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聖寓意譚  作者:
創世I
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7/12

創世I-⑦

◆ ◆ ◆


「……ねえ」


 イヴァが囁くように口を開いた。この男の「ねえ」が含む意味には数種類ある。今回の「ねえ」はおそらく純粋な問いかけだった。イヴァは葡萄酒の注がれたグラスをゆらゆらと小さく揺らしながら、その波面を観察するように眺めていた。それから、向かい合うようにして座るヴィヌに視線をやった。ふわり、と微笑む。白髪がさらりと靡く。


「この前の禍も、大変だったね」


 「大変」、で済ませるあたり大概この男だった。大変どころの話ではないのだが、それをあまりにも軽い口調で言い放つ。グラスの中で揺れる葡萄酒が、ちゃぷ、と音を立てた。


「……そうだな。相変わらず被害はあったが、死者が出なかったのはよかった」


 ヴィヌはふ、と小さく息をついて、グラスを口に運んだ。その様子を眺めながら、イヴァは満たされたように目を細めた。それから自分もグラスに口をつけようとして……やめた。代わりに、ヴィヌに柔らかな声色で問いかけた。


「今回はいつまでパリにいるの?」


「ああ、禍は無事討伐できたからな……そろそろドレスデンに戻ろうと思う。……その前に、せっかくだからローマにも寄るつもりだ」


「……ふうん」


 一言。たった一言にあちこちの感情が入ったのだが、それは微笑みで綺麗に隠された。イヴァは足を組み直し、右手に持つグラスを今度こそ口元に持っていった。左手の人差し指が、右肘をとん、と軽く叩く。視線を少しの間窓の外にやって、ヴィヌの方に戻した。それから、にこり。


「ローマ、ね。相変わらず仲がいいんだね。ふふ、妬けちゃうなあ」


 イヴァは軽口を叩くように言った。その言葉の裏は、読まれても読まれなくてもどちらでも構わなかった。「ローマに寄る」の意味を、この男は正確に理解していた。もう、何度も。……別に引き留めない。引き留めることに意味はない、ということまで頭で理解していた。


 素朴な飲み屋の小さな窓の外から、月明かりが漏れている。その光に弱々しく照らされたヴィヌの顔を逃さまいと、イヴァは瞳を細めるようにして見つめた。


「……いや。……まあ」


 ヴィヌはグラスを右手に持ちながら、どこか居心地の悪そうにふっと目線を逸らした。僅かに目を伏せる。イヴァはその表情を見て、静かにグラスを置いた。右手で頬杖をつく。左手の人差し指が、今度はテーブルをとん、と叩いた。


「……お兄さんは、どう? 元気?」


 イヴァはそれとなく聞いた。「元気か」どうか。その問い方の意味を理解しているのは、自分だけでよかった。──自分だけで。


「うむ。パリに来る前に一度兄様に会ったのだが、特に変わりはなさそうだった」


「変わりない、ね」


 ヴィヌはこくり、と頷きながらイヴァの方に顔を向けた。その顔は、分かりやすく素直で、それでいて酷く複雑そうだった。


 イヴァはその言葉を舌で転がすように反芻させた。「変わりない」。つまり、今まで通り。言葉を引き出したのは紛れもなく自分だったが、心の片隅から、聞かなければよかったかもな、と聞こえたような気がした。


「イヴァの方はどうなのだ? お兄様は変わりないか?」


 ヴィヌはグラスをことん、と置き、小首を傾げながら、イヴァに問い返した。その瞳は真っ直ぐにイヴァを見ている。イヴァはふっと微笑んだ。──ああ、やっぱり違うな、と思った。


「うん。この前はね、一緒に紅茶を飲んだよ。……久々に僕が淹れたのだけど、兄上に散々指摘されちゃって。お湯の量が、注ぐ角度が、って」


 イヴァは左手を口元にあてがって、くす、と笑いながら言った。それ以上は話を広げようとしなかった。ヴィヌは安心したように小さく息を吐き、こくり、と頷いた。その表情と頷きだけで、十分だった。イヴァの中で安らぎと──少しの、罪悪感に似た”何か”が込み上げた。


「……そういえば、パリの貴族たちがね、最近特に……張り詰めているみたい。なんて言ってたかな、税がどうとか、王権がどうとか……まあ、僕にはよく分からないけれど」


 そう言って、イヴァは葡萄酒を一口飲んだ。一応、伯爵という身分ではあるので、その類の話は耳に届く。ただ、自分で言っておきながらも全く興味がない話だった。話を逸らしたのだ。逸らせれば何でもよかった。


「そうなのか……パリも大変だな」


 ヴィヌは心配そうにイヴァの顔を見た。この男は、いつだってそうだ。真っ直ぐに他人の言葉を受け止める。それをイヴァは理解していた。理解しすぎていた。イヴァにとっては、ヴィヌのその誠実さが心地良くて──そして、時に残酷だった。


 イヴァは何も言わず、ヴィヌの方を見ながら少し首を傾けて目元を緩めた。グラスの中の葡萄酒を一回、軽く回す。音はなかった。


 それから、思い出したように。──いや、覚えていたのだ。この男は。


「……この間言えなかったことだけど。もし、世界が元に戻ったら──」


 イヴァは一瞬、言葉を止めた。言葉を止めて、ヴィヌの瞳を覗くように見た。その瞳の奥を。


「──戻っても、一緒にいてくれる?」


 一拍。ヴィヌは一拍分の時間だけ、きょとん、とした。それから、心底不思議そうな顔をして、イヴァを見つめた。一切淀みのない瞳。


 イヴァには答えがわかっていた。でも、欲しかった。


「……? ああ、もちろん」


 イヴァはその言葉を包み込むようにして受け取った。ふふ、と息を漏らすように小さく笑って、そっと目を閉じた。イヴァにとって、その言葉は”全て”だった。満ち足りていた。──満ち足りていてほしかった。


 イヴァはグラスを右手に持ちながら、窓の外に目をやった。夜の空では、薄い雲が静かに月を隠そうとしている。それを見て、ふっと微笑んだ。その横顔に浮かんでいたのは、どうしようもない安堵と、それから──


◆ ◆ ◆

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