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『マラン、はじまりの迷宮』〜わからないことばかりの、迷宮攻略記〜  作者: 奇木 尋
閑話 その三

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第154話 閑話「取り戻す声、誓う盾」スル

マランの世界、連日投稿してます。

毎日2話投稿中です。


祝いの席がお開きになっても、スルは眠れなかった。

ヘクサインの窓から、月の光が差し込んでいる。

体を横たえても、目だけが冴えていた。

そっと部屋を出る。

石畳を歩く音が、やけに大きく響いた。

フォージタウンの方角に、灯りがひとつ見えた。

近づくと、鍛冶の音がしていた。

窓の隙間から、そっと覗く。

ダダが槌を振るっていた。

台の上にあるのは、まだ半分ほどの形をした盾だった。

自分のための物だと、すぐにわかった。

サイズが、ダダのものではない。

声をかけようとして、やめた。

今は、そっとしておきたい気がした。

背を向け、静かに歩き出す。

胸の中に、名前のつかない熱が、じわりと広がっていた。

---

正式に、パーティの一員になった。

その事実が、まだ、うまく飲み込めずにいる。

書類に自分の名前が記された瞬間のことを、何度も思い出す。

嬉しい、という言葉だけでは足りない気がした。

もっと重くて、もっと、頼りない何かだった。

自分に、その資格があるのか。

そう思う瞬間が、正直に言えば、今でもある。

蘇生した夜のことを、スルはよく覚えている。

目を開けた瞬間、真っ先に聞こえたのは、ミラの声だった。

「よかった……!」

その声が、震えていたことを覚えている。

次に見えたのは、ネリスの顔だった。

涙で、ぐしゃぐしゃになっていた。

「兄さん」

その一言だけで、何もかもが、押し寄せてきた。

自分が誰なのか。

何をしていたのか。

思い出そうとするたびに、頭の奥に、靄がかかる。

エアの深いところで、何かに呑まれた記憶がある。

痛みだったのか、それとも、他の何かだったのか。

今も、はっきりとはわからない。

魔物として過ごした年月の記憶は、断片でしかない。

暗い通路。

誰かの足音。

自分のものではないような、唸り声。

それが、自分の声だったのかどうかさえ、確信が持てない。

その間に、自分が何をしたのか。

誰かを、傷つけたのではないか。

考え出すと、止まらなくなる夜がある。

聞いても、誰も答えをくれない。

答えを持っている者が、そもそも、いない。

わからないまま、抱えて生きるしかないのだと、少しずつ、飲み込みつつある。

それでも、完全に飲み込めたわけではない。

夜中に、ふと目を覚ますことがある。

自分の唸り声だったかもしれない何かが、耳の奥に残っている夜だ。

そんな時は、隣の部屋から聞こえる、誰かの寝息に耳を澄ませる。

それだけで、少し、息がしやすくなる。

---

召喚モンスターとして、初めてカインの前に現れた時のことは、あまり覚えていない。

だが、「スル」と呼ばれた瞬間のことだけは、なぜか、はっきりしている。

その響きに、体の奥がかすかに震えた。

自分の名前だと、頭より先に、何かが理解していた。

蘇生した後も、その名前は変わらなかった。

「スルでいいよな」

カインに、そう確かめられた時、迷わず頷いた。

新しい名前を、望む理由がなかった。

その名前を、ずっと呼び続けてくれていたのが、他でもないカインだった。

召喚された獣として、意思も言葉も定かでなかった頃から、ずっと。

礼を言う機会は、まだ、うまく作れずにいる。

ミノタウロスとの戦いで、ネリスを庇った瞬間のことも、記憶は曖昧なままだ。

誰を庇っているのか、その時、はっきりとわかっていたわけではない。

ただ、守らなければ、という衝動だけがあった。

それが本能なのか、それとも、どこかに残っていた兄としての何かだったのか。

これも、答えは出ない。

出ないまま、今日まで来た。

---

蘇生した直後、スルはうまく話せなかった。

「ワカッタ」「ヤル」「マカセロ」。

出てくる言葉は、片言のカタカナばかりだった。

もどかしかった。

伝えたいことは、いくつもあるのに、声にならない。

そんな自分に、根気強く付き合ってくれたのが、ミラだった。

「焦らなくていい」

毎日のように、そう繰り返してくれた。

