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『マラン、はじまりの迷宮』〜わからないことばかりの、迷宮攻略記〜  作者: 奇木 尋
第五部 迷宮エア編 四層

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第166話「折れた氷姫、遺された太刀」

八行目を越えた先に、九つ目の扉があった。

壁に、文字が浮かんでいる。

「剣を頼まぬ者は阻まれ、剣のみを頼む者は迎える。」

カインがそれを読み上げた。

「剣を頼まぬ者は阻まれ、剣のみを頼む者は迎える……」

「また、人を選ぶ気でござるな」

ワングが低く呟く。

「でも、誰なのかまでは書いてない」

ミラが眉を寄せた。

「毎回そうだ」

ネリスが肩をすくめる。

「わかるのは、扉の前に立ってから」

「なら、まず俺が」

カインが一歩、扉に近づいた。

その瞬間、見えない壁に押し返されたように、体がよろめく。

「うおっ……!」

「カイン!」

ミラが駆け寄った。

「平気、平気。ただ、弾かれただけだ」

カインが苦笑いしながら体勢を立て直す。

(俺じゃ、駄目、か)

内心で呟いた言葉は、誰にも聞こえなかった。

「拙者が、行くでござる」

ワングが静かに前へ出る。

扉に触れた。

今度は、何の抵抗もなかった。

「……やっぱり、でござるか」

ワングが、小さく息を吐く。

「剣のみを頼む者、って」

ノリアがワングを見た。

「拙者は、魔法も使うでござるが」

「でも、あんたの根っこは、剣でしょ」

ネリスが言い切る。

「拙者の、根っこ」

ワングが、その言葉をゆっくり噛みしめるように繰り返した。

「ワング」

カインが声をかける。

「一人で、大丈夫か」

「わからぬでござる」

ワングが正直に答えた。

「だが、行かねばならぬのなら、行くまで」

「無理は、絶対にしないで」

ミラの声が硬い。

「傷を負ったら、すぐに戻ってきて。呪文が届くかどうかは、わからないけど」

「承知した」

「あたしも、外で耳だけは澄ませとく」

ノリアが、扉に手を添えた。

「もし、聞こえたら」

「聞こえたら?」

「杖振り回して、無理やりにでも押し入ってやる」

「頼もしいでござるな」

ワングが、少しだけ表情を緩めた。

その笑みに、いくらか肩の力が抜けたのが、皆にもわかった。

「昔から、ワングはこういう時、聞かないけどな」

ネリスが小さく笑う。

「否定はしないでござる」

ワングも、口の端をわずかに上げた。

スルが、黙って一歩、扉のそばへ寄る。

「気をつけて」

短く、それだけ言った。

「かたじけない」

ワングが頷く。

「行ってくる」

短く言って、扉に手をかけた。

扉が、音もなく開く。

「拙者は、必ず戻るでござる」

その言葉を最後に、扉は静かに閉じた。

---

石の広間だった。

天井は高く、松明の灯りが壁に長い影を落としている。

その中央に、人影があった。

黒い甲冑をまとい、片手に抜き身の刀を提げている。

顔は兜の奥に沈んで、見えない。

ワングは、氷姫を左手に構えた。

「参る」

短く告げて、間合いを詰める。

人影も、無言のまま刀を構えた。

打ち合いは、一瞬だった。

刃と刃がぶつかり、火花が散る。

「ぬっ……!」

弾かれ、二人は同時に飛び退いた。

再び、構え直す。

数合。

また数合。

そのたびに、刃が触れ合う音だけが広間に響いた。

足の運びは、軽い。

無駄がない。

床を蹴る音すら、ほとんど聞こえなかった。

汗が、ワングの額を伝う。

だが、決定打はどちらにも入らない。

一撃ごとに、腕の芯が痺れていく。

それでも、ワングは退かなかった。

一度、大きく間合いが空いた。

呼吸を整えながら、ワングは相手の太刀筋を、じっと見つめた。

(この、太刀の運び)

覚えがあった。

はっきりと、覚えがあった。

若い頃、幾度となく見取り稽古をした、あの型。

「……まさか」

喉から、掠れた声が漏れる。

(これこそ、あの太刀筋)

(エアにて、何かに取り込まれ、魔物となったか)

(ならば、我が倒すのが……供養か)

