第205話「八十年前の記録、並んだ六つの名」
「八十年前の、エアの未帰還記録」
ティリーは、六人の顔を順に見上げた。
「また、ずいぶんと古いものを」
「残ってますか」
カインが聞く。
「残ってはいるはずです。読める形かどうかは、別として」
ティリーは椅子から降りると、アーカイブのいちばん奥へ歩いていった。
小柄な背中が、背の高い書架の間に消える。
六人が後を追うと、そこは普段は誰も近づかない一角だった。
棚の帳面は、背表紙の文字がほとんど擦り切れている。
紙と埃と、古いインクの匂いがした。
「未帰還の記録は、年ごとに一冊です」
ティリーは脚立に上り、棚の上段から分厚い帳面を三冊、順番に引き抜いた。
「八十年前の前後、三年分。ここから探します」
六人も手分けして頁をめくった。
未帰還の記録は、どれも短い。
パーティの名、人数、潜った日付、戻らなかったことの確認。
それだけで一人の冒険者の最後が済まされている頁が、延々と続いていた。
「……多いね」
ミラが、小さく呟いた。
誰も返事をしなかった。
一冊目を終え、二冊目の半ばに差しかかったころだった。
「これ」
ネリスが、ある頁の上で指を止めた。
「六人組。エア。帰還せず」
全員が、その頁を覗き込んだ。
スルだけが、帰還せずの一語をしばらく見つめていた。
自分も一度は、どこかの帳面にそう書かれた側だった。
インクは褪せていたが、文字はかろうじて読めた。
ティリーが、指でなぞりながら読み上げる。
「代表、アシェル。ヒューマン、男。職、万能士。召喚の能あり」
カインの肩が、わずかに揺れた。
「同行の召喚獣、一。……ここは擦れて、読めませんね」
ティリーが、紙の擦り切れたところを爪の先でそっとなぞった。
「万能士……」
ノリアが、カインの横顔を見る。
ギルド長から聞いた話が、頭の中でつながっていく。
八十年ぶりの万能士。
八十年ぶりの召喚スキル。
そして、先代も万能士だったという符合。
「俺の前の人だ」
カインが、低く言った。
「名前、初めて知った」
ティリーは頷き、先を読んだ。
「グンナル。ドワーフ、男。盾役。鍛冶を兼ぬ」
ダダの顔が、全員の頭に浮かんだ。
昨日、工房で見せられた三筋の炎の印。
仲間の得物を全部自分で打って、一緒に潜るんだと言って家を出た人。
「本当に、いたんだ」
ネリスが、ぽつりと言った。
「ルゥ。獣人、狐系、女。斥候」
「斥候。私と、同じ」
ネリスの耳が、ぴんと立った。
「ペトラ。ノーム、女。治癒」
ミラが、黙って胸に手を当てた。
「ハクエン。ドラゴニート、男。剣士、侍の型」
その名を聞いた瞬間、ワングが顔を上げた。
「ハクエン、と申されたか」
「ええ。そう書いてあります」
ワングは、しばらく黙って頁を見つめていた。
「拙者の流派の、古い伝書に、その名がござる」
「伝書?」
ミラが聞き返す。
「師の、そのまた師が書き残したものでござる。型の始まりにあたる方の名として、一度だけ出てくる。拙者は、とうに昔の人だと思っておった」
ワングの指先が、刀の柄の上でわずかに震えていた。
五層の双剣の騎士。
白の点の鎧の魔物たち。
若い頃に見取り稽古をした、あの型。
既視感の糸が、ようやく一本の名前に結びつこうとしている。
「最後の一人です」
ティリーが、指を頁の下へ滑らせた。
「フィオラ。エルフ、女。魔法使い」
そのときだった。
カインが、小さく息を呑んだ。
右の手のひらを、左手で押さえる。
「カイン?」
ネリスが、覗き込む。
「……熱い」
カインは、ゆっくりと手のひらを開いた。
白の点で取り込みをしたときから、薄く残っている見覚えのない紋様。
召喚の印を組むとき、いつもそこがほんのりと温かくなる。
その紋様が、誰も呼んでいないのに、今はじんわりと熱を帯びていた。
「召喚、してないよね」
ノリアが、声を落とす。
「してない」
カインは首を振った。
「ゴーレムも、ララも、ミーも、呼んでない。なのに、紋様だけが」
熱は、脈を打つように強くなったり弱くなったりしていた。
誰かが、手のひらの向こう側から、戸を叩いているような感じだった。
カインは、頁の上の名前をもう一度見た。
