぽが、ちぎれそうなほど振られている。

「ネリスって、あんなだっけ」

ノリアが小声で聞いた。

「違う」

即答だった。

(私、あんなに手、動かさない)

姿はたしかに自分なのに、中身がまるで別の誰かだ。

声が出ないぶん、全身でしゃべろうとしている。

そんな感じがした。

向こうのネリスは、ネリスを指さし、それからスルを指さした。

二人を交互に、何度も。

カインが一歩前に出ようとすると、両腕で大きな×を作ってみせる。

「俺は、だめらしい」

カインが苦笑して足を止めた。

「私と、兄さんだけ?」

ネリスが聞くと、向こうのネリスは首がもげそうなほど頷いた。

それから、スルの顔をじっと見つめた。

その一瞬だけ、手足がぴたりと止まる。

黒いドラゴンを討った日にも、同じ顔を見た気がした。

ネリスによく似た影が、スルを見て息を呑んでいたのだ。

「……どうする」

スルが、カインを振り返った。

カインは自分の手の甲に目を落とす。

証の明滅は、まだゆっくりだった。

「行ってこい。ただし、誰か一人でも証が速くなったら、すぐ戻れ」

「わかった」

「ネリス、スルから離れないでね」

ミラが、心配そうに付け足した。

「離れない」

向こうのネリスは、もう左の道の奥へ跳ねていくところだった。

何度も振り返っては、手招きをする。

早く、早く。

声がなくても、それだけはよくわかった。

左の道は狭かった。

スルの盾が、ときどき白と黒の境目をこする。

「せまいな」

「兄さん、横向き」

「ああ」

スルは盾を体の前に寄せ、半身になって進んだ。

前を行く向こうのネリスが、振り返ってはスルの盾を指さし、口を押さえている。

「……笑ってる」

ネリスは眉を寄せた。

「そうか」

スルは気にした様子もない。

「兄さん、笑われてる」

「狭い道では、盾はそういうものだ」

そういう話ではない、とネリスは思う。

声がないのに、笑い転げているのだけはわかる。

わかるのが、少し腹立たしかった。

(私の顔で、そういうことしないで)

やがて、道がふっと開けた。

小部屋だった。

白と黒の渦が、そこだけ壁のように固まっている。

床らしきものまで、うっすらと見えた。

その真ん中に、コインが積まれていた。

山だった。

ネリスの腰の高さまで、ざらざらと盛り上がっている。

赤、青、緑、黄、白、黒。

エアの二層で、印の場所の魔物を倒すたびに拾ってきた、あのコインだった。

「……なんで、ここに」

ネリスは山の前にしゃがみ込んだ。

一枚つまんでみる。

手触りも重さも、二層で拾ったものと変わらない。

二層のコインは、その場所で冒険したパーティの記憶の残骸だという。

アプレイザルの鑑定士が、そう言っていた。

倒れた冒険者たちの想いが、形を変えて迷宮に残ったものだと。

それが、どうしてこんなに。

「数えきれないな」

スルが、山を見下ろした。

「何百、じゃ、きかない」

スルは山の裾に手を伸ばし、緑のコインを一枚だけ拾い上げた。

指の腹で、表面をゆっくりとなぞる。

緑のコインを二枚重ねたあの日のことを、ネリスは今でも覚えていた。

角を持つ魔物。

呑まれていく五人の冒険者。

その中に、兄がいた。

「俺たちの分も、この中にあるのかもしれない」

スルが、ぽつりと言った。

「……あるかもね」

ネリスは、兄の手元から目をそらさなかった。

スルは少しのあいだ緑のコインを見つめていたが、やがて元の場所にそっと戻した。

山の一番上に、崩さないように。

向こうのネリスは、その様子を黙って見ていた。

跳ねもせず、腕も振り回さずに。

(そういう顔も、できるんだ)

