第200話「七つの証、ズールへの資格」
エア五層最終話です。
エランドは、開いた扉の手前に座っていた。
黄金の毛並みが、崩れた部屋の薄明かりを受けて鈍く光っている。
一層で見たときと同じ、猫の姿だった。
「まずまず、って」
ネリスが、腕の傷から口を離した。
「死ぬかと思ったんだけど」
「死ななかった。だから、まずまずだ」
エランドはあっさり言って、部屋の中へ入ってきた。
抉れた床の縁を、器用に避けて歩く。
焦げた壁を一度だけ見上げて、ひげをひくりと動かした。
「派手にやったな」
「やらないと、やられてた」
ノリアが座り込んだまま、ぼそりと返す。
杖を抱えた腕に、もう力は残っていないようだった。
カインは、隣に立つララへ目をやった。
「ララ、ありがとう。休んでくれ」
ララは小さく頷き、光の粒になって消えていった。
エランドは六人の真ん中まで来ると、そこで腰を下ろした。
尻尾を前足に巻きつける。
その仕草だけは、どこにでもいる猫と変わらない。
「七つ、越えたな」
金色の目が、六人の顔をひとりずつ見上げていく。
「これで、お前たちはズールへ向かう資格を得た」
部屋が、しんと静まった。
ズール。
マランにある三つの迷宮のうち、誰ひとり足を踏み入れたことのない、最後の一つ。
ノアは誰にでも開かれている。
エアは、ノアを越えた者にしか開かれない。
そしてズールは、誰にも開かれていなかった。
潜った途端に、消え失せる。
五層の入口に立つ前、エランド自身がそう言っていた。
「……資格って、紙か何かもらえるの?」
ネリスが首を傾げる。
「もらえん」
「もらえないんだ」
「証なら、もう七つ渡した」
エランドが、ふんと鼻を鳴らした。
七つの扉。
黒い魔物の再生を、静黙で封じた日。
六人の剣士に一度は押し返され、二度目で崩した日。
豹頭の騎士たちを退けて、ノリアの炎の余波で全員が焦げた日。
顔の見えない少女たちに、二度退いた日。
鋼のようなキメラの眉間を、宙で掴んだ剣が貫いた日。
天井まで届く大きな猫が、手のひらほどの子猫に縮んだ日。
そして、今日。
数えてみれば、どれも昨日のことのようだった。
「行った先で、ズールの管理者と会うことになる」
エランドは続けた。
「管理者、でござるか」
ワングが村雨を杖にしたまま、眉を寄せる。
「ベーダー殿が、エアで見張りをしておられるような」
「似たようなものだ」
「エランド殿も、そうでござろう」
「似たようなものだ」
同じ答えが、二度返ってきた。
「便利な言葉だね、それ」
ミラが小さく笑う。
エランドは聞こえなかったふりをした。
「そこで、この世界の成り立ちと、貴公たちの役目を理解することになる」
「成り立ち」
ノリアが、ゆっくりとその言葉を繰り返した。
いくつもの世界がぶつかり合い、その継ぎ目にマランが生まれた。
消えた世界の欠片が、迷宮の中で魔物になり、魔石になり、ドロップになる。
それが、マランの誰もが知っている成り立ちだった。
ただし、なぜ世界がぶつかったのかは、誰も知らない。
アーカイブの学者たちが何十年と頭をひねっても、答えは出ていない。
「それが、わかるってこと?」
ノリアの声が、少しだけ上ずった。
「わかる、と言っている」
「役目っていうのは」
カインが口を挟んだ。
「迷宮の主を制御する、ってやつか。前に聞いた」
「それも、ある」
「も、って」
「全部を今言っても、どうせ呑み込めん」
エランドは、前足で顔をひとなでした。
「そして、もうレベルというものも関係なくなる」
「え」
今度は、六人の声がきれいに揃った。
「たぶん、ギルドのレベル測定は役に立たん。エアの七つの証を受けたからな」
