第207話「輪郭のない道、似て非なる立ち姿」
ヘクサインの共用室の卓に、砂時計が一つ置かれていた。
ズールの門番から、帰り際に借りてきたものだ。
「ちゃんと返すって約束で、借りてきたの」
ミラが、少しだけ申し訳なさそうに付け足した。
「中で半刻いたつもりが、外では百も数えてなかった」
カインが、砂時計を指で軽くつついた。
「つまり、中の時間と外の時間が、まるで合ってない」
「中にいると、長く感じるってこと?」
ネリスが、首を傾げる。
「それか、外がやたら遅いか。どっちにしても、中で時間を数えるのはあてにならない」
「では、何を目安にするでござるか」
ワングが、腕を組んだ。
「これだ」
カインは、自分の左手の甲を卓の上に置いた。
六弁の証は、今はただの薄い紋様に戻っている。
「中では、これが光ってた。長くいるほど、明滅が速くなってた」
「指先が滲んできたのも、それと同じころだった」
ミラが、自分の指先を見つめながら言った。
「なら、証の明滅が速くなったら、戻る」
スルが、短くまとめた。
「誰か一人でも速くなったら、全員で戻る」
カインが頷く。
「一度に進めるのは、ほんの少しだ。進んで、戻って、休んで、また進む。それを繰り返す」
「遠回りでござるな」
「急いだら、消え失せる。エランドがそう言ってただろ」
誰も、それ以上は何も言わなかった。
「道は、私が決める」
ネリスが、耳をぴんと立てた。
「あの影が指さしたほう。まだ、ちゃんと覚えてる」
五層で授かった、道に迷わない感覚。
上も下もないあの白と黒の中で、頼れるものはそれしかなかった。
翌朝、六人は再びズールの門の前に立った。
番人が、黙って縄を外す。
六人の手の甲で、六弁の証が光った。
スルは、もう革帯を巻いていなかった。
アーチをくぐると、足の裏から地面の感触が消える。
白と黒の渦が、四方を満たしていた。
「こっち」
ネリスが、迷わず歩き出した。
歩いている、という感覚さえ曖昧だった。
それでも、ネリスの背中を追っていると、確かにどこかへ近づいている気がした。
渦の中に、ぼんやりと道のようなものが見え始める。
床ではない。
白と黒の境目が、少しだけ細く、まっすぐに揃っている。
それが、通路の代わりになっているらしかった。
「前より、見える」
ノリアが、小さく言った。
「一度来たから、かな」
「かもな」
カインが答える。
そのとき、ネリスが足を止めた。
「何か、いる」
通路の先で、白と黒の渦が一か所だけ濁っていた。
濁りは、ゆっくりと膨らんでいく。
やがてそれは、形の定まらない塊になった。
手足のようなものが伸びかけては、崩れ、また伸びかける。
顔のようなものが浮かびかけては、渦に溶ける。
「魔物、でござるか」
ワングが、村雨の柄に手をかけた。
「魔物、っていうより」
ミラが、目を細める。
「魔物になりかけの、何か」
塊が、こちらへ伸びてきた。
腕とも触手ともつかないものが、先頭のネリスへまっすぐに走る。
「させるか」
スルが、盾を差し出した。
伸びてきたものが盾に当たり、ぬるりと形を崩して横へ流れる。
「重くは、ない」
スルが、眉をひそめた。
「だが、手応えも、ない」
「斬るでござる」
ワングが踏み込んだ。
村雨が、塊を斜めに断つ。
幻の右手の氷姫が、続けて横に払う。
塊は、確かに二つに裂けた。
だが、裂けた端から、また渦が寄り集まって塞がっていく。
「再生、か」
カインが呟いた。
「封癒」
ノリアが唱えた。
いつもなら、手のひらの内側で呪文の形がはっきりと結ばれる。
今日は、その形が、指の隙間からこぼれそうになった。
魔力の輪郭を、必死に掴み直す。
淡い光が、どうにか塊に届いた。
塞がりかけていた裂け目が、そこで止まった。
「効いた……!」
ノリアが、息をついた。
「ノリア、無理はするな」
「してない」
していた。
額に、汗がびっしりと浮かんでいる。
ここでは、呪文ひとつ唱えるにも、いつもの倍は骨が折れるらしかった。
「カイン、右」
ネリスが叫ぶ。
塊の残り半分が、形を変えてカインの脇へ回り込もうとしていた。