ネリスがそう思ったときには、向こうのネリスはもういつもの調子に戻っていた。

山の向こう側から、またひょいと顔を出した。

山を指さし、自分を指さし、それからネリスを指さす。

次に、両手の指で小さな四角を作った。

四角を、半分に折るしぐさ。

端を、指でなぞって封をするしぐさ。

最後に、それを両手で差し出すしぐさ。

「……手紙?」

ネリスが言うと、向こうのネリスは両手を突き上げた。

跳ねた。

三度どころではなく、跳ねた。

「手紙、だそうだ」

スルが、静かに言った。

「誰から、誰に」

ネリスが聞く。

向こうのネリスは自分の胸を叩き、それから後ろを振り返った。

誰もいない、白と黒の壁のほうを。

そこに、まだ誰かが立っているかのように。

それから、ネリスの胸をまっすぐ指さした。

(向こうの六人から、私たちに?)

二層で集めてきたコイン。

記憶の残骸だと思っていた。

それは、きっとそうなのだろう。

でも、残骸だけではなかったのかもしれない。

誰かが、次に来る誰かのために、わざと置いていったもの。

「重ねろ、ってこと?」

ネリスは山の中から、同じ色のコインを二枚拾い上げた。

赤だった。

向こうのネリスが、ぶんぶんと頷く。

首の心配をするのは、もうやめた。

「兄さん」

「ああ」

スルが、ネリスの隣にしゃがむ。

ネリスは二枚の赤いコインを、そっと重ねた。

映像が、流れ込んできた。

いつもと同じだった。

音はない。

目を閉じているのか開けているのかもわからないまま、見たことのない景色が頭の中に広がっていく。

石造りの通路。

エアに似ているが、少し違う。

六人の冒険者が歩いていた。

先頭は、狐の耳をした獣人の娘だ。

しっぽを揺らし、振り返っては何か言っている。

口が、止まらない。

声は聞こえないのに、しゃべり続けているのだけはわかった。

(……あれだ)

ネリスは直感した。

さっきの、腕の多すぎる自分と、まったく同じ動き方だった。

狐の娘のすぐ後ろに、ひょろりとした男がいる。

荷物を山ほど背負っていた。

どう見ても、一人分の量ではない。

その男の隣を、太い前足が歩いていた。

黄金の毛並みの、男の背丈よりも大きな獣の足。

獣の顔は、映像の端に切れて見えなかった。

エルフの女が、男の背中を杖でつついている。

荷物を持ちすぎだ、と言っているようだった。

男は笑って、首を振る。

フレイルを提げた小柄なノームが、呆れた顔で肩をすくめた。

少し離れて、ドラゴニートの剣士が一人。

刀の柄に手を添えたまま、黙って歩いている。

重心が、わずかに後ろ足にかかっていた。

(ワングの、あの人)

景色が切り替わった。

野営だった。

篝火の周りに、五人が座っている。

その輪から少し外れて、ドワーフが一人、小さな金床に向かっていた。

盾を背中から下ろし、鎚を握っている。

金床の上には、打ち上がったばかりの短い刃が一本。

ドワーフは鏨を取り、刃の根元に何かを打ち込み始めた。

一つ、二つ、三つ。

小さく、慎重に。

ネリスは息を呑んだ。

隣で、スルの肩がこわばるのがわかった。

炎を抱いた槌。

炎の揺らぎが、三筋。

ダダの工房で、器の底に見たのと同じ印だった。

ドワーフは鏨を置いた。

打ち上がった刃を、両の手のひらで包むように持ち上げる。

そして、じっと見つめた。

長いあいだ、身じろぎもせずに。

黒いドラゴンを討った日、焼け跡から器の欠片を拾い上げた影がいた。

ダダに似た、盾を提げた影。

あの影も、こうやって欠片を手のひらで包み、じっと見つめていた。

同じ手つきだった。

(グンナル)

ネリスが胸の内でその名を呼んだとき、ドワーフがふと顔を上げた。

こちらを見たような気がした。

そこで、映像は途切れた。


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