第199話「はじまりの小鬼、七つ目の証」
白い渦の中で、影は六つに分かれた。
どれも小さい。
カインの胸のあたりまでしかない背丈だった。
細い手足に、不釣り合いなほど大きな頭。
手には、刃こぼれした短い鉈を握っている。
「え、ゴブリン?」
ネリスが、拍子抜けしたように耳を立てた。
まさに、ノアの一層に出てくるゴブリンだった。
駆け出しの頃、何度も剣を交えた相手だ。
群れに囲まれて、息を切らしながら逃げ帰った日もあった。
それが今では、一振りで片がつく。
そのはずだった。
しかし、色が不気味だった。
ノアのゴブリンは、どちらかといえば暗い緑色をしている。
現れた六体は、黒一色だった。
肌も、目も、握った鉈までもが、光を吸い込むような黒に塗りつぶされている。
「……ミノタウロスの次が、これ?」
ノリアが、座り込んだまま顔を上げた。
「数だけは、こっちと同じだな」
スルが、ぼろぼろの盾を構え直す。
そのとき、六人の頭の中に声が落ちてきた。
『心して戦え。侮るなかれ。さもなくば死、あるのみ』
これまでで、一番長い言葉だった。
そして、一番冷たかった。
ネリスの耳が、ゆっくりと後ろへ倒れる。
誰も笑わなかった。
ただのゴブリンではない。
六人とも、それだけはわかった。
「立てるか、ノリア」
カインが手を差し出す。
「立つ」
ノリアはその手をつかみ、杖にすがって体を起こした。
「封癒」
「反跳結界」
「守護の盾!」
ノリア、ミラ、ワングが、いつもの順に唱えた。
光の壁が、もう一度六人とララを包む。
カインは、頭の中で残りを数えた。
どの階梯も、もう底が見えている。
ノストス系、アルカナ系の内側でなら、融通は利く。
とはいえ、余裕と呼べるものはどこにもなかった。
黒いゴブリンたちは、すぐには動かなかった。
六体が、ゆっくりと横へ広がっていく。
一体ずつ、誰かの正面に立った。
スルの前に一体。
ワングの前に一体。
ネリス、ミラ、ノリア、カインの前にも、一体ずつ。
「……選んでる」
ミラが呟いた。
ララの前にだけ、何もいない。
次の瞬間、六体が同時に消えた。
消えたように見えるほど、低く、速かった。
「下!」
ネリスの声より先に、スルの盾の下へ黒い影がもぐり込んでいた。
鉈が、スルの脛を狙う。
スルは盾の縁を叩きつけて防いだ。
だが、ゴブリンはもうそこにいない。
盾の陰から陰へ、転がるように回り込んでいく。
「ちょこまかと……!」
ワングが村雨を振るう。
黒い影は、刃の届く寸前で身を沈めた。
幻の右手の氷姫が追いかける。
それも、かわされた。
かわしざまに、鉈がワングの膝を浅く裂いていく。
「拙者の太刀筋を、読んでおるでござるか」
ワングの顔から、余裕が消えた。
ネリスは壁を蹴って跳んだ。
黒い影も、同じ壁を蹴って跳んだ。
空中で、爪と鉈がぶつかり合う。
着地したとき、ネリスの腕には細い傷が三本走っていた。
「こいつ、真似してる」
ネリスが短く吐き捨てる。
ノリアの前の一体は、まっすぐ走った。
ノリアは杖を構えたが、詠唱が間に合わない。
「守護の盾」
ララが静かに唱えた。
光の壁が、ノリアの鼻先で鉈を受け止める。
ゴブリンは壁に張りついたまま、黒い目でノリアを見上げていた。
瞬きもしない。
「……気持ち悪い」
ノリアの声が震えた。
カインは、剣で鉈を受けた。
軽い。
一撃の重さは、ノアのゴブリンと大して変わらない。
なのに、止まらない。
受けても、受けても、次の一撃がもう来ている。
押し返したと思った瞬間には、脇腹へ回り込まれていた。
「くっ」
鉈の先が、革鎧を裂いて肌に届く。
一撃が軽いぶん、終わりがない。
カインは奥歯を噛んだ。
ミラは、丸盾で鉈を弾きながら、仲間の傷を目で追っていた。
スルの脛。
ワングの膝。
ネリスの腕。
カインの脇腹。
どれも浅い。
だが、浅い傷が、数えきれないほど増えていく。
「癒しの波!」
光が、カインとワングの傷を塞いだ。
塞いだそばから、また新しい傷が開く。
「これ、削り合いだ」
ミラが歯を食いしばった。
「このままだと、こっちが先に尽きる」
スルが、ようやく一体を捉えた。
盾で壁際へ押し込み、腰の短剣を突き立てる。
黒い体に、確かに刃が沈んだ。
ゴブリンは、声も上げなかった。
短剣が刺さったまま、スルの手首へ鉈を振り下ろす。
スルは咄嗟に手を離した。
ゴブリンは胸に短剣を生やしたまま、平然と後ろへ跳んだ。
「……倒れない、のか」
スルの額を、汗が伝う。
カインは、剣を振るいながら部屋を見渡した。
