第149話「注いだ氷、託した一投」
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ドラゴンの咆哮が広間全体を震わせた。
石の床がびりびりと鳴る。
天井から、細かな砂が音もなく降ってきた。
黒い鱗が松明の炎を鈍く映している。
広間の空気は重く沈んでいた。
どこか遠くで、水の滴る音がしていた。
六人は、決めた通りに動いた。
スルが最前列へ進み出て、両膝を軽く落とす。
いつでも動ける、低い構えだった。
「頼む」
カインが短く言う。
「わかった」
ララが杖を構え直した。
その瞳に、迷いはなかった。
離れた場所で、ドラゴンが低く唸り、二人の位置を測るように首を巡らせている。
「早く、頼む」
カインが焦りを滲ませながら言った。
「まず、拙者から」
ワングが器を受け取り、太刀を鞘に収める。
両手で器を包み込み、静かに印を組んだ。
「氷棘」
冷気が刃となって、器の中へ吸い込まれていく。
淡い光が一拍おいて灯った。
「一発」
ワングが低く数える。
二発目、三発目と、迷いのない動作で注ぎ込んでいく。
額に、薄く汗が滲んでいた。
器の表面に、うっすらと霜が張り始める。
指先がかじかむほどの冷たさだった。
「拙者の分、これで四つでござる」
ワングが器をララへ渡した。
「次は、私」
ララが静かに杖を掲げる。
見つめる先で、器がぼんやりと発光していた。
「氷結界」
ララの詠唱に合わせ、器の奥から蒼い光が滲み出す。
一発ごとに、光の輪が幾重にも重なっていった。
その傍らで、ミラが両手を組み、静かに祈りを捧げている。
言葉にならない祈りが、戦場の喧騒に紛れて消えていった。
それでも、その祈りが誰かに届いているような気がした。
その間、ドラゴンが動いた。
太い前脚が地を割るように振り下ろされる。
「危ない……!」
誰かが叫ぶ。
スルが低く身を沈め、紙一重で躱した。
爪の跡が床に深く刻まれる。
土煙が視界を一瞬だけ白く曇らせた。
「かすっただけだ。続けろ」
スルが煙の中から短く叫ぶ。
「よそ見してる場合じゃないでござるぞ!」
ワングが器から目を離さぬまま叫ぶ。
「わかってる」
カインが印を組み、氷棘を放った。
放たれた氷の刃がドラゴンの首元を掠める。
ドラゴンが体をよじり、氷を弾き飛ばした。
「浅いか……!」
カインが舌打ちする。
「動きは、単調でござる」
ワングが手元の器から目を離さずに言う。
「右、右、左の順で、狙いを変えてくる」
「わかった。読んでおく」
カインが小さく頷いた。
ドラゴンの視線がまっすぐカインを捉えた。
牙の並んだ顎が大きく開く。
「そっちを見るな……!」
カインが横っ飛びに転がった。
牙が空を噛み、火花のような音を立てる。
服の裾がわずかに裂けていた。
再び印を組み直し、二発目を叩き込んだ。
今度は肩口に突き刺さり、鈍い音を立てて砕ける。
黒い鱗に、白い霜が這うように広がった。
ドラゴンが苦しげに身をよじる。
「入った、が」
ダメージは、確かにある。
傷口から、蒸気のようなものが立ち上っていた。
だが、致命傷には程遠かった。
このままでは、押し切れない。
誰の目にも、それは今や明らかだった。
だからこそ、託した一投がすべてだった。
三発目を放つ間も、カインの足は止まらない。
ドラゴンの尾が地を薙ぐように迫った。
「跳べ……!」
スルが叫び、カインの襟を掴んで引き寄せる。
尾が二人の頭上を、唸りを上げて通り過ぎた。
風圧だけで、頬が切れそうになる。
砕けた岩の破片が雨のように降り注ぐ。
「助かった」
カインが息を切らしながら言う。
「礼は、後だ」
スルが短く答え、既に次の位置取りへ動いていた。
「まだだ」
体勢を立て直したカインが三発目の印を結ぶ。
氷棘がドラゴンの喉元を捉えた。
「三発、撃ち切ったでござるな」
ワングが器から目を離さず言った。
「これで、少しは時間を稼げる」
カインが荒い息を整える。
腕が震えていた。
三発すべてを撃ち切った反動が、遅れて全身に押し寄せてくる。
膝に、力が入らなかった。
ドラゴンが咆哮とともに、両翼を大きく広げた。
風圧が広間の空気を押し出す。
松明の炎が一斉に大きく揺れた。
「来るぞ、防御!」
ミラが叫び、杖を掲げた。
「守りの聖歌!」
