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『マラン、はじまりの迷宮』〜わからないことばかりの、迷宮攻略記〜  作者: 奇木 尋
第七部 ズール 準備と入口へ

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第206話「ズールの門、指さす影」

クロスロードの奥で、道は三つに分かれている。

左へ下れば、ノア。

新人の笑い声と、ベテランのぼやきが絶えない、いちばん賑やかな道だ。

右へ折れれば、エア。

ノアを越えた者だけが通る、少しだけ静かな道。

そして、まっすぐ奥へ伸びる三つ目の道を歩く者は、ほとんどいない。

窓口の前を通り過ぎるとき、リゼットが書類から顔を上げた。

「行ってらっしゃい」

いつもと同じ、事務的な一言だった。

六人がどちらの道へ向かうのか、リゼットは聞かなかった。

聞かれても、答えられなかっただろう。

石畳は古く、ところどころ苔が浮いている。

行き止まりに、ズールの門があった。

「……ここ、初めて来た」

ネリスが、耳を伏せ気味にして言った。

「拙者もでござる。近づく理由が、なかったゆえ」

ワングが、門を見上げる。

門といっても、扉はない。

黒ずんだ石を積み上げた、大きなアーチがあるだけだった。

アーチの向こうは、薄暗い。

暗いのではなく、薄い。

奥行きがあるのかないのか、目を凝らしてもよくわからなかった。

アーチの手前には、ギルドの張った古い縄が一本渡してある。

その脇の小屋から、年配の番人が顔を出した。

「ギルド長から、話は聞いとる」

番人は、六人の顔をしげしげと眺めた。

「ここを通ろうとして弾かれた者は、何人も見てきた。入口でめまいを起こす者、足が動かなくなる者、気づけば石畳に座り込んどる者」

「通れた人は?」

ノリアが聞く。

「一人もおらん。わしがここに座って、もう三十年になるがな」

番人は、小屋の棚から砂時計を一つ取り出した。

「決まりでな。入ったら、これを返す。落ちきるまでに戻らなんだら、ギルドに知らせる」

「落ちきるまで、どのくらいですか」

ミラが聞いた。

「半刻ほどだ」

番人は、縄を外した。

「無理はするな。弾かれたら、それが迷宮の答えだ」

六人は、アーチの前に並んだ。

誰からともなく、深く息を吸う。

ズールへ向かう資格は得た。

エランドはそう言った。

だが、それが本当かどうかを確かめた者は、まだ誰もいない。

「行くぞ」

カインが、一歩踏み出した。

その瞬間だった。

カインの左手の甲が、じんわりと温かくなった。

見下ろすと、六枚の花弁を重ねたような紋様が、淡く光っている。

ノアを踏破した日に刻まれた、六弁の証。

エアへの通行証として、これまで何度もエアの門をくぐらせてくれた印だった。

「光ってる……」

ネリスが、自分の手の甲を見つめた。

ネリスの証も、同じように光っていた。

ノリアも、ミラも、ワングも。

そして、スルも。

スルが、盾の持ち手を握るためにいつも手の甲まで巻いている革帯を、黙ってほどいていた。

その下で、同じ六枚の花弁が光っている。

「……兄さん、それ」

ネリスが、目を見開いた。

「スルも、持ってたの?」

ノリアが、思わず声を上げる。

誰も、知らなかった。

スルの手の甲は、いつも革帯に隠れていた。

戦いのあとも、宿でくつろぐときも、スルはそれを外そうとしなかった。

気に留めた者は、一人もいなかった。

「いつから」

カインが聞いた。

「四層への扉が、開いた日だ」

スルは、自分の手の甲を見下ろした。

「ダダが前を譲ってくれて、俺が正式に六人目になった日。あの、ずっと押し戻されてた扉に、手をかけたときだ」

「……あの日」

ミラが、小さく呟いた。

「手の甲が、熱くなった。革を外して見たら、あった。お前たちと、同じものが」

「なんで、言わなかったの」

ネリスが、兄の袖をつかむ。

スルは、少しだけ首を傾げた。

「聞かれなかった」

いやいや、そういう問題ではなかった。

ネリスが、呆れたように耳を伏せる。

「それに」

スルは、革帯を握ったまま付け足した。

「迷宮に認められた気がして、少し、照れくさかった」

照れくさそうなスルは、本当に珍しい。

六人の手の甲で、六つの紋様が、同じ速さで明滅している。

「エアの門で光ったことなんて、あったっけ」

ノリアが、小さく呟いた。

「なかったでござる」

ワングが、低く答えた。

エアの門をくぐるとき、証はいつも、ただそこにあるだけだった。

こんなふうに、脈を打つように光ったことは、一度もない。

光は、手の甲から指先へ、指先からアーチの石へと、細い糸のように伸びていった。

黒ずんだ石の継ぎ目に、六本の光の筋が走る。

六枚の花弁が、アーチの頂に大きく浮かび上がった。

「……開いた、のか」

カインが呟いた。

扉のない門に、開くも閉じるもない。

それでも、さっきまで薄かったアーチの向こうが、急に手の届く距離に感じられた。

番人が、小屋の前で目を丸くしていた。

