第208話 閑話「揺らぐ記憶」エランド
また、あの夢だ。
目を開けると、白い家の天井があった。
窓もないのに、壁はうっすらと明るい。
いつもと何も変わらん、エアの一層の、わしの家だ。
座布団の上で香箱を組んだまま、わしはしばらく動かなかった。
猫というのは、目覚めてすぐに動くものではない。
動かんのは、夢の尻尾がまだ耳の奥に残っておるからではない。
断じて、ない。
隅の籠では、ミーが丸くなっていた。
あの小僧に預けた、わしの欠片。
呼ばれもせんのに、ここのところ毎晩のように戻ってきては、勝手に寝ておる。
「おい」
声をかけた。
しっぽが、一度だけ揺れた。
それきりだった。
「お前の主は、あの小僧だろう。あちらで寝ろ」
返事はない。
寝たふりが、どんどん上手くなる。
誰に似たのやら。
わしは、前足で顔をひとなでした。
あの六人が、とうとうズールの門をくぐった。
それは、わかっておる。
エアの外のことは、本来わしの知ったことではない。
だが、門が開いた瞬間だけは、エアの底まで響いてきた。
六弁の証が、六つそろって鳴った音だ。
耳で聞いたのではない。
毛の一本一本が、逆立つような響きだった。
夢を見るようになったのは、その晩からだ。
猫が夢を見るのは、別に珍しいことではない。
獲物を追う夢。
日だまりで寝ころぶ夢。
そういう、どうでもいい夢なら、わしも見る。
あの夢は、そういう類のものではなかった。
夢の中で、わしは歩いておる。
いや、歩いておるのは、わしではないのかもしれん。
視界が、やけに高い。
猫の目の高さではない。
前足が見える。
黄金の毛並みの、太い前足だ。
わしの前足に似ておるが、わしの前足の何倍もある。
一歩ごとに、石の床が重く鳴る。
その前を、男が一人歩いておる。
背中しか見えん。
剣を一振り腰に提げて、荷物を山ほど背負った、ひょろりとした背中だ。
荷物の半分は、どう見ても仲間の分だった。
なぜ一人で持っておるのかと、夢の中のわしは呆れておる。
呆れておるのに、黙ってついていく。
……あの小僧に、似ておる。
何でも一人で抱え込んで、俺がいないと困るだろ、と笑う、あの便利屋あがりに。
夢の中のわしは、そんなことは思っておらん。
そう思うのは、目が覚めてからの、今のわしだ。
その背中の周りに、何人かの気配がある。
やかましくしゃべり続ける、高い声。
鎚で何かを叩く、規則正しい音。
「そこ、型が崩れてる」と、誰かを叱る澄んだ声。
誰かの傷に布を巻きながら、世話を焼いておる小柄な影。
少し離れて、刀の柄に手を添えたまま、黙って歩いておる大きな影。
顔は、一つも見えん。
名前も、一つも浮かばん。
それでも、夢の中のわしは、その全員を知っておる。
知っておるのが、当たり前のように。
そして、男が振り返る。
いつも、そこで振り返る。
顔は、見えん。
逆光の中で、口だけが動く。
わしを呼んでおる。
呼んでおるのだと、わかる。
だが、その名が聞き取れん。
エランド、ではない。
もっと短くて、もっと気安い呼び方だった。
そんな気がするだけで、音にはならん。
名を聞き取ろうとして、耳を立てる。
そのたびに、白と黒の渦が視界の端から押し寄せてきて、夢はそこで終わる。
今夜も、そうだった。
「……くだらん」
わしは、声に出して言った。
夢は夢だ。
眠れぬ夜の、ただの気の迷いだ。
わしは、いつ、どこから来たのか知らん。
気が付けば、エアの管理をしていた。
それだけのことだ。
前にも、そう結論を出した。
結論を出したことを、蒸し返すのは性に合わん。
合わんのだが。
黄金の毛並みの、太い前足。
あれは、なんだ。
わしは、猫の姿でおる。
いつから猫の姿なのかと問われれば、気が付いたときから、としか答えようがない。
だが、あの夢の中のわしは、猫ではなかった。
もっと大きく、もっと重く、誰かの隣を歩くのに慣れた何かだった。
「おい、ミー」
もう一度、籠に声をかけた。
「お前は、何か覚えておらんのか」
ミーは、わしの欠片だ。
わしから切り分けた、小さな分身。
わしが忘れておることを、欠片のほうが覚えておる、などということがあるのかどうか。
