第209話「鏡の剣士、借りられぬ太刀筋」
三度目の潜行だった。
アーチをくぐると、六弁の証が光り、足の裏から地面が消える。
白と黒の渦にも、少しずつ目が慣れてきた。
慣れた、というより、驚かなくなっただけかもしれない。
「今日は、この前の分かれ道の先まで」
ネリスが、振り返らずに言った。
前回、向こうのワングが指さした方角だ。
ネリスの足取りには、少しの迷いもなかった。
「証の明滅は、どうでござるか」
ワングが、全員の手の甲を見回す。
「まだ、ゆっくり」
ミラが答えた。
「なら、進めるな」
カインが頷く。
白と黒の境目が細く揃った道を、六人は一列になって進んだ。
先頭のネリスのすぐ後ろに、スルが盾を構えてつく。
その後ろに、カインとミラ。
ノリアを挟んで、最後尾にワング。
いつもの並びだった。
いつもの並びでいられることが、ここではありがたかった。
しばらく進んだところで、ネリスが足を止めた。
「……いる」
耳が、前へ向いてぴんと立つ。
道の先に、人影が一つ立っていた。
片腕に籠手を締め、腰に刀を佩いたドラゴニート。
前回、最後の分かれ道で奥を指さした、向こうのワングだった。
ただ、今日は指をさしていなかった。
道の真ん中に、まっすぐ立っている。
行く手を、塞ぐように。
「通せんぼ、でござるか」
ワングが、最後尾から前へ出た。
スルが、盾を少しだけ下げて道を空ける。
「ワング」
カインが、低く呼んだ。
「わかっておる」
ワングは、振り返らずに答えた。
「あれは、拙者に用があるのでござろう」
向こうのワングは、こちらのワングが前に出るのを待っていたように、ゆっくりと刀の柄に手をかけた。
重心が、わずかに後ろ足にかかる。
柄に添えた手が、鍔からこぶし一つ分だけ離れている。
前回、目に焼きついた、あの立ち方だった。
ワングは、村雨を抜いた。
幻の右手に、氷姫を握らせる。
二刀を構えたワングの前で、向こうのワングも刀を抜いた。
一振りだけだった。
左手に握った刀が、白と黒の渦の中で鈍く光る。
右の手首から先は、ワングと同じように、何もない。
「……二刀ではないのでござるな」
ワングが、小さく呟いた。
姿は、確かにワングそのものだった。
顔も、角も、鱗の色も、籠手の締め方まで。
それなのに、構えだけが違う。
向こうのワングは、一振りの刀を、まるで両手で握っているかのように構えていた。
左手だけで握っているのに、刀の角度が、両手持ちのそれだった。
右の手首の先の、何もない空間が、見えない柄をしっかりと握りしめているように見えた。
「来るよ」
ネリスが、息を殺して言った。
向こうのワングが、踏み込んだ。
速い、とは感じなかった。
ただ、気づいたときには、もう間合いの内側にいた。
ワングは、村雨で受けた。
重い。
左手一本の振り下ろしとは思えない、両手の重さだった。
「……っ」
ワングの足が、白と黒の渦の上を半歩滑る。
幻の右手の氷姫で、横から払う。
向こうは、それを刀の峰で受け流した。
流しざまに、切っ先が返ってくる。
ワングは、身をひねってかわした。
頬のすぐ横を、刃が通り過ぎていく。
「ワング!」
ミラの声が飛んだ。
「手出し無用でござる」
ワングは、短く答えた。
四つ目の試練で少女と斬り結んだときと、同じ言葉だった。
ミラは、癒しの波を構えたまま、唇を噛んで踏みとどまる。
打ち合いが、続いた。
村雨が走る。
向こうの刀が受ける。
氷姫が回り込む。
向こうの刀が、それを読んでいたように先回りする。
二刀と一刀。
数では、ワングが勝っている。
それなのに、押しているのは向こうだった。
「拙者の太刀筋が、読まれておる」
ワングが、息を吐いた。
いや、違う、とすぐに思い直す。
読まれているのではない。
向こうの太刀筋を、ワングの体のほうが、先に知っているのだ。
次にどこから来るか。
どの角度で、どの深さで。
考えるより前に、体が答えを出している。
若い頃、道場の板の間で、何度も何度も見た動きだった。
師の、そのまた師が伝えた型。
見取り稽古で、目が擦り切れるほど追いかけた、あの太刀筋。
