第166話「折れた氷姫、遺された太刀」
八行目を越えた先に、九つ目の扉があった。
壁に、文字が浮かんでいる。
「剣を頼まぬ者は阻まれ、剣のみを頼む者は迎える。」
カインがそれを読み上げた。
「剣を頼まぬ者は阻まれ、剣のみを頼む者は迎える……」
「また、人を選ぶ気でござるな」
ワングが低く呟く。
「でも、誰なのかまでは書いてない」
ミラが眉を寄せた。
「毎回そうだ」
ネリスが肩をすくめる。
「わかるのは、扉の前に立ってから」
「なら、まず俺が」
カインが一歩、扉に近づいた。
その瞬間、見えない壁に押し返されたように、体がよろめく。
「うおっ……!」
「カイン!」
ミラが駆け寄った。
「平気、平気。ただ、弾かれただけだ」
カインが苦笑いしながら体勢を立て直す。
(俺じゃ、駄目、か)
内心で呟いた言葉は、誰にも聞こえなかった。
「拙者が、行くでござる」
ワングが静かに前へ出る。
扉に触れた。
今度は、何の抵抗もなかった。
「……やっぱり、でござるか」
ワングが、小さく息を吐く。
「剣のみを頼む者、って」
ノリアがワングを見た。
「拙者は、魔法も使うでござるが」
「でも、あんたの根っこは、剣でしょ」
ネリスが言い切る。
「拙者の、根っこ」
ワングが、その言葉をゆっくり噛みしめるように繰り返した。
「ワング」
カインが声をかける。
「一人で、大丈夫か」
「わからぬでござる」
ワングが正直に答えた。
「だが、行かねばならぬのなら、行くまで」
「無理は、絶対にしないで」
ミラの声が硬い。
「傷を負ったら、すぐに戻ってきて。呪文が届くかどうかは、わからないけど」
「承知した」
「あたしも、外で耳だけは澄ませとく」
ノリアが、扉に手を添えた。
「もし、聞こえたら」
「聞こえたら?」
「杖振り回して、無理やりにでも押し入ってやる」
「頼もしいでござるな」
ワングが、少しだけ表情を緩めた。
その笑みに、いくらか肩の力が抜けたのが、皆にもわかった。
「昔から、ワングはこういう時、聞かないけどな」
ネリスが小さく笑う。
「否定はしないでござる」
ワングも、口の端をわずかに上げた。
スルが、黙って一歩、扉のそばへ寄る。
「気をつけて」
短く、それだけ言った。
「かたじけない」
ワングが頷く。
「行ってくる」
短く言って、扉に手をかけた。
扉が、音もなく開く。
「拙者は、必ず戻るでござる」
その言葉を最後に、扉は静かに閉じた。
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石の広間だった。
天井は高く、松明の灯りが壁に長い影を落としている。
その中央に、人影があった。
黒い甲冑をまとい、片手に抜き身の刀を提げている。
顔は兜の奥に沈んで、見えない。
ワングは、氷姫を左手に構えた。
「参る」
短く告げて、間合いを詰める。
人影も、無言のまま刀を構えた。
打ち合いは、一瞬だった。
刃と刃がぶつかり、火花が散る。
「ぬっ……!」
弾かれ、二人は同時に飛び退いた。
再び、構え直す。
数合。
また数合。
そのたびに、刃が触れ合う音だけが広間に響いた。
足の運びは、軽い。
無駄がない。
床を蹴る音すら、ほとんど聞こえなかった。
汗が、ワングの額を伝う。
だが、決定打はどちらにも入らない。
一撃ごとに、腕の芯が痺れていく。
それでも、ワングは退かなかった。
一度、大きく間合いが空いた。
呼吸を整えながら、ワングは相手の太刀筋を、じっと見つめた。
(この、太刀の運び)
覚えがあった。
はっきりと、覚えがあった。
若い頃、幾度となく見取り稽古をした、あの型。
「……まさか」
喉から、掠れた声が漏れる。
(これこそ、あの太刀筋)
(エアにて、何かに取り込まれ、魔物となったか)
(ならば、我が倒すのが……供養か)
答えは、出なかった。
出せるはずもなかった。
若き日、共に稽古をした相手の顔を、ワングは思い出そうとする。
だが、輪郭は霞んだまま、像を結ばなかった。
名すら、思い出せない。
ただ、目の前の刃は、本物だった。
「拙者は」
構えを、崩さぬまま呟く。
「貴殿が誰であろうと、ここでは、退けぬでござる」
人影は、答えなかった。
ただ、刀を握り直す気配だけが、確かに伝わってくる。
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再び、間合いが詰まる。
だが、どちらも動かない。
互いに、隙を探っている。
呼吸の音さえ、憚られるほどの静けさだった。
松明の炎が、揺れる。
ワングは、氷姫を静かに掲げた。
「先の後は、困難でござるな」
小さく、独り言のように呟く。
「ならば、後の先を……何とか」
先に仕掛ければ、隙を突かれる。
後手に回れば、そのまま押し切られる。
残された道は、ただ一つ。