カインは、剣を振り下ろした。
何の変哲もない、いつもの一太刀だった。
万能士の剣は、ワングのように鋭くはない。
スルのように重くもない。
それなのに、剣は塊を、ワングの刀と同じように深々と断ち割った。
「……え」
カインは、自分の剣を見下ろした。
斬った手応えが、ワングの一太刀のときと、まるで変わらなかった。
「カイン殿の剣、今、拙者と同じだけ通っておったでござる」
ワングも、目を見開いていた。
塊は、裂け目を塞げないまま、白と黒の渦にほどけていった。
あとには、何も残らなかった。
魔石も、ドロップも。
「落とさないんだ」
ネリスが、少し残念そうに言った。
「ここの魔物は、まだ魔物になりきっておらぬのかもしれぬでござる」
ワングが、渦を見やった。
魔物は魔素からできていて、倒せば魔石を生む。
マランの誰もが知っている、当たり前の決まりだった。
その当たり前が、ここでは通じないらしい。
六人は、しばらく黙って、塊の消えた辺りを見つめていた。
「ねえ」
ミラが、ゆっくりと口を開いた。
「今の、力の強さとか、速さとか、関係なかった気がする」
「どういうことだ」
スルが聞く。
「うまく言えない。けど、どれだけ強く斬ったかより、どれだけちゃんと、ここに立ってるか、みたいな」
ミラは、自分の手の甲の証に目を落とした。
「輪郭が、しっかりしてる人の刃ほど、よく通る。そんな感じがした」
「レベルは関係なくなる、って、エランドが言ってたやつか」
カインが呟いた。
数字では測れない何か。
強さでも、速さでも、呪文の回数でもない何か。
それが、ここでは刃の通り方を決めているらしかった。
「わかったような、わからないような話でござるな」
ワングが、村雨を鞘に戻した。
「わからなくても、斬れればいい」
スルが、短く言った。
そのとき、ネリスの耳が、ぴくりと動いた。
「……いる」
通路の先、白と黒の境目がふたつに分かれるところに、人影が立っていた。
カインと同じ背丈。
同じ髪。
向こうのカインだった。
向こうのカインは、何も言わずに、右の道を指さした。
それから、靄に溶けるように消えた。
「右、だって」
ネリスが言った。
「私も、右だと思ってた」
六人は、右の道へ進んだ。
しばらく行くと、道はまた分かれた。
今度は、向こうのノリアが立っていた。
杖を抱えた、エルフの少女の姿。
だが、その姿だけは、ほかの影とどこか違っていた。
ほかの影には、立ち方にも首の傾け方にも、それぞれの癖のようなものがある。
向こうのノリアには、それがなかった。
ただ、そこに映っているだけのように見えた。
向こうのノリアは、左を指さして消えた。
「……私、あんな立ち方する?」
ノリアが、眉を寄せた。
「しない、と思う」
ミラが、首を傾げた。
「なんか、空っぽだった」
誰も、それ以上は言わなかった。
そのあと、何度か道が分かれ、そのたびに影が一人ずつ現れて道を示した。
向こうのネリス。
向こうのミラ。
向こうのスル。
カインの手の甲で、証の明滅が、少しずつ速くなり始めていた。
「そろそろだ」
カインが言いかけたとき、最後の分かれ道に、影が一人立っていた。
向こうのワングだった。
片腕に籠手を締め、腰に刀を佩いたドラゴニート。
顔も、背丈も、ワングそのものだった。
向こうのワングは、まっすぐ奥を指さした。
ワングは、その立ち姿から目を離せなかった。
重心が、わずかに後ろ足にかかっている。
刀の柄に添えた手が、鍔からこぶし一つ分だけ離れている。
いつでも抜ける構えでありながら、抜く気配を少しも見せない立ち方。
ワング自身は、そんなふうには立たない。
けれど、どこかで、何度も見たことのある立ち方だった。
影は、靄に溶けて消えた。
「戻るぞ」
カインが言った。
六人は、来た道を引き返し始めた。
ワングだけが、一度だけ、影の消えた場所を振り返った。
「ワング?」
ミラが、声をかける。
「……拙者に似ておるが、拙者ではない」
ワングは、低く呟いた。
「あれは、拙者よりずっと前から、刀を握っておる者の立ち方でござる」