四層の九番目の部屋で、黒い甲冑の剣士と斬り結んだときにも、同じものを感じた。
白の点の鎧の魔物たちにも。
五層の双剣の騎士にも。
どれも、似ていた。
だが、今日のこれは、似ている、どころではなかった。
型そのものだった。
それも、ワングが知っているどの写しよりも、古い。
余計なものが一つもない。
写し取られ、伝えられるうちについた癖が、何ひとつ乗っていない。
型が生まれたばかりのころの、まだ誰の手垢もついていない太刀筋。
「……そういう、ことでござるか」
ワングの構えが、変わった。
二刀のまま、重心を後ろ足に移す。
柄に添えた手を、鍔からこぶし一つ分だけ離す。
向こうと、同じ立ち方だった。
ワング自身は、これまで一度もこんなふうに立ったことはない。
だが、体は、この立ち方を知っていた。
道場の隅で、何百回と真似をして、師に叱られた立ち方だった。
向こうのワングが、ほんの一瞬だけ、動きを止めた。
次の一太刀が、来た。
真上からの、まっすぐな振り下ろし。
ワングは、それを受けなかった。
半歩だけ、横にずれる。
型の、いちばん最初に習う足運びだった。
刃が、ワングの肩の外側を、紙一枚の隙間で通り過ぎていく。
そのまま、ワングは村雨の切っ先を、向こうの喉元で止めた。
突かなかった。
突く必要は、なかった。
白と黒の渦の中で、二人のワングが、刃を交えたまま動かなくなった。
誰も、息をしていなかった。
「貴殿は、拙者ではない」
ワングが、静かに言った。
「拙者の型の、ずっと手前、過去にいる方でござるな」
向こうのワングは、答えなかった。
姿はワングのまま、ワングの顔のまま、ただ黙ってこちらを見ていた。
口が、わずかに動いた。
声は、届かなかった。
それでも、ワングには、何かを言われた気がした。
向こうのワングは、ゆっくりと刀を下ろした。
刀を鞘に収め、一歩下がる。
それから、深く頭を下げた。
道場で、稽古の終わりに師へ向けるのと同じ、まっすぐな礼だった。
ワングも、村雨と氷姫を収め、同じように頭を下げた。
顔を上げたとき、向こうのワングはもういなかった。
道の先が、また奥へ続いていた。
「……ワング」
ミラが、そっと近づいてきた。
ワングの頬に、細い傷が一筋走っている。
「浄光」
淡い光が、傷を塞いだ。
「かたじけない」
ワングは、ミラに頭を下げた。
「さっきの、ワングの型、なの?」
ネリスが、遠慮がちに聞いた。
「拙者の型の、始まりでござる」
ワングは、影の消えた場所を見つめたまま答えた。
「拙者が、若いころに目で追いかけ続けた型。その、いちばん古い形でござった。写しでも、伝えでもない。型を生んだ本人の太刀筋としか、思えぬ」
「アーカイブの記録に、あった名前」
ノリアが、小さく言った。
「ハクエン」
ワングは、答えなかった。
答えないまま、自分の左手を見下ろした。
「姿は、拙者を借りておった」
ワングの声が、少しだけ揺れた。
「だが、太刀筋だけは、借りられなかったのでござろう。あれは、あの方ご自身のものでござるから」
カインの手の甲で、証の明滅が速くなり始めていた。
「戻ろう」
カインが言った。
ワングは頷き、最後にもう一度だけ、道の奥へ頭を下げた。
その夜、ヘクサインの裏庭で、ワングは一人、刀を構えていた。
重心を後ろ足に。
柄に添えた手を、鍔からこぶし一つ分だけ離す。
何度も、何度も、同じ立ち方をなぞる。
「まだ、起きてたんだ」
窓から顔を出したネリスが、眠そうな声で言った。
「少し、稽古をしておったでござる」
「さっきの、立ち方?」
「左様。若いころ、師に何度も叱られた立ち方でござる」
ワングは、刀を下ろした。
「今なら、少しだけわかる気がするでござる。なぜあの方が、ああ立っておられたのか」
「なんで?」
ワングは、少し考えてから答えた。
「抜かずに済むなら、それがいちばんだから、でござろうな」
ネリスは、よくわからないという顔で耳を傾けた。
それでも、それ以上は聞かずに、窓を閉めた。
月明かりの下で、ワングはもう一度だけ、あの立ち方をなぞった。