六体は、ばらばらに動いているようで、ばらばらではなかった。
誰かが大きく踏み込めば、別の一体がその背中を狙う。
誰かが呪文を構えれば、その前の一体が一気に距離を詰める。
六人と六体が、鏡のように組み合わさっていた。
まるで、もう一つのパーティと戦っているようだった。
「一体ずつじゃ、埒が明かない」
カインが叫んだ。
「まとめて、消す」
「まとめてって、どうやって」
ネリスが、鉈を爪で弾きながら叫び返す。
カインは、ワングとノリア、それからララを見た。
三人とも、同じものを思い浮かべた顔をしていた。
「……終焉でござるか」
ワングが低く言った。
切り札だった。
軽々しく使うものではない。
だが、今がその時でなければ、その時はもう来ない。
「一瞬でいい。全員、俺のところへ寄れ!」
スルが盾を振り回して道を開き、ネリスがミラの手を引く。
ワングは、ノリアに張りついていた一体を村雨で弾き飛ばした。
六人とララが、カインを中心に身を寄せ合う。
黒いゴブリンたちが、それを囲むように輪になった。
輪が、じりじりと縮まってくる。
「神域」
カインが唱えた。
足元から白い光が円を描いて広がり、六人とララをすっぽりと包み込む。
「反跳結界!」
ミラが、その上にもう一枚を重ねた。
光の内側で、空気が静まり返る。
輪の外のゴブリンたちが、一斉に跳びかかってきた。
「終焉」
「終焉!」
ララとワングの声が重なった。
部屋から、音が消えた。
次の瞬間、光の外側で世界が裂けた。
床の石が、端からめくれ上がる。
壁が軋み、天井から細かな砂が降り注ぐ。
跳びかかった黒い影が、宙で押し返され、壁へ叩きつけられた。
それでも。
崩れた床の上で、黒い影がまだ動いていた。
六つとも。
「嘘……」
ミラが息を呑む。
ノリアが、杖を胸の前で握りしめていた。
目を閉じている。
「ノリア、無理は」
カインが言いかけて、口をつぐんだ。
杖の先で、魔力がゆっくりと輪郭を結んでいく。
練る。
もっと、練る。
残っているものを、全部。
「終焉」
小さな声だった。
それなのに、部屋じゅうが震えた。
二人の終焉を合わせたものの、さらに倍はあった。
神域の外が、白く塗りつぶされる。
床に走った亀裂が壁を這い上がり、天井まで届いた。
熱とも冷気ともつかない風が、外から光の壁を叩き続ける。
反跳結界が、きしみながらそれを押し返した。
ミラは、両腕を広げて結界を支えるように立っていた。
やがて、白が引いていった。
部屋は、原形をとどめていなかった。
床は半分ほど抉れ、壁のあちこちに黒い焦げ跡が走っている。
ゴブリンの姿は、ほとんどなかった。
ほとんど。
抉れた床の縁で、黒い影が三つ、まだ立ち上がろうとしていた。
一体は片腕を失い、一体は鉈を杖にしている。
最後の一体の胸には、スルの短剣が刺さったままだった。
「行く」
ネリスが、誰より先に飛び出した。
片腕の一体が、残った腕で鉈を振り上げる。
その腕の下をくぐり、ネリスの爪が喉を横に裂いた。
黒い体が、砂のように崩れる。
スルは、短剣の刺さった一体へまっすぐ向かった。
ゴブリンが、低く身を沈める。
さっきまでの速さは、もうなかった。
スルは盾の縁を、真上から振り下ろした。
鈍い音がして、黒い影が床に沈む。
転がり出た短剣を、スルは黙って拾い上げた。
「最後でござる」
ワングが、鉈を杖にしていた一体の前に立った。
ゴブリンは、それでも鉈を構えようとした。
村雨が、一度だけ閃いた。
黒い影が二つに分かれ、光にもならず、静かに消えていった。
部屋に、七つの荒い息だけが残った。
ノリアは、神域の光が消えるのと同時に膝をついていた。
杖を抱えたまま、肩で息をしている。
「……もう、本当に、何も残ってない」
「十分だ」
カインが、その肩に手を置いた。
ララは杖を下ろし、焦げた壁をしばらく見つめていた。
それから、カインを振り返って小さく頷いた。
「侮るなかれ、か」
スルが、傷だらけの盾を見下ろす。
「ゴブリンに言われる日が来るとはな」
「ゴブリンに言われたわけじゃ、ないと思うけど」
ネリスが、腕の傷を舐めながら言った。
そのとき、正面の壁に細い線が走った。
焦げ跡でも、亀裂でもない。
まっすぐな、光の線だった。
線は四角く繋がり、一枚の扉の形を結ぶ。
扉が、ゆっくりと開いていく。
向こうから、乾いた足音が近づいてきた。
「まずまずだな」
エランドが、そこで待ち受けていた。
やっとズールにたどり着きそうです。