フィオラ。
エルフの、魔法使い。
(エルフの、魔法使い)
頭の中で、何かが引っかかった。
黒いドラゴンを討った日のことを思い出す。
残骸を拾いに来たもう一組の、カインによく似た青年。
あの青年は、器の欠片を覗き込んだあと、なぜかララをじっと見つめていた。
何かを、口の中だけで呟いて。
「ティリーさん」
カインは顔を上げた。
「ここで、召喚してもいいですか」
ティリーの目が、丸くなった。
「……ここで、ですか」
「ララを。確かめたいことがあって」
「書架を燃やさないでくださいね」
ティリーは少し考えてから、真顔で言った。
「迷宮の外で召喚など、見たことがありませんが」
「一度だけ、フラグメンツにミーが出てきたことがあります」
ミラが、横から言い添えた。
呼べば、迷宮の外でも来る。
四つ目の試練の前夜、酒場の卓の上に白い子猫が現れたのを、六人とも覚えていた。
カインは、手のひらの紋様に指を重ね、印を組んだ。
「ララ」
淡い光が書架の間に灯り、エルフの魔法使いが静かに姿を現した。
ララは辺りを見回し、埃の積もった棚と、脚立の上のティリーと、六人の顔を順に眺めた。
「ここ、迷宮じゃない」
「ああ。アーカイブだ。ちょっと、見てほしいものがある」
カインは、帳面の頁をララの前に差し出した。
「読めるか」
ララは、頁を覗き込んだ。
アシェル。
グンナル。
ルゥ。
ペトラ。
ハクエン。
ララの目は、名前の上を淡々と滑っていった。
表情は、いつもと少しも変わらない。
最後の一行で、その目が止まった。
フィオラ。
ララの指が、杖を握り直した。
ほんのわずかな動きだった。
杖の先が、かすかに床を擦る音がしただけだった。
「……知らない」
ララが言った。
いつもの、感情の色の薄い声だった。
「知らない、名前」
「そうか」
カインは、それ以上は聞かなかった。
ララは、まだ頁から目を離さなかった。
「でも」
しばらくして、ララが小さく付け足した。
「この字、きらいじゃない」
誰も、すぐには言葉を返せなかった。
「ララ、前に言ってたよね」
ノリアが、そっと聞いた。
「気づいたら、あそこにいたって」
「うん」
「その前のことは」
「わからない」
ララは、首を傾げた。
それから、自分の杖を握る手を、不思議そうに見下ろした。
なぜ握り直したのか、本人にもわからないようだった。
カインの手のひらの熱は、いつの間にか引いていた。
ララの頬を、一筋、何かが伝った。
本人は、それにも気づいていないようだった。
ミラが黙って手巾を差し出すと、ララは首を傾げたまま、それを受け取った。
「ありがとう」
ララは、それだけ言った。
カインがララを戻したあと、書架の間に、しばらく誰の声もなかった。
その静けさを破ったのは、入口のほうから聞こえた軽い足音だった。
「ティリー、いる?」
ギルド長のルーシェナが、書架の陰からひょいと顔を出した。
クロスロードに顔を出すのと同じ気軽さで、アーカイブにもふらりと現れる人だった。
「六人そろって、埃まみれで何してるの」
ティリーが、黙って帳面を差し出した。
ルーシェナは頁に目を落とし、そのまま長いあいだ動かなかった。
六つの名前を、一つずつ、確かめるように読んでいる。
いつもの、ノリの良い姉ちゃんの顔ではなかった。
「ティリー、奥の棚から、この年の潜行届も出してきてくれる?」
「はい」
ティリーが脚立を抱えて書架の奥へ消える。
足音が遠ざかったのを確かめてから、ルーシェナは帳面を閉じた。
「ズールに行けば、会えるのかもね」
それだけ言って、ルーシェナは帳面を六人の前に置いた。
誰も、それに答えなかった。
答えられる者は、ここにはいなかった。
その日の夕方、フォージタウンのブロムの工房。
ダダは、布に包んだ器を作業台に置き、ブロムに見せていた。
「親父の伯父の印だそうだ。グンナルという」
ブロムは、黙って器を手に取った。
底を返し、三筋の炎の印に目を落とす。
そこで、ブロムの手が止まった。
鎚ばかり握ってきた太い指が、印の上で動かなくなる。
「ブロム?」
ダダが呼んでも、返事はなかった。
炉の火だけが、ぱちぱちと小さく爆ぜていた。