「ちょっと待って」
ネリスが身を乗り出す。
「せっかく上がってると思ったのに。確かめられないの?」
「測る道具が、お前たちに追いつかん」
「鑑定、また頼まないと、って話してたんだけどな」
カインが頭をかいた。
五層に入ってから、アプレイザルには一度も顔を出せていない。
鑑定具に手を置けば、今どれだけ積み上がったのかが数字でわかる。
その当たり前の段取りが、急に遠いものに思えた。
「数字がないと、落ち着かないでござるな」
ワングが、ぽつりと言う。
「目安が消えると、自分の足の置き場がわからなくなるでござる」
「足の置き場なら、ネリスがわかる」
スルが短く言った。
「道に迷わない、っていうのは、そういう意味じゃないと思う」
ネリスが兄を横目で見た。
「そういう意味かもしれない」
「そういう意味だったら、便利すぎ」
エランドは、兄妹のやりとりを黙って聞いていた。
それから、少しだけ声を低くした。
「そして、カレント神の意思と、この世の運命を、その手に取り戻すことが重要だ」
ミラが、はっと顔を上げた。
「カレントって、一人ひとりのことは見えないんじゃなかった?」
カレントは、マランという土地そのものの、大きな流れのようなもの。
何十年という単位の人の動きや、魔石の量や、迷宮の機嫌には関われる。
だが、困っている冒険者を一人助けることは、原理的にできない。
大きすぎて、近すぎるものは見えない。
マランでは、子どもでも知っている話だった。
「見えないのは、カレントのほうだ」
エランドが答えた。
「お前たちのほうから手を伸ばすな、とは誰も言っておらん」
「……取り戻す、って言ったよね」
ノリアが、杖を握る指に力をこめた。
「今は、誰かの手にあるってこと?」
エランドは答えなかった。
金色の目を、ほんの少し細めただけだった。
「理解できなかったことも、たぶん、自ずとわかる」
「たぶん、多くない?」
ネリスが耳を伏せる。
「エランド殿の、たぶん、は」
ワングが真顔で言った。
「当たるほうの、たぶん、でござる」
「褒めても何も出んぞ」
「褒めてはおらぬでござる」
ノリアが、座り込んだまま小さく吹き出した。
張り詰めていた部屋の空気が、ほんの少しだけほどける。
「ただ」
エランドは、尻尾の先で床を一度叩いた。
「街の人々には、しゃべれないだろうが」
「口止め?」
カインが聞き返す。
「止めはせん。話そうとしても、たぶん、話せん。そういうものだ」
「また、たぶん」
ネリスがぼやく。
「ガラントにも、リゼットにも?」
ミラが、心配そうに言った。
「話せるのは、ギルド長と、あの鍛冶屋だけだ」
「ダダには、話せるのか」
スルが、わずかに身を乗り出した。
「話せる」
エランドの答えは短かった。
スルは、それ以上は何も聞かなかった。
ただ、ぼろぼろになった盾の縁を、指でそっとなぞった。
ネリスが、その横顔をちらりと見る。
カインも、ほっと息をついていた。
ダダに何も話せないまま抱えて帰るのは、たぶん、きつかった。
エランドが立ち上がる。
崩れた床の上で、黄金の毛並みがふわりと揺れた。
「貴公たちの冒険に、幸あらんことを」
それだけ言うと、エランドは開いたままの扉の向こうへ歩いていった。
乾いた足音が遠ざかる。
振り返りもしなかった。
光の線で結ばれていた扉が、音もなくほどけて、ただの壁に戻る。
しばらく、誰も口を開かなかった。
「……言うだけ言って、帰ったでござるな」
ワングが、ようやく息を吐いた。
「いつも通りだよ」
ミラが苦笑する。
「帰ろう」
カインが、ノリアに手を差し出した。
「歩けるか」
