第198話「三つの角、倒れない盾」
靄が晴れていくにつれて、影は三つに分かれた。
太い首。
盛り上がった肩。
頭の両脇から、前へ突き出した二本の角。
一体ごとに、刃の欠けた大斧を提げている。
「……ミノタウロス」
スルが、思わず声を上げた。
三体が、横一列に並んでいた。
鼻息が荒い。
蹄が石の床を掻くたびに、乾いた音が部屋に響く。
スルの盾が、ほんのわずかに下がった。
ネリスは、それを見逃さなかった。
「スル」
短く呼ぶ。
スルは答えなかった。
かつて、同じ角を持つ魔物に、仲間ごと呑まれた。
ネリスを庇って倒れたときも、目の前にあったのは、あの角だった。
盾を握る指の節が、白くなっている。
そのとき、六人の頭の中に声が落ちてきた。
『心して戦え。道は開ける』
それきりだった。
像は、何も浮かばない。
「弱点ないんかい!」
ネリスが叫んだ。
張り詰めていた空気に、少しだけひびが入る。
スルの口元が、かすかに緩んだ。
「……ない、らしいな」
盾が、元の高さに戻る。
「封癒」
「反跳結界」
「守護の盾!」
ノリア、ミラ、ワングが、立て続けに唱えた。
さっきまでより、どの声もかすれている。
ローブの男を倒してから、まだ百を数えるほどの時間しか経っていない。
呪文の残りは、誰も口にしなかった。
「ゴーレム、下がれ」
カインの言葉に、片腕を失った岩の巨体が、光の粒になって消えた。
「悪いな。休んでてくれ」
すぐに、新しい印を組む。
「ララ」
エルフの魔法使いが、カインの隣に立った。
ララはミノタウロスを見ても、眉ひとつ動かさない。
杖を低く構え、小さく頷いた。
先に動いたのは、ミノタウロスだった。
三体が、ほとんど同時に頭を下げる。
角を前に突き出したまま、床を蹴った。
地鳴りのような足音が迫ってくる。
「氷結界」
ララが静かに唱えた。
左右の二体の足元に、白い霜が走る。
蹄が凍りつき、二体の突進が鈍った。
真ん中の一体だけが、止まらない。
「来るぞ!」
スルが前へ出た。
盾で、角を正面から受ける。
重い音がした。
スルの体が、三歩、四歩と押し下げられる。
ダダの打った盾が、ぎしりと軋んだ。
それでも、スルは倒れなかった。
「今度は」
歯を食いしばったまま、スルが呟く。
「倒れない」
「上等でござる!」
ワングが横から飛び込んだ。
村雨が首筋を、氷姫が脇腹を、ほぼ同時に斬りつける。
分厚い毛皮が裂けた。
だが、浅い。
ミノタウロスは痛がる素振りも見せず、大斧を横に薙いだ。
「ワング!」
守護の盾が、斧の刃を受け止める。
光の壁に、大きな亀裂が走った。
その間に、氷を砕いた左右の二体が迫ってくる。
「金縛り!」
カインが右の一体へ手をかざした。
ミノタウロスの動きが、一瞬だけ止まる。
一瞬だけだった。
太い腕が、見えない縄を引きちぎるように振り上げられる。
「一瞬しか、もたないのかよ」
カインが舌打ちした。
「一瞬で、十分」
ミラが、その一瞬に踏み込んでいた。
丸盾で斧の柄を押し上げ、ロングソードで膝の裏を斬る。
右の一体が、がくりと片膝をついた。
「雷殺!」
ノリアの雷が、そこへ落ちた。
練り上げた一発だった。
ミノタウロスの全身から、白い煙が上がる。
それでも、倒れない。
膝をついたまま、角をノリアへ向けた。
「嘘でしょ……」
ノリアの肩が、大きく上下している。
杖の先の光が、細く揺らいでいた。
「ノリア、あと何発」
カインが聞く。
「……業炎獄なら、一発。たぶん」
左の一体が、ネリスを追って走った。
ネリスは壁を蹴り、天井近くまで跳ぶ。
斧が、ネリスのいた場所の壁をえぐった。
石の破片が、雨のように降ってくる。
「守りの聖歌!」
ミラが壁を重ねた。
破片が、光の表面で跳ね返る。
真ん中の一体が、また頭を下げた。
二度目の突進。
スルが盾を構え直す。
今度は、真正面から受けなかった。
盾の縁で角をわずかに逸らし、力を横へ流す。
ミノタウロスの巨体が、スルの脇をかすめて通り過ぎた。
だが、振り向きざまの斧が、スルの背中を捉えた。
「スル!」
ネリスの悲鳴が上がる。
スルが、床に叩きつけられた。
盾が、手から離れて転がっていく。
立ち上がろうとして、膝が崩れた。
背中の傷から、血が広がっていく。
ネリスの顔から、色が消えた。
あの日と、同じ角度だった。
「させない」
ミラが、スルとミノタウロスのあいだに滑り込んだ。
