創世I-⑨
◆ ◆ ◆
ミノタウロス討伐から一週間と少しばかりが経った頃。ミルミルはスペインに戻ってきたところだった。黒を基調として、細部まで金の装飾が施された王宮の一室で、ミルミルは机に向かっていた。
怪物を倒した後の数日間、ミルミルはそのままパリに滞在していた。理由は他でもなく、ただ一人の人間と会うため。その人に宛てるための手紙を書こうと、便箋と羽根ペンに手を伸ばした……が、手を止めた。まずは禍についての情報整理をしなければならない。ミルミルは、はあ、とため息混じりに息をついて、便箋の代わりに真っ白な紙を手に取った。
各国の権力者に対しての報告は済んでいる。そして、今回戦いに加わらなかった二人にも。でも、それとは別に書いておくのだ。毎回。今回の禍の見た目、能力、態度──発していた言葉。……「二人」。言葉を思い返した時、ミルミルの眉間に少し力が込もった気がした。
ミルミルは思い出せる限りの情報をさらさらと書き連ねていった。禍を封じた後も、これを後世に残せればいい。──それだけ。
ミルミルがペンを走らせていると、扉の向こうから足音が近づいてきた。コツコツ、と軽い足取り。この歩き方をする人間を、ミルミルは知っていた。……思い知らされていた、に等しい。だから、振り返りもしないでそのままペンを走らせ続けた。
「ミルミル〜、ぼくが遊びに来たよ〜」
ふんわりとした軽やかな声と共に、遠慮もなしに扉が開かれた。一人の青年──スペイン国王──ラドが跳ねるような足取りでミルミルの方に近づいてくる。
「……何の『遊び』ですか、国王陛下」
ミルミルはラドの方に一切目を向けず、机の上の紙に視線を落としたまま静かに答えた。この男が言う「遊び」にはもう飽き飽きしていた。
「帰ってきたならさぁ、ぼくに一言言ってくれてもよかったんだよ? 誰が住まわせてあげてると思ってるの?」
ラドは後ろで手を組みながら、くすくす、と笑った。返事になっていない。ミルミルは、はあ、とさっきよりも深くため息をついた。諦めた。
「なに書いてるの〜? ……あ、禍? あの報告書ちゃんと見たよ〜。よかったね、今回も死ななくて」
ラドは笑いながら身を少し屈めて、ミルミルの机の上の紙を隣から覗き込みながら言った。「死ななくて」の主語が誰に向いているか、ミルミルは理解したくなくても理解してしまっていた。ペンを握る手に少しだけ力が込もる。
それを見て、ラドは瞳を満足そうに細めた。ぱっと身を起こして、軽く下唇を舐める。……窓の外では太陽が眩しすぎるくらいに輝いている。もう冬に近づいてきているというのに、容赦なく。
「……ぼく、今ちょっとおもしろくないんだよね〜。会議でさ、エルネがずっと笑ってたのも、二人があんまり構ってくれなかったのも。しかもあの総督、なにか言おうとしてたんだよ? あれは絶対──」
口を噤んだ。あの会議、あの瞬間。ラドの頭の中で一つ一つが鮮明に思い起こされているようだった。ミルミルはやはりラドに一切目を向けなかった。
ミルミル自身、フランス国王については別によく知っているわけではない。「二人」……というのは、おそらく教皇と皇帝のことだろう。ラドはよくあの「二人」の名前を出す。総督が何か言おうとしていた……その意図も、政治を握っているわけじゃないミルミルには分からない。ただ、ラドが浮かべているその「おもしろくなさ」だけは、正確に感じ取っていた。
「──ぼくの”オモチャ”もね、今忙しいみたいで、構ってくれないし。だから”お祭り”もできない。なんでだろうね〜」
ラドの足の爪先が軽く床を蹴った。この男にとって、「遊び相手」がいないのは大変重大なことだった。……ミルミルはそれを嫌なほど知っていた。知っていたし、その矛先がこちらに向くことに当初から苛立ちを覚えていた。……そして、それをどうにもできない自分にも。
何の反応も見せないミルミルにそろそろ本格的にご機嫌が斜めになってきたのか、ラドは口の中で舌を転がし始めた。後ろで組んでいる手の指先が空を切るように遊ぶ。
「……これだから女は。ただでさえ穢らわしいのに……」
呟くように、吐き捨てるように言った。それから、机に向かうミルミルに視線を落とした。くるりとした巻き髪がふわっと揺れる。