「歩く」
いやいや、歩けていなかった。
二歩目で膝が折れ、スルが黙って肩を貸す。
「……ありがと」
「気にするな」
六人は、五層の白い道を、ゆっくりと引き返していった。
自分たちの足音しか、響かなかった。
◇
ギルド長の部屋は、クロスロードの奥の、少し高いところにある。
ルーシェナは机に頬杖をついたまま、六人の話を最後まで聞いていた。
途中で一度も口を挟まない。
この人にしては、珍しい。
「ズール、ね」
話が終わると、ルーシェナはそれだけ呟いた。
窓の外へ目をやる。
三つの迷宮の入口がある方角だった。
「ベーダーの伝言にもあったわね。エアを越えられる冒険者を育てて、いずれズールへ、って」
「覚えておられたでござるか」
ワングが言う。
「忘れるわけないでしょ」
ルーシェナは、ふっと笑った。
いつもの、ノリの良い姉ちゃんの顔だった。
だが、目の奥だけは少しも笑っていない。
「で、レベルが測れない、と」
「たぶん、って言ってました」
カインが付け足す。
「アプレイザルの鑑定士が泣くわね。一度、試しには行きなさい。本当に測れないのか、確かめておいたほうがいい」
「行きます」
ミラがすぐに頷いた。
「それと」
ルーシェナは、机の上の羊皮紙を指先で叩いた。
「エアの制覇って、ギルドの記録じゃまだ誰も果たしてないことになってるのよ。何をもって制覇とするのか、決まってないから」
「……俺たちは?」
カインが聞く。
「私の中では、決まり」
ルーシェナは、あっさり言った。
「記録には、なんて書こうかしら。ティリーが、また困った顔をするわね」
街の人々には話せない。
それはたぶん、記録も同じなのだろう。
六人ともそう思ったが、誰も口にはしなかった。
「お疲れさま。エア攻略、おめでとう」
ルーシェナが立ち上がり、一人ひとりの顔を見た。
「ちゃんと休みなさい。ズールは、逃げないわ」
「逃げはしないけど、消え失せるらしいです」
ネリスが言った。
「上手いこと言わないの」
ルーシェナが、ネリスの頭を軽く小突いた。
◇
フォージタウンの奥、ブロムの工房からは、今日も鎚の音が響いていた。
ダダは炉の前で、赤く焼けた鋼を打っていた。
六人の顔を見ると、鎚を置く。
話を聞くあいだ、ダダはひと言も口を挟まなかった。
ただ、スルの盾と、肩当てを片側失くしたワングの鎧と、刃こぼれしたカインの剣を、順番に見ていた。
「……そうか」
話が終わると、ダダはそれだけ言った。
「驚かないの?」
ノリアが聞く。
「驚いてる」
驚いている顔ではなかった。
いつものダダの顔だった。
ただ、髭の奥の口元が、ほんの少しだけ緩んでいる。
「ダダにだけは、話せるんだって。あとはギルド長と」
ネリスが言う。
「ギルド長と、俺か」
ダダは盾を手に取り、ひびの入った縁を指でなぞった。
「なら、聞いた俺は、黙って打つだけだ」
「打つ、って」
スルが聞く。
「全部だ。ズールに持っていくなら、なおさらな」
ダダは盾を作業台に置き、それからワングの肩当ての留め具を確かめた。
「六人分、名前を刻み直す」
「刻み直す、でござるか」
ワングが、肩当てのなくなった肩に手をやった。
「前のは、エアの分だ」
ダダは、それ以上は言わなかった。
工房の奥で、ブロムが小さく笑う声がした。
「……おかえり」
最後に、ダダがぼそりと付け足した。
「ただいま」
六人の声が、ばらばらに重なった。
炉の火が、ぱちりと爆ぜる。
鎚の音が、また響き始めた。
エアの攻略は、こうして終わった。
次に向かう迷宮の名を、街の誰にも告げられないまま。
いよいよズールへ。
恒例の「閑話」挟む予定です。