丸盾で斧を受け、ロングソードで角を払う。
「完全治癒!」
ミラの光が、スルの背中を包んだ。
裂けた肉が塞がり、血が止まる。
スルが、大きく息を吸った。
「……助かった」
「倒れないって、言ったでしょ」
ミラの声が、少しだけ震えていた。
スルは盾を拾い上げ、もう一度立った。
「滅却光!」
ワングの声が響いた。
細い光が、膝をついていた右の一体の胸を貫く。
ノリアの雷で焼けていた体が、そこから崩れ始めた。
大斧が床に落ちる。
一体目が、光の粒になって消えていった。
「一つ!」
カインが叫ぶ。
だが、残る二体は、仲間が消えたことに怯みもしない。
左の一体が、今度はノリアへ向かった。
ノリアは、もう跳べない。
走ることもできない。
杖を胸に抱えたまま、その場に立ち尽くしていた。
「癒しの波!」
カインが、ノリアへ光を投げる。
わずかでも、足に力が戻るように。
「ララ!」
「守護の盾」
ララの壁が、ノリアの前に立ち上がった。
斧が、壁を叩く。
一撃目で、ひびが入った。
二撃目で、半分が崩れた。
「ノリア、撃て!」
カインの声に、ノリアが目を閉じた。
残りの魔力を、ありったけ練る。
輪郭をなぞる時間も、もうない。
「業炎獄!」
炎の柱が、至近距離からミノタウロスを包んだ。
熱風に押され、ノリア自身も後ろへ尻もちをつく。
「業炎獄」
ララが、同じ炎を重ねた。
二つの炎の中で、巨体がよろめく。
それでも、まだ斧を振り上げようとしていた。
「しぶとすぎる!」
ネリスが、その背中に飛びついた。
爪と短刀を、首の付け根へ突き立てる。
ミノタウロスが吠え、体を大きく振った。
ネリスは振り落とされまいと、角にしがみつく。
「スル!」
呼ばれるより先に、スルは動いていた。
腰の短剣を抜く。
ネリスが角を引き、ミノタウロスの顎が上を向く。
がら空きになった喉元へ、スルの短剣がまっすぐ吸い込まれた。
昔から、そういう役割だった。
ネリスが誘い、スルが仕留める。
二体目の巨体が、ゆっくりと傾いた。
床に倒れるより早く、光になってほどけていく。
「二つ」
ネリスが、肩で息をしながら着地した。
短刀を握る手が、小刻みに震えている。
「……大丈夫か」
スルが、低く聞いた。
「大丈夫。スルこそ」
ネリスは、兄の背中の、塞がったばかりの傷跡から目を逸らした。
残る一体。
最初にスルが受け止めた、真ん中の一体だった。
仲間を失ったミノタウロスは、低く、長く吠えた。
部屋の空気が、びりびりと震える。
斧の振りが、明らかに速くなった。
「怒っておるでござるな」
ワングが、斬り結びながら呟く。
「こっちも、怒ってる」
スルが、盾で斧を受け流した。
受けて、流して、また受ける。
一撃ごとに、盾の軋みが大きくなっていく。
縁の金具が一つ、弾け飛んだ。
「持つか、スル」
カインが叫ぶ。
「持たせる」
答えは、それだけだった。
「雷殺!」
カインが唱えた。
「雷殺!」
ワングも重ねる。
二本の雷が、ミノタウロスの両肩で弾けた。
巨体が、わずかに沈む。
「今でござる!」
ワングが踏み込んだ。
村雨で斧の柄を押さえ込み、氷姫を幻の右手で下から走らせる。
刃が、厚い胸板を斜めに裂いた。
「もう一つ!」
カインが、反対側から剣を突き出す。
狙いは、ワングの裂いた傷口だった。
切っ先が、深く沈む。
手応えがあった。
ミノタウロスの動きが、止まった。
斧が、指のあいだから滑り落ちる。
巨体が膝をつき、角が床に触れた。
やがて、その輪郭が静かに崩れていった。
部屋に、六人の荒い息だけが残った。
カインは剣を杖にして、なんとか立っていた。
ノリアは尻もちをついたまま、動けない。
ワングの肩当ては、片側がなくなっている。
ララは杖を下ろし、カインを振り返って小さく頷いた。
スルが、ぼろぼろになった盾を見下ろした。
それから、隣のネリスを見る。
ネリスも、スルを見ていた。
何も言わなかった。
言わなくても、わかった。
「……三つ、でござるな」
ワングが、ようやく口を開いた。
「今度こそ、終わり?」
ミラが、祈るように呟く。
そのとき、ネリスの耳が、ぴくりと動いた。
部屋の奥を振り返る。
「え!」
消えたはずの靄が、また集まり始めていた。
さっきより、濃い。
さっきより、速い。
白い渦の中で、次の影が、もう形を結びかけていた。