砂時計を握る手が、止まっている。

「返してください、砂時計」

ミラが、振り返って言った。

番人は、慌てて砂時計を返した。

さらさらと、砂が落ち始める。

六人は、アーチをくぐった。

弾かれなかった。

めまいも、吐き気も、来なかった。

ただ、足の裏から、地面の感触が消えた。

白と黒が、混ざり合っていた。

上を見ても、下を見ても、同じ色が渦を巻いている。

床があるのかどうかもわからないのに、落ちてはいなかった。

立っている、という感覚だけが、かろうじて体に残っている。

「なに、ここ」

ネリスの声が、妙に遠くで響いた。

すぐ隣にいるはずなのに、声だけが、どこか別の場所から届く。

「上下が、ないでござるな」

ワングが、慎重に一歩踏み出した。

踏み出した足が、どこに着いたのか、本人にもわからないようだった。

カインは、自分の手を見下ろした。

指先の輪郭が、わずかに滲んでいる。

白と黒の渦に、少しずつ溶け出しているように見えた。

「長くは、いられないね」

ミラが、自分の両手を胸の前で握りしめた。

「わかる。ここ、体の端っこから、削られてく感じ」

ノリアが、杖を抱え込む。

魔力を練ろうとしても、輪郭がうまく掴めなかった。

五層で身につけたはずの感覚が、ここでは霧を掴むように頼りない。

スルが、黙ってネリスの肩に手を置いた。

ネリスは、兄の手に自分の手を重ねた。

その手の甲で、六弁の証だけが、変わらず光っていた。

「……あの光があるうちは、たぶん、大丈夫」

ネリスが言った。

根拠はなかった。

それでも、誰も否定しなかった。

ミラが、そっと自分の証に指を重ねた。

温かさだけが、ここでは確かなものに思えた。

そのとき、渦の奥で、何かが動いた。

白と黒の境目に、靄が溜まり始めている。

靄は、ゆっくりと形を結んでいった。

六つ。

六つの人影だった。

「来た」

スルが、ネリスの前に半歩出る。

靄が晴れていくにつれて、影の輪郭がはっきりしてくる。

先頭に立っているのは、剣を提げた青年だった。

カインと、同じ背丈。

同じ髪。

同じ顔立ち。

その隣に、杖を抱えたエルフの少女。

猫の耳をぴんと立てた小柄な娘。

丸盾とロングソードの女。

片腕に籠手を締めたドラゴニート。

盾を構えた、大柄な獣人。

「……私たちだ」

ノリアが、かすれた声で言った。

三層で、何度も気配だけを感じてきた。

足跡を見た。

聞き覚えのある台詞を聞いた。

黒いドラゴンの日には、遠くから一度だけ目が合った。

だが、こうして正面から向き合うのは、初めてだった。

向こうの六人は、こちらと寸分違わぬ姿で、こちらを見ていた。

鏡を覗いているようだった。

だが、鏡と違って、向こうはこちらと同じ動きをしなかった。

カインが剣の柄に手をかけても、向こうのカインは動かない。

ネリスが耳を伏せても、向こうのネリスの耳は立ったままだった。

「戦う気は、なさそうでござるな」

ワングが、柄から手を離した。

向こうの六人は、しばらく黙ってこちらを見つめていた。

それから、向こうのカインが、ゆっくりと腕を上げた。

渦の、さらに奥を指さしている。

向こうの五人も、同じ方向を見ていた。

「……奥に、行けってこと?」

ミラが呟いた。

答えはなかった。

向こうのカインは、指さしたまま、ほんの少しだけ口を動かした。

声は届かなかった。

黒いドラゴンの日と、同じだった。

次の瞬間、六つの影は、靄に溶けるように消えていた。

白と黒の渦だけが、何事もなかったように巡っている。

カインの手の甲の証が、明滅を速めた。

指先の輪郭が、さっきよりも滲んでいる。

「戻るぞ」

カインが言った。

誰も異を唱えなかった。

振り返ると、白と黒の向こうに、アーチの形をした薄い光が見えた。

六人は、その光に向かって歩いた。

歩いているのかどうかもわからないまま、ただ光を目指した。

石畳の感触が、足の裏に戻ってきた。

六人は、アーチの外に立っていた。

番人が、砂時計を握ったまま、こちらを見ている。

「……もう、戻ったのか」

砂時計の砂は、ほんのひとつまみしか落ちていなかった。

「え」

ノリアが、砂時計を覗き込む。

「私たち、けっこう長くいたよね」

「半刻は、いた気がするでござる」

ワングも、首を傾げた。

番人は、首を横に振った。

「数を百も数えんうちに、出てきたぞ」

六人は、顔を見合わせた。

手の甲の証は、もう光っていなかった。

指先の輪郭も、元に戻っている。

カインは、アーチの奥の薄暗がりを振り返った。

向こうの自分が、口の中で何を言ったのか。

それは、わからないままだった。

ネリスだけが、アーチの奥をじっと見つめていた。

猫の目が、薄暗がりの一点に据えられている。

「どうした」

スルが聞く。

「道は、わかった」

ネリスが、静かに言った。

「あいつらが指さしたほう。次は、あっちへ行ける」


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