相手の一撃を受けきり、その裏をかく。
耐えた。
ただ、耐えた。
腕が、痺れかけている。
汗が、目に染みる。
それでも、動かなかった。
胸の内で、幾度も呼吸を数える。
先に、しびれを切らしたのは、相手だった。
わずかに、重心が前へ傾く。
刀が、大きく振り上げられた。
袈裟懸けだった。
風を切る音が、耳元まで迫る。
「今……!」
失った右手の先、仕込まれた刃が閃いた。
振り下ろされた太刀を、斜めに受け流す。
太刀筋が、逸れる。
同時に、幻の右手が相手の袖を掴んだ。
独立して動く、もう一つの手だった。
見えない指が、確かに袖を捉えている。
相手の体が、わずかに崩れる。
その一瞬。
ワングの左手、氷姫が、走った。
敵の胴へ、深く。
「ガツン!」
鈍い音が、広間に響いた。
氷姫が、根元から折れる。
刃が、床に転がった。
敵の体が、内側から光を帯びていく。
甲冑の隙間から、光が漏れ出した。
輪郭が崩れ、光の粒子となって、消えていった。
最後まで、兜の奥の顔は、見えなかった。
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広間に、静寂が戻った。
ワングは、折れた氷姫の柄を、じっと見つめる。
「……よく、耐えてくれたでござるな」
刃を失った柄に、そっと語りかけた。
床に、何かが落ちている。
もう一本の、刀だった。
拾い上げる。
鞘は古く、それでいて、傷一つない刃だった。
「真贋の瞳」
低く唱える。
淡い光が、刀身を撫でた。
浮かび上がった文字を、ワングは読んだ。
「銘刀、村雨」
その名を、口の中で繰り返す。
「村雨……」
聞き覚えのある名だった。
だが、なぜ覚えているのか、自分でもわからない。
記憶の底を探っても、霧がかかったように、何も浮かんでこなかった。
折れた氷姫と、名も知れぬ刀。
両方を手に、ワングはしばらく、その場に立ち尽くしていた。
「拙者は、何を斬ったのでござろうな」
誰もいない広間に、その問いだけが、いつまでも静かに残っていた。
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扉が、再び開いた。
「ワング!」
真っ先に駆け寄ったのは、ミラだった。
「怪我は」
「かすり傷一つ、ないでござる」
ワングが、両手の得物を掲げてみせる。
「一応、浄光かけとく」
ミラが、確かめるように光を灯した。
淡い光がワングの体を包み、すぐに消える。
傷らしい傷は、どこにもなかった。
「でも、氷姫が……」
折れた刃に気づいて、息を呑む。
「役目を、果たしてくれたでござる」
ワングが、静かに答えた。
「なら、良かった、のか」
カインが、ワングの顔を覗き込む。
「あんまり、そう見えないけど」
「……見えぬでござるか」
ワングが、力なく笑った。
「向こうの太刀筋、拙者が若い頃、目標にしていた誰かと、同じだったでござる」
その一言に、その場の空気が変わった。
「じゃあ、あれは」
ネリスが、言いかけて止める。
「わからぬ」
ワングが、遮るように言った。
「わからぬまま、でよいでござる。今は」
誰も、それ以上は聞かなかった。
ノリアが、拾われた刀に目をやる。
「村雨、って言った?」
「銘刀、村雨。真贋の瞳で、確かめたでござる」
「見せて」
ノリアが、刀を覗き込んだ。
「綺麗な刃。あんたの氷姫より、よっぽど上等かも」
「無神経でござるぞ、それは」
ワングが、思わず苦笑する。
「でも、まあ。使ってやってもいい、と思ってるでござる」
刀身を、灯りにかざしてみる。
氷姫とは違う、静かな輝きだった。
折れた氷姫を、大事そうに懐へしまった。
「一度、フォージタウンで、ダダに見せた方がよさそうだ」
カインが言う。
「氷姫の方も、直せるものなら、直したいでござる」
「直せるかどうかは、あいつ次第だな」
カインが、ワングの肩を軽く叩いた。
「とにかく、お疲れ。よく、一人で頑張った」
「頑張った、というよりは」
ワングが、遠くを見るような目をする。
「向き合った、というのが、近いでござる」
その言葉に、誰も何も返さなかった。
ただ、スルが一歩、ワングの隣に並ぶ。
「俺も、似たようなことが、あった」
短く、それだけ言った。
「だから、少しだけ、わかる」
「かたじけない、スル殿」
ワングが、頭を下げる。
カインは、それ以上、何も聞かなかった。
代わりに、ワングの背に、そっと手を置く。
「一人で行かせて、悪かったな」
「拙者が、選ばれたまでのこと」
ワングが、首を振った。
「気に病む必要は、ないでござる」
「それでも、だ」
カインが、短く言った。
その一言だけで、十分だった。
九行目の板には、まだ淡い光が残っていた。
十行目が、どんな姿を見せるのかは、この時はまだ、誰にもわからなかった。




