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『マラン、はじまりの迷宮』〜わからないことばかりの、迷宮攻略記〜  作者: 奇木 尋
第八部 ズール 影の導き

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第209話「鏡の剣士、借りられぬ太刀筋」

三度目の潜行だった。

アーチをくぐると、六弁の証が光り、足の裏から地面が消える。

白と黒の渦にも、少しずつ目が慣れてきた。

慣れた、というより、驚かなくなっただけかもしれない。

「今日は、この前の分かれ道の先まで」

ネリスが、振り返らずに言った。

前回、向こうのワングが指さした方角だ。

ネリスの足取りには、少しの迷いもなかった。

「証の明滅は、どうでござるか」

ワングが、全員の手の甲を見回す。

「まだ、ゆっくり」

ミラが答えた。

「なら、進めるな」

カインが頷く。

白と黒の境目が細く揃った道を、六人は一列になって進んだ。

先頭のネリスのすぐ後ろに、スルが盾を構えてつく。

その後ろに、カインとミラ。

ノリアを挟んで、最後尾にワング。

いつもの並びだった。

いつもの並びでいられることが、ここではありがたかった。

しばらく進んだところで、ネリスが足を止めた。

「……いる」

耳が、前へ向いてぴんと立つ。

道の先に、人影が一つ立っていた。

片腕に籠手を締め、腰に刀を佩いたドラゴニート。

前回、最後の分かれ道で奥を指さした、向こうのワングだった。

ただ、今日は指をさしていなかった。

道の真ん中に、まっすぐ立っている。

行く手を、塞ぐように。

「通せんぼ、でござるか」

ワングが、最後尾から前へ出た。

スルが、盾を少しだけ下げて道を空ける。

「ワング」

カインが、低く呼んだ。

「わかっておる」

ワングは、振り返らずに答えた。

「あれは、拙者に用があるのでござろう」

向こうのワングは、こちらのワングが前に出るのを待っていたように、ゆっくりと刀の柄に手をかけた。

重心が、わずかに後ろ足にかかる。

柄に添えた手が、鍔からこぶし一つ分だけ離れている。

前回、目に焼きついた、あの立ち方だった。

ワングは、村雨を抜いた。

幻の右手に、氷姫を握らせる。

二刀を構えたワングの前で、向こうのワングも刀を抜いた。

一振りだけだった。

左手に握った刀が、白と黒の渦の中で鈍く光る。

右の手首から先は、ワングと同じように、何もない。

「……二刀ではないのでござるな」

ワングが、小さく呟いた。

姿は、確かにワングそのものだった。

顔も、角も、鱗の色も、籠手の締め方まで。

それなのに、構えだけが違う。

向こうのワングは、一振りの刀を、まるで両手で握っているかのように構えていた。

左手だけで握っているのに、刀の角度が、両手持ちのそれだった。

右の手首の先の、何もない空間が、見えない柄をしっかりと握りしめているように見えた。

「来るよ」

ネリスが、息を殺して言った。

向こうのワングが、踏み込んだ。

速い、とは感じなかった。

ただ、気づいたときには、もう間合いの内側にいた。

ワングは、村雨で受けた。

重い。

左手一本の振り下ろしとは思えない、両手の重さだった。

「……っ」

ワングの足が、白と黒の渦の上を半歩滑る。

幻の右手の氷姫で、横から払う。

向こうは、それを刀の峰で受け流した。

流しざまに、切っ先が返ってくる。

ワングは、身をひねってかわした。

頬のすぐ横を、刃が通り過ぎていく。

「ワング!」

ミラの声が飛んだ。

「手出し無用でござる」

ワングは、短く答えた。

四つ目の試練で少女と斬り結んだときと、同じ言葉だった。

ミラは、癒しの波を構えたまま、唇を噛んで踏みとどまる。

打ち合いが、続いた。

村雨が走る。

向こうの刀が受ける。

氷姫が回り込む。

向こうの刀が、それを読んでいたように先回りする。

二刀と一刀。

数では、ワングが勝っている。

それなのに、押しているのは向こうだった。

「拙者の太刀筋が、読まれておる」

ワングが、息を吐いた。

いや、違う、とすぐに思い直す。

読まれているのではない。

向こうの太刀筋を、ワングの体のほうが、先に知っているのだ。

次にどこから来るか。

どの角度で、どの深さで。

考えるより前に、体が答えを出している。

