第197話「最後の扉、後ろの一人」
そろそろ五層クライマックスです。
お楽しみいただければ幸いです。
ミーは、六人が支度を終えるまで、寝台の端で丸くなったまま一度も目を開けなかった。
「本当に、これと殴り合ったのかな」
ネリスが小声で言い、子猫の背中をそっとつつく。
しっぽが一度だけ揺れて、それきりだった。
「起こすな。噛まれるぞ」
カインが苦笑しながら剣帯を締めた。
六つ目の試練を越えてから、ヘクサインで一晩。
呪文の使用回数は、全員そろって元に戻っている。
残る扉は、あと一つだった。
五層の白い道を抜けると、見慣れた扉が待っていた。
刻まれた文字は、これまでと少しだけ書き出しが違う。
「七つの試練。最後の恩恵」
その下に、もう一行。
「試練を越えし者、ズールへの扉、開かれん」
しばらく、誰も口を開かなかった。
「……ズール」
ノリアが、その名をそっと口の中で転がす。
「エランド殿が言っていた、あれでござるな」
ワングが低く言った。
潜った途端に消え失せる、目覚めぬ迷宮。
そこへ挑むための、七段階の修行。
その最後の一段が、この扉の向こうにある。
「怖い?」
ミラがノリアの横顔をうかがう。
「怖くない、って言ったら嘘になる」
ノリアは杖を握り直した。
「でも、ここで止まるほうが、もっと嫌」
「なら、行くしかないな」
カインが皆を見回した。
「いつも通りだ。開けたら、すぐ固める」
「承知」
ワングが扉に手をかける。
音もなく扉が開いた。
「封癒」
「反跳結界」
「守護の盾!」
ノリア、ミラ、ワングの声が重なる。
「ゴーレム!」
カインの印から、岩の巨体が立ち上がった。
部屋の奥には、白い靄が溜まっていた。
靄の中で、何かが少しずつ形を結んでいく。
最初は、ぼんやりとした四つの影。
やがて、肩の線が見えた。
腕が見えた。
握られた得物が、鈍く光った。
人型だった。
前に三人。
一人は身の丈ほどの大剣を担ぎ、一人は長い槍を低く構え、一人は両手に手斧を提げている。
その三人から十歩ほど下がったところに、四人目が立っていた。
ローブの裾が、床すれすれで揺れている。
手にしているのは、細い杖が一本だけ。
顔は、四人とも靄に沈んだまま見えない。
そのときだった。
『後ろの一人を倒せば、終わり』
六人の頭の中に、声が響いた。
「……聞こえた?」
ネリスが耳をぴんと立てる。
「聞こえた」
スルが盾を構えたまま頷いた。
「親切でござるな。最後の最後に」
ワングが目を細める。
「親切なうちに、終わらせよう」
カインが剣を抜いた。
「狙いは後ろのローブだ。前の三人は、抜けるための壁だと思え」
言い終わるより早く、ローブの杖が動いた。
詠唱は短い。
ローブの前に、淡い光の膜が一枚広がる。
続けて、もう一枚。
さらに、もう一枚。
「重ねてる……!」
ミラが息を呑んだ。
膜は三枚、四枚と、玉ねぎの皮のように厚みを増していく。
「張り終わる前に、崩す」
ノリアが杖を突き出した。
「雷殺!」
白い雷がまっすぐ走る。
一枚目の膜が、音を立てて砕けた。
二枚目で、雷は火花になって散った。
「一枚、だけ……」
ノリアが唇を噛む。
その間にも、前の三人が床を蹴っていた。
速い。
三人とも、迷いなく同じ方向へ走る。
スルでも、ワングでもない。
ノリアだった。
「ノリア!」
スルが真横から盾をねじ込む。
大剣が盾を叩いた。
重い音とともに、スルの足が床を削って滑る。
その脇を、槍の穂先がすり抜けた。
「させぬでござる!」
ワングの村雨が、槍を下から撥ね上げる。
手斧の男が、ゴーレムの腕の下をくぐった。
「ネリス、右!」
カインが叫ぶ。
ネリスの爪が、手斧を横から弾いた。
弾かれた斧が、ノリアの頬のすぐ横を通り過ぎる。
髪が数本、はらりと落ちた。
「……私、狙われてる?」
ノリアの声が、わずかに上ずる。
「みたいだね。加護の盾!」
ミラの光が、ノリアの前に小さな盾を結んだ。
直後、槍の二撃目がその盾に突き刺さる。
盾は一撃で砕けた。
だが、穂先はノリアの胸の手前で止まっていた。
「助かった」
「お礼はあと!」
ミラが次の詠唱に入る。
ローブの杖が、また動いた。
膜が一枚増える。
「きりがないでござるな」
ワングが槍を押し返しながら吐き捨てた。
「ララ!」
カインが印を組む。
光の中から、エルフの魔法使いが姿を現した。
ララはひと目で状況を読み取り、杖をローブへ向ける。
「「業炎獄!」」
ララとノリアの声が重なった。
二つの炎の海が、ローブを呑み込む。
膜が一枚、二枚と、弾けるように割れていく。
三枚目で、炎が止まった。
炎が引いたあと、ローブは何事もなかったように杖を掲げていた。
膜が、また一枚。
「張り直すほうが、速いってこと?」