「……ね、”パンドラ”が開いてる間、”神託”は巡り巡ってくるんでしょ〜? じゃあさ──」
一歩、二歩。ミルミルに詰め寄って、至近距離で顔を覗き込む。切りつけるような鉛色が輝く瞳。ラドは黒の瞳孔をすっと細めて、くすり、と笑った。
「──巡らせちゃおうかな、もっと従順な女に」
囁くように。どこまでも冷たく、低い声。それから、ラドは左手を口元にあてて肩を震わせ始めた。くすくす、と軽やかな笑い声が室内に響く。その声色はただの十七歳の青年のようでいて──そこはかとなく残忍だった。
◆ ◆ ◆
一方で。
ロンドン中心部に位置する宮殿の執務室。壁には技巧を凝らした模様が描かれ、それを照らすように秋の陽が注いでいた。細かな装飾が美しく飾り立てながら、それでいて無駄のない室内で、青年──イギリス国王──ゾルは、静かに腕組みをしながら、机に向かっていた。机の上には、条文の書かれた紙が広がっている。
「『仲良く』……」
「仲良く」。あの王が発した言葉を噛んでいたのは、皇帝だけではなかった。
この条約で、フランス優位の国家間政治体制が確立した。逆に言えば、スペインが劣勢となる決め手となった。ラドは会議中ずっとくすくす笑っていたが、あの男なりに何か考えていることがあるはずだ、ということを、ゾルは正確に見極めていた。
そして、オランダ。総督は明らかにあの瞬間、意図的に言葉をすり替えた。本当に言いたかったことは、あんな安っぽい感謝ではない。断言できた。……それから、何を言いたかったのかも予想できた。
あの時、あの場でオランダを最も警戒していた人物を挙げるとしたら……皇帝だろう。だが……おそらく、まだ動きはしない。今、帝国自体が荒れている。あの男のことだ、自国と、それからローマを万全に整えてから動き出す。
スイスは、オランダ同様独立の承認を得た。あの国は戦争の時もそうだが、中立を維持しようとする傾向がある。その意図はまだ汲み取れきれてはいないが、他の国と比べればまだ大きな脅威にはならないだろう。だが、油断はしてはいけない。
「……さて、どこから手をつけるか、だな」
ゾルは息を吐くように独り言ちながら、窓の方に目をやった。頭の後ろで片腕を組み、窓枠の上で器用に眠っている青年。ゾルはこの男を定期的に自分の元に呼び寄せていた。というのも、この男に礼儀作法を叩き込むため。……まあ、今見えている光景がその結果である。
「……おい、いつまでそこで寝ているんだ」
……返事はない。代わりに、すう、と寝息が聞こえた。この男は、寝ている時ばかりは静かだった。起きている時は暴れ、眠っている時は大人しい。まるで海そのものを体現しているかのような男だった。皮肉にも。
「……」
ゾルは、はあ、とため息をついて、額をおさえこんだ。諦めの境地。それから、ふとエルネの言葉を思い出した。「茶でも交えよう」。──「交えよう」、ではない。交えたくない。勘弁してほしかった。
ゾルは机の上の条約締結書を退けて、真っさらな紙を広げた。羽根ペンを手に取り、丁寧に、慎重に……それでいてどこか殴りつけるようにして、文字を書き連ね始めた。瞳が左から右へと忙しなく動き、暗藍と鉄紺の髪がさらさらと揺れる。
──選択をしろ。”正しい”選択を。国のために。自分のために。そして──
──まずはオランダ。牽制。ゾルが目をつけたのは、オランダの海運事情だった。自国と同様に海運国であり、そしてあの国は中継貿易に依存している。
ならば、イギリスで法を施行させる。──輸入品は自国船か、原産国の船で運ばせる。物の流れをイギリス中心に組み替えることで自国の利益を伸ばしつつ、オランダの中継貿易に打撃を与え、オランダの”国”としての進展を止める算段だった。……加えて、意識を逸らさせる。
「……本当に静かだな」
紙に草案の文章を並べながら窓の方を一瞥し、誰に聞かせるでもなく呟いた。この男は、まだ目覚めそうになかった。普段の言動からは想像もつかないような静けさ。ゾルはそれを噛み締めるようにそっと目を伏せて、すぐに紙に視線を落とした。
問題ない。今までしてきたように、ただ選んでいくだけ。
──絶対に、間違えるな。
◆ ◆ ◆