温かな光が六人を包み込んでいく。
肌に、じんわりとした熱が広がった。
「俺からも、一つ」
カインが荒い呼吸のまま印を組み、鉄壁陣を唱える。
淡い障壁が、皆の輪郭に沿って浮かび上がった。
「ノリア、側面は」
「任せて」
ノリアが業火弾を構え、横から迫っていた瓦礫の欠片を撃ち落とす。
砕けた欠片が火花となって散った。
崩れかけていた足場が、それ以上崩れることはなかった。
壁際の松明が大きく揺れ、影を伸ばした。
「危なかった、ね」
ミラが額の汗を拭いながら呟く。
障壁の縁がまだかすかに震えていた。
「まだ、続く」
ノリアが次の呪文へ意識を切り替えた。
障壁越しに、ドラゴンの唸り声が低く響き続けている。
刻一刻と、時間だけが過ぎていった。
「器の方は、あとどれくらい」
ミラが叫ぶように聞く。
「もう少しでござる」
ワングの声にも、余裕は感じられなかった。
「あと少しでござる」
ワングとララの元で、光が最後の輝きを増していく。
その輝きに、ドラゴンの目が反応した。
低い唸りとともに、狙いが二人へ向く。
「まずい……!」
カインが叫んだ。
土煙を巻き上げながら、巨躯が一気に距離を詰めてきた。
ドラゴンが地を蹴って突進する。
「させるか!」
スルが真横から割り込み、肩から体当たりを浴びせた。
衝撃に、鱗が鈍い音を立てた。
巨躯がわずかにたたらを踏む。
「今のうちに……!」
カインが声を張り上げた。
「わかってる」
ワングが片手で太刀を抜き、突き出された前脚を弾き返した。
火花が散り、金属の音が響く。
巨躯が大きくのけ反る。
ドラゴンが後退し、再び距離を取った。
「助かったでござる」
「礼はいい。急げ」
スルが低く言い、再び前へ出る。
その肩口に、鉤爪の掠った跡が赤く滲んでいた。
「スル、肩……!」
ミラが叫び、駆け寄りながら浄光を放つ。
裂けた皮膚が、淡い光に包まれて塞がっていく。
「軽い。動ける」
スルが短く言い、痛みを振り払うように腕を回した。
「四発、揃った」
ワングが太刀を再び構え直す。
その額から、汗が一筋流れ落ちた。
「こちらも」
ララが静かに頷いた。
その涼しげな表情には、疲労の色がまるで見えなかった。
器の中で、冷気と蒼い輝きが渦を巻いている。
内側から、かすかな振動が伝わってきた。
表面を覆う霜の下で、光が脈打つように明滅している。
まるで、放たれる瞬間を待っているようだった。
「終わったぞ!」
ワングが叫んだ。
「スル、受け取れ!」
器が宙を舞う。
スルが片手で確実に受け止めた。
その手のひらに、器の冷たさがひたひたと染み込んでいく。
握った瞬間、器の中で光がひときわ強く瞬いた。
「ネリス、位置は!」
「もう、跳んでる」
その声は、既に頭上から聞こえた。
ネリスは、既に助走をつけていた。
爪先が床を強く蹴りつける。
ネリスが地を蹴り、ドラゴンの顔の高さまで一息に跳び上がっていた。
風が耳元で唸る。
眼下に、ドラゴンの巨躯が見えた。
落ちれば、ただでは済まない高さだと、すぐにわかった。
それでも、ネリスの目に迷いはなかった。
「行くぞ!」
スルが振り向きざま、器を大きく放り投げる。
蒼白く光る軌跡が宙に弧を描いた。
その軌道は、まっすぐネリスの手元へ伸びていった。
ドラゴンが、大きく顎を開いた。
喉の奥で、赤い光が渦を巻き始めている。
熱気が下から吹き上がってきた。
肌がじりじりと焼けるように熱い。
ブレスの、予兆だった。
ドラゴンの赤い瞳が、宙に浮くネリスの姿を捉える。
「気づかれた……!」
カインが叫んだ。
だが、もう誰にも止められなかった。
「今しかない……!」
全身の力を、腕の一点に集めていく。
ネリスが宙で器を掴み取った。
指先に、器の重みと冷たさがはっきりと伝わった。
眼下で、五人分の視線が一斉にこちらを見上げているのがわかった。
「外すな……!」
誰かの声が遠くで聞こえた気がした。
体を大きく捻り、開いたままの顎めがけて腕を振り抜く。
時間が、ほんの一瞬だけ引き延ばされたように感じられた。
風を切る鋭い音だけが、やけに鮮明に耳へ届いていた。
器が、まっすぐにドラゴンの口の中へ吸い込まれていく。
いかがでしょうか?
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