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聖寓意譚  作者:
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8/11

創世I-⑧

◆ ◆ ◆


「──敵は今、倒された! この手によって!」


 壁に、天井に、数え切れないほどの蝋燭の光が静かに揺れる黄金の巣窟のような劇場の空気を這うようにして、一人の男の声が高らかに響き渡った。パリの豪勢な劇場。見渡せば見渡すほど、人。あっちにも、こっちにも。人が密集している。一階から、さらには五階まで。立見席からは身を乗り出すようにして、溢れんばかりの人の顔が舞台の方を向いていた。


 舞台の上の男──アリスは、今日も今日とて絶好調だった。特に戦いの後のアリスを止められる者は誰一人としていなかった。演者としての風格は、まあそれなりにある。それなりになかったらこれほどの数の観客は来ない。


「私の祈りが、勇士が、世界の平和を導くだろう!」


 幕引き。アリスは黒い右手を高く掲げ、左手を胸に宛てがう。観客席からは収まりきれないほどの拍手が鳴った。その音と色に、アリスの口元は花が咲くように綻んでいた。仮面から覗く瞳には、恍惚の表情が浮かぶ。……その時だった。


 地上階席に座っていた一人の男が、前の座席の背を蹴り上げた。どん、と鈍い音。拍手が止み、劇場の温度がすっと下がった気がした。意図は分からなかった。分からなかったが、「不満」の色は窺えた。そして、アリスはそれを逃さなかった。


「……」


 アリスの顔から、一瞬だけ笑みが消えた。だが、それは本当に一瞬だった。瞬きした頃には笑みを浮かばせていた。掲げた右手をそっと下ろし、つかつかと舞台を下りる。そのまま、観客席……椅子を蹴り上げた男の方へ歩み寄った。ゆったりと、堂々と。王が花道を歩くように。


「……なんということだ! まだ”敵”がいたなんて」


 アリスは男の目の前で立ち止まると、軽く身を屈めた。左手を腰につき、男の足元から頭のてっぺんまで、品定めをするように視線を這わせる。舞台袖から、何人かの劇団員が状況を把握するようにちらりと顔を出していた。……だが、誰も止めに入らなかった。


 男は苛立っているのか、組んだ足を忙しなく揺らしていた。アリスの姿を目の前にして、余計に「不満」の色を滲ませたような気がした。──気に入らなかったのか、自分の”演技”が。


 アリスは男の方に体を傾いで、男の耳に静かに口を寄せた。男の髪と仮面の端が僅かに掠った。


「……ああ、そう」


 男にだけ聞こえる声量で、囁くように。崩れそうなほど柔いが、裁判官が判決を下す時のような声色だった。それから、男の胸ぐらを掴み上げ、席から立たせるようにすっと身を起こした。そのまま、溢れんばかりの観客を見渡しながら声を上げた。


「……”敵”には、罪を償ってもらわなければ! 人も、そして神も、そう願っていることであろう」


「……っ、何すんだ──」


 男の言葉を遮るように、どん、と腹に響くような音が劇場を震わせた。男の腸骨あたりに蹴りを入れたのだ。一撃。アリスの脚力を前にしては一撃で十分だった。


 男は顔を歪ませて、蹴られた場所をおさえた。アリスは何の躊躇いもなく男を床に放って微笑んだ。にこやかに、そして晴々しく。それから、すう、と息を吸って、両手を掲げた。


「罪は償われた! ──世界には、真の平和が訪れよう!」


 高らかに言い放った。一拍の静寂。それから、ぱら、ぱらと疎らに拍手が鳴り始め、劇場全体を包み込むように、次第に大きくなっていった。その音には、歓喜と、困惑と──そして崇拝のようなものが混じっていた。アリスはその音の一つ一つを愛おしむように目を伏せる。口元に、名前の付けられないような笑みが零れた。


 頭上では大きなシャンデリアが煌めき、蝋燭の光が降り注ぐようにしてアリスの髪に落ちていた。


 ──今日もまた、完璧だ。


◆ ◆ ◆

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