あるとすれば、腹立たしい話だ。
ミーは、答えなかった。
代わりに、薄く片目を開けて、わしを見た。
それから、何も言わずに、また目を閉じた。
「……お前な」
何か言いかけて、やめた。
今の目は、知らんふりの目ではなかった。
知っておるが、言わん、という目だった。
わしが、よくする目だ。
腹立たしいことこの上ない。
わしは、座布団から降りた。
白い家の戸口まで歩いて、そこに座る。
その先には、エアの一層の石畳が続いておる。
苔の光が、ぼんやりと通路を照らしておった。
いつもの夜だ。
魔物の湧き方も、落ち着いておる。
深いところの流れも、今夜はよどんでおらん。
見張りとして、気にかけることは何もない。
通路の向こうから、足音が近づいてきた。
新人らしい四人組が、魔石灯を掲げて一層の浅いところを歩いておる。
夜の潜行とは、物好きな連中だ。
一人が、戸口のわしに気づいて足を止めた。
「猫? こんなところに?」
「迷い猫だろ。ほっとけ」
別の一人が笑って、四人は通り過ぎていった。
迷い猫。
あながち、外れてもおらん。
四人の背中が見えなくなるまで、わしは黙って見送った。
見送るのも、見張りの仕事のうちだ。
何もないのに、落ち着かん。
あの小僧どもが、ズールに潜るたびに、何かがずれる。
わしの中の、どこか奥のほうで。
思えば、ノアとエアが同時に荒れたあの日もそうだった。
迷宮の奥で、何かが大きく軋む音を聞いた。
あの軋みと、夢の終わりに押し寄せる白と黒の渦は、どこか似ておる。
似ておる、と思うだけで、それ以上はわからん。
わからんことを、わからんまま置いておくのは、わしの得意とするところだ。
今回ばかりは、それがどうにも座りが悪い。
長いあいだ、固く閉じておった箱の蓋が、少しずつ持ち上がっていくような感じだ。
中に何が入っておるのかは、わからん。
わからんが、蓋が持ち上がるたびに、あの夢が一場面ずつ長くなる。
最初の晩は、背中だけだった。
次の晩には、黄金の前足が見えた。
その次には、仲間らしい連中の声が聞こえた。
そして今夜は、男が振り返った。
この調子でいけば、いずれ顔も見えるのだろう。
名前も、聞こえるのだろう。
それが、少しだけ怖い。
怖い、などと、猫が言うのもおかしな話だが。
わしは、エアの見張りだ。
それ以外の何者でもないと、ずっと思ってきた。
それで困ったことは、一度もなかった。
もし、あの夢が本当に、わしが忘れておる何かだとしたら。
わしは、見張り以外の何かだったことになる。
誰かの隣を歩いておった何か。
誰かに名を呼ばれておった何か。
それを思い出したとき、わしはまだ、今のままでおられるのだろうか。
「……わしは、何を忘れておる」
誰に聞かせるでもなく、呟いた。
石畳の奥で、苔の光が、かすかに揺れた。
風など、吹いておらんのに。
籠の中で、ミーが寝返りを打った。
わしは、戸口に座ったまま、深い闇のほうへ目を細めた。
あの夢の、最後の場面を、もう一度なぞってみる。
振り返った男。
逆光の中で動く口。
聞き取れん名前。
その口が、名前のあとに、もう一言だけ何かを言っておった気がする。
今夜、初めて気づいた。
名前よりは、少しだけ聞き取りやすい。
短い言葉だ。
少しだけ、待っていろ。
そう言っておった、ような気がする。
「……ふん」
わしは、鼻を鳴らした。
待つのは、得意だ。
なぜ得意なのかは、わからんが。
ずいぶん長いこと、何かを待っておったような気がする。
その何かが何なのかは、まだ、わからん。
わからんが、あの小僧どもが奥へ進むたびに、少しずつ近づいてくるのだろう。
それならそれで、構わん。
わしは、ここで見張っておる。
エアが溢れぬように。
あの六人の帰る場所が、消えぬように。
思い出すべきことがあるなら、そのうち、向こうからやって来るだろう。
来たら、そのとき考えればいい。
わしは、あくびを一つした。
猫は、あくびをすれば、たいていのことは忘れられる。
今夜は、忘れられそうになかったが。
戸口の先で、エアの一層は、今夜も静かに息をしておった。