若い頃、道場の板の間で、何度も何度も見た動きだった。

師の、そのまた師が伝えた型。

見取り稽古で、目が擦り切れるほど追いかけた、あの太刀筋。

四層の九番目の部屋で、黒い甲冑の剣士と斬り結んだときにも、同じものを感じた。

白の点の鎧の魔物たちにも。

五層の双剣の騎士にも。

どれも、似ていた。

だが、今日のこれは、似ている、どころではなかった。

型そのものだった。

それも、ワングが知っているどの写しよりも、古い。

余計なものが一つもない。

写し取られ、伝えられるうちについた癖が、何ひとつ乗っていない。

型が生まれたばかりのころの、まだ誰の手垢もついていない太刀筋。

「……そういう、ことでござるか」

ワングの構えが、変わった。

二刀のまま、重心を後ろ足に移す。

柄に添えた手を、鍔からこぶし一つ分だけ離す。

向こうと、同じ立ち方だった。

ワング自身は、これまで一度もこんなふうに立ったことはない。

だが、体は、この立ち方を知っていた。

道場の隅で、何百回と真似をして、師に叱られた立ち方だった。

向こうのワングが、ほんの一瞬だけ、動きを止めた。

次の一太刀が、来た。

真上からの、まっすぐな振り下ろし。

ワングは、それを受けなかった。

半歩だけ、横にずれる。

型の、いちばん最初に習う足運びだった。

刃が、ワングの肩の外側を、紙一枚の隙間で通り過ぎていく。

そのまま、ワングは村雨の切っ先を、向こうの喉元で止めた。

突かなかった。

突く必要は、なかった。

白と黒の渦の中で、二人のワングが、刃を交えたまま動かなくなった。

誰も、息をしていなかった。

「貴殿は、拙者ではない」

ワングが、静かに言った。

「拙者の型の、ずっと手前、過去にいる方でござるな」

向こうのワングは、答えなかった。

姿はワングのまま、ワングの顔のまま、ただ黙ってこちらを見ていた。

口が、わずかに動いた。

声は、届かなかった。

それでも、ワングには、何かを言われた気がした。

向こうのワングは、ゆっくりと刀を下ろした。

刀を鞘に収め、一歩下がる。

それから、深く頭を下げた。

道場で、稽古の終わりに師へ向けるのと同じ、まっすぐな礼だった。

ワングも、村雨と氷姫を収め、同じように頭を下げた。

顔を上げたとき、向こうのワングはもういなかった。

道の先が、また奥へ続いていた。

「……ワング」

ミラが、そっと近づいてきた。

ワングの頬に、細い傷が一筋走っている。

「浄光」

淡い光が、傷を塞いだ。

「かたじけない」

ワングは、ミラに頭を下げた。

「さっきの、ワングの型、なの?」

ネリスが、遠慮がちに聞いた。

「拙者の型の、始まりでござる」

ワングは、影の消えた場所を見つめたまま答えた。

「拙者が、若いころに目で追いかけ続けた型。その、いちばん古い形でござった。写しでも、伝えでもない。型を生んだ本人の太刀筋としか、思えぬ」

「アーカイブの記録に、あった名前」

ノリアが、小さく言った。

「ハクエン」

ワングは、答えなかった。

答えないまま、自分の左手を見下ろした。

「姿は、拙者を借りておった」

ワングの声が、少しだけ揺れた。

「だが、太刀筋だけは、借りられなかったのでござろう。あれは、あの方ご自身のものでござるから」

カインの手の甲で、証の明滅が速くなり始めていた。

「戻ろう」

カインが言った。

ワングは頷き、最後にもう一度だけ、道の奥へ頭を下げた。

その夜、ヘクサインの裏庭で、ワングは一人、刀を構えていた。

重心を後ろ足に。

柄に添えた手を、鍔からこぶし一つ分だけ離す。

何度も、何度も、同じ立ち方をなぞる。

「まだ、起きてたんだ」

窓から顔を出したネリスが、眠そうな声で言った。

「少し、稽古をしておったでござる」

「さっきの、立ち方?」

「左様。若いころ、師に何度も叱られた立ち方でござる」

ワングは、刀を下ろした。

「今なら、少しだけわかる気がするでござる。なぜあの方が、ああ立っておられたのか」

「なんで?」

ワングは、少し考えてから答えた。

「抜かずに済むなら、それがいちばんだから、でござろうな」

ネリスは、よくわからないという顔で耳を傾けた。

それでも、それ以上は聞かずに、窓を閉めた。

月明かりの下で、ワングはもう一度だけ、あの立ち方をなぞった。


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