ネリスが歯噛みする。
「削る速さを、上げるしかない」
カインが叫んだ。
「前の三人を押さえろ! 呪文は、全部後ろへ!」
「承知!」
ワングが大剣の男の前に回り込んだ。
村雨で受け、幻の右手の氷姫で返す。
大剣が、ワングの肩当てを削っていく。
スルは槍の男を盾で押し込み、ゴーレムが手斧の男に組みついた。
三人とも、押さえ込まれながら、目だけはノリアを追っている。
隙あらば、ノリアへ。
その執念が、刃の一振りごとに伝わってきた。
「雷殺!」
ワングが斬り結びながら雷を放つ。
膜が一枚砕けた。
「雷殺!」
カインも続く。
もう一枚。
「業炎獄!」
ノリアの炎が、残りの膜をまとめて焼いた。
三枚が、立て続けに割れる。
ローブの前に残ったのは、あと一枚だけだった。
「今!」
ネリスが走った。
手斧の男の肩を踏み台にして跳ぶ。
その足首を、斧の刃がかすめた。
ネリスの体が、空中で傾く。
着地しきれず、床を転がった。
「ネリス!」
スルの声が裂ける。
ローブの杖が、ネリスへ向いた。
光の礫が、転がったネリスへ降りかかる。
「守護の盾!」
カインが咄嗟に唱えた。
光の壁が、ぎりぎりでネリスを覆う。
礫が壁を叩いて散った。
「癒しの波!」
ミラの光が、ネリスの足首の傷を塞ぐ。
ネリスは跳ね起きたが、ローブとの間には、もう新しい膜が二枚重なっていた。
「……振り出しに、近いね」
ミラが肩で息をする。
攻防は、そこから長く続いた。
削る。
張られる。
また削る。
前の三人は、何度押さえ込まれても、そのたびにノリアへ向かってきた。
大剣の一撃がスルの盾を跳ね上げ、槍がスルの脇腹を裂く。
「浄光!」
カインが唱え、傷口に光を押し当てる。
「群癒!」
ミラの光が、六人全員を包んだ。
ワングの頬に、また新しい傷が走る。
ゴーレムの腕が片方、肘から先を失った。
ララの詠唱が、次第に途切れがちになる。
「守りの聖歌!」
ミラが壁を重ねる。
「守護の盾!」
ワングも重ねる。
壁が割れるたびに、誰かが張り直した。
呪文の残りを、数える暇もない。
いや、数えたくなかった。
「ノリア、残りは」
カインが叫ぶ。
「……業炎獄、あと少し。雷殺も、あと少し」
「私、大群癒なら一回はいける」
ミラが続けた。
「拙者、第六階梯は、まだ手つかずでござる」
ワングが大剣を弾きながら言った。
カインの目が、わずかに光る。
「滅却光か」
「防御を無視する光でござるな」
「膜ごと、抜けるかもしれない」
ノリアが杖を構え直した。
「なら、道は私が作る。最後の一枚まで、剥がす」
「大群癒!」
ミラの光が、部屋いっぱいに満ちた。
スルの脇腹の傷が閉じ、ゴーレムの体のひびまで、わずかに浅くなる。
六人の呼吸が、一瞬だけ揃った。
「行くぞ!」
カインの号令で、スルとゴーレムが大剣と手斧を同時に押し込む。
ワングの前には、槍の男だけが残った。
ネリスが、その槍の柄に飛びついた。
全身の重みで、穂先を床へ押しつける。
「今のうち!」
ネリスの声に、ノリアが杖を掲げた。
目を閉じる。
魔力の輪郭を、ゆっくりとなぞる。
練る。
もっと、練る。
「業炎獄!」
これまでで一番白い炎が、ローブへ走った。
膜が一枚、二枚、三枚。
紙のように燃えて、剥がれ落ちる。
最後の一枚が赤く焼けて、ひび割れた。
「滅却光!」
ワングの声とともに、細く鋭い光が放たれた。
光は、ひび割れた膜を、まるでそこに何もないかのように素通りした。
ローブの胸を、まっすぐ貫く。
杖が、手から滑り落ちた。
乾いた音が、床に響く。
ローブの輪郭が、ゆっくりとほどけていった。
同時に、前の三人の動きも止まる。
大剣が、槍が、手斧が、光の粒になって崩れていく。
靄が、薄れていった。
「……終わった、か」
カインが剣を下ろした。
膝が笑っている。
「終わった、でござるな」
ワングが村雨を杖代わりにして、体を支えた。
ララの姿が、ふっと光に溶けて消える。
ゴーレムも片腕のまま、静かに膝をついた。
ノリアは、その場にぺたりと座り込んでいた。
「もう、ほとんど、残ってない……」
「私も。癒しの波が、あと少しだけ」
ミラが、ロングソードに寄りかかる。
「最後の恩恵って、何だろうね」
ネリスが、耳を伏せたまま笑った。
誰も答えなかった。
代わりに、スルが盾を持ち上げた。
「……まだだ」
短い一言だった。
部屋の奥で、消えたはずの白い靄が、また濃くなり始めていた。
渦を巻くように。
何かを呼び寄せるように。
靄の中で、新しい影がゆっくりと形を結びつつあった。
頭の中には、もう何の声も響かなかった。
いかがでしょうか?
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