答えは、出なかった。

出せるはずもなかった。

若き日、共に稽古をした相手の顔を、ワングは思い出そうとする。

だが、輪郭は霞んだまま、像を結ばなかった。

名すら、思い出せない。

ただ、目の前の刃は、本物だった。

「拙者は」

構えを、崩さぬまま呟く。

「貴殿が誰であろうと、ここでは、退けぬでござる」

人影は、答えなかった。

ただ、刀を握り直す気配だけが、確かに伝わってくる。

---

再び、間合いが詰まる。

だが、どちらも動かない。

互いに、隙を探っている。

呼吸の音さえ、憚られるほどの静けさだった。

松明の炎が、揺れる。

ワングは、氷姫を静かに掲げた。

「先の後は、困難でござるな」

小さく、独り言のように呟く。

「ならば、後の先を……何とか」

先に仕掛ければ、隙を突かれる。

後手に回れば、そのまま押し切られる。

残された道は、ただ一つ。

相手の一撃を受けきり、その裏をかく。

耐えた。

ただ、耐えた。

腕が、痺れかけている。

汗が、目に染みる。

それでも、動かなかった。

胸の内で、幾度も呼吸を数える。

先に、しびれを切らしたのは、相手だった。

わずかに、重心が前へ傾く。

刀が、大きく振り上げられた。

袈裟懸けだった。

風を切る音が、耳元まで迫る。

「今……!」

失った右手の先、仕込まれた刃が閃いた。

振り下ろされた太刀を、斜めに受け流す。

太刀筋が、逸れる。

同時に、幻の右手が相手の袖を掴んだ。

独立して動く、もう一つの手だった。

見えない指が、確かに袖を捉えている。

相手の体が、わずかに崩れる。

その一瞬。

ワングの左手、氷姫が、走った。

敵の胴へ、深く。

「ガツン!」

鈍い音が、広間に響いた。

氷姫が、根元から折れる。

刃が、床に転がった。

敵の体が、内側から光を帯びていく。

甲冑の隙間から、光が漏れ出した。

輪郭が崩れ、光の粒子となって、消えていった。

最後まで、兜の奥の顔は、見えなかった。

---

広間に、静寂が戻った。

ワングは、折れた氷姫の柄を、じっと見つめる。

「……よく、耐えてくれたでござるな」

刃を失った柄に、そっと語りかけた。

床に、何かが落ちている。

もう一本の、刀だった。

拾い上げる。

鞘は古く、それでいて、傷一つない刃だった。

「真贋の瞳」

低く唱える。

淡い光が、刀身を撫でた。

浮かび上がった文字を、ワングは読んだ。

「銘刀、村雨」

その名を、口の中で繰り返す。

「村雨……」

聞き覚えのある名だった。

だが、なぜ覚えているのか、自分でもわからない。

記憶の底を探っても、霧がかかったように、何も浮かんでこなかった。

折れた氷姫と、名も知れぬ刀。

両方を手に、ワングはしばらく、その場に立ち尽くしていた。

「拙者は、何を斬ったのでござろうな」

誰もいない広間に、その問いだけが、いつまでも静かに残っていた。

---

扉が、再び開いた。

「ワング!」

真っ先に駆け寄ったのは、ミラだった。

「怪我は」

「かすり傷一つ、ないでござる」

ワングが、両手の得物を掲げてみせる。

「一応、浄光かけとく」

ミラが、確かめるように光を灯した。

淡い光がワングの体を包み、すぐに消える。

傷らしい傷は、どこにもなかった。

「でも、氷姫が……」

折れた刃に気づいて、息を呑む。

「役目を、果たしてくれたでござる」

ワングが、静かに答えた。

「なら、良かった、のか」

カインが、ワングの顔を覗き込む。

「あんまり、そう見えないけど」

「……見えぬでござるか」

ワングが、力なく笑った。

「向こうの太刀筋、拙者が若い頃、目標にしていた誰かと、同じだったでござる」

その一言に、その場の空気が変わった。

「じゃあ、あれは」

ネリスが、言いかけて止める。

「わからぬ」

ワングが、遮るように言った。

「わからぬまま、でよいでござる。今は」

誰も、それ以上は聞かなかった。

ノリアが、拾われた刀に目をやる。

「村雨、って言った?」

「銘刀、村雨。真贋の瞳で、確かめたでござる」

「見せて」

ノリアが、刀を覗き込んだ。

「綺麗な刃。あんたの氷姫より、よっぽど上等かも」

「無神経でござるぞ、それは」

ワングが、思わず苦笑する。

「でも、まあ。使ってやってもいい、と思ってるでござる」

刀身を、灯りにかざしてみる。

氷姫とは違う、静かな輝きだった。

折れた氷姫を、大事そうに懐へしまった。

「一度、フォージタウンで、ダダに見せた方がよさそうだ」

カインが言う。

「氷姫の方も、直せるものなら、直したいでござる」

「直せるかどうかは、あいつ次第だな」

カインが、ワングの肩を軽く叩いた。

「とにかく、お疲れ。よく、一人で頑張った」

「頑張った、というよりは」

ワングが、遠くを見るような目をする。

「向き合った、というのが、近いでござる」

その言葉に、誰も何も返さなかった。

ただ、スルが一歩、ワングの隣に並ぶ。

「俺も、似たようなことが、あった」

短く、それだけ言った。

「だから、少しだけ、わかる」

「かたじけない、スル殿」

ワングが、頭を下げる。

カインは、それ以上、何も聞かなかった。

代わりに、ワングの背に、そっと手を置く。

「一人で行かせて、悪かったな」

「拙者が、選ばれたまでのこと」

ワングが、首を振った。

「気に病む必要は、ないでござる」

「それでも、だ」

カインが、短く言った。

その一言だけで、十分だった。

九行目の板には、まだ淡い光が残っていた。

十行目が、どんな姿を見せるのかは、この時はまだ、誰にもわからなかった。

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