簡単な単語から、少しずつ、言葉を教え直してくれた。

「今日は、ちゃんと言えたね」

一言うまく言えるたびに、我が事のように喜んでくれた。

その根気に、何度、救われたかわからない。

ワングは、多くを語らなかった。

だが、稽古の合間、そっと武具の手入れの仕方を教えてくれた。

「言葉は、後からでも、間に合うでござる」

不器用な言い方だったが、その気遣いは、はっきりと伝わった。

ノリアは、初めて言葉を交わせるようになった日、真っ先に話しかけてくれた。

「疲れてない? 無理しなくていいから」

その気安さに、肩の力が抜けたのを覚えている。

言葉を取り戻せたのは、自分ひとりの力ではなかった。

そのことを、忘れずにいたい。

---

町の広場の噴水のふちに、腰を下ろす。

水の音が、静かに響いていた。

「やっぱり、ここにいた」

振り返ると、ネリスが立っていた。

「眠れなくて」

「私も」

ネリスが隣に座る。

しばらく、二人とも黙っていた。

「今日から、本当に、六人目だね」

ネリスがぽつりと言う。

「そうだな」

「怖い?」

不意打ちのような問いだった。

「怖い」

正直に答えた。

隠す理由が、見つからなかった。

「私も、ちょっと怖かった」

ネリスが膝を抱える。

「兄さんが、また、いなくなるんじゃないかって」

その一言に、スルは何も返せなかった。

「でも、今日、書類に名前が書かれたの見て、少し、安心した」

「安心、したのか」

「うん」

ネリスがこちらを見る。

「ちゃんと、戻ってきたんだなって」

夜風が、二人の間を通り過ぎていく。

「小さい頃、いつも、俺の後ろをついてきてたな」

スルがふと口を開いた。

「覚えてるのか」

「少しだけ」

「木登りが、得意だったって」

「そんなことまで」

ネリスが、驚いた顔をする。

「思い出せることは、少ないんだ」

スルが静かに続けた。

「でも、お前のことは、忘れなかった気がする」

「気がする、って」

「わからない。それでも、そう思う」

ネリスは、それ以上、何も聞かなかった。

ただ、隣に座り続けていた。

それだけで、十分だという気がした。

---

昼間、ダダに前衛を任せたいと言われた時のことを、思い出す。

「怖くないのか」

そう聞いたのは、自分の方だった。

ダダの答えは、正直だった。

「怖い」

その一言に、なぜか、救われた気がした。

怖くて当然のことを、怖いと言える強さがあった。

「お前の盾に、恥じないようにする」

自分でも、驚くほど、はっきりとそう言えた。

言葉にした瞬間、初めて、覚悟が固まった気がした。

自分は、モンスターだった時間を持っている。

何をしたか、わからない過去も抱えている。

それでも、この六人は、迷わず自分を、仲間として迎えてくれた。

その事実に、応える方法は、ひとつしかない。

前に立ち、盾になること。

託された分だけ、確かに返すこと。

それだけだった。

「銘は、まだ決めてない」

ダダはそうも言っていた。

「決まったら、教えてくれ」

スルが返すと、ダダは少し驚いた顔をした。

「気になるのか」

「自分の得物になるものだ。気にならないわけがない」

「そうだな」

ダダが初めて笑った。

多くを語る男ではない。

だが、その一つ一つの言葉に、嘘がないことは、もう十分にわかっていた。

---

「戻ろうか」

ネリスが立ち上がる。

「ああ」

二人並んで、ヘクサインへの道を歩いた。

フォージタウンの灯りは、まだ、消えていなかった。

「あの盾、私のと同じ模様、入れてもらおうかな」

ネリスが、灯りの方を見ながら、いたずらっぽく笑う。

「頼んでみるといい」

スルも、少しだけ、口元を緩めた。

明日には、四層に足を踏み入れる。

まだ、わからないことばかりの場所だ。

自分の過去も、魔物だった年月の記憶も、いまだに霧の向こうにある。

それでも、怖さだけではなかった。

わからないままでいい、と思えることが、少しずつ増えている。

隣を歩く妹がいて、託された盾がある。

名を呼んでくれた仲間がいて、待っていてくれた仲間がいる。

それだけで、前を向く理由としては、十分すぎるほどだった。

夜明け前の空が、少しずつ、白み始めていた。

新しい一日が、静かに、確かに始まろうとしていた。

いかがでしょうか?


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