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聖寓意譚  作者:
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創世I-⑤

◆ ◆ ◆


 ──ヴェールとヴェールの間から、剣の切っ先がするりと抜けていく。怪物は重なるヴェールを掻い潜るようにしてそれを躱していた。しかし、何度躱されても、それを追いかけるようにミルミルは剣を振るう。


「ねえ、楽しい?」


「楽しくない」


 一言。一言で十分であった。何の躊躇いもなく。ミルミルはそういう性格をした女だった。怪物は、ミルミルの返事にどこか可笑しそうに小さく肩を震わせた。


 ミルミルは怪物の足か胴体を狙っていた。とにかく相手の動きに自由を与えないようにしてから、その目を狙うという方向に完全に切り替えていたのだ。斬り落とせはしていないものの、何度か怪物の体に剣が入っており、斬れた場所から黒い影が微かに溢れ出ていた。ミルミルはヴェールの間を無駄なく這っていく。怪物との距離が離れないように。


 怪物も軽やかにヴェールの間をくぐり抜けていたが、僅かにヴェールに足を取られた。瞬き一つ分の動きの乱れ。ミルミルはそれを逃さなかった。そして、怪物の脇腹に向けて剣を振るった。怪物はそれを避けきれなかった。それでも、口を開いた。


「君、今一人なのに頑張るね。何のため?」


 怪物のその言葉に、剣を振るう腕が一瞬固まった。固まったが、すぐに振りかざした。怪物の脇腹に切っ先がのめり込もうとして……怪物の左腕がそれを阻止した。胴体ではなく、左腕に剣身が沈んでいく。


「……答える必要ないでしょ」


 それはミルミルにとって正しい答えであった。「答える必要がない」。わざわざこの怪物に答える義理はない。それはミルミルの答えとして間違ってはいなかった。──だが、「何のため」という問いに、自分の中で何か躊躇いのようなものを感じたのを、ミルミルは気づかないふりをした。今は。


「そう? 残念」


 怪物は、自分が問いかけた時にミルミルの腕が一瞬止まったのを感じていた。そして、心地良さそうに口元を弛ませた。


 ミルミルは剣を握る手に力を込めた。剣身がじわりと深く沈みこんでいき、そのまま怪物の左腕が斬り落とされる。黒い断面から、影が波のように流れ出た。


「やられちゃったね。……じゃあ、僕もいい?」


 そう言うと、怪物はヴェールの間をくぐり抜け、一息でミルミルに詰め寄った。額と額が合わさりそうな距離感。


 ミルミルの息が詰まった。比喩ではなかった。躱そうとして──躱しきれなかった。ミルミルの視界が揺らぐ。怪物はミルミルの細い首に右手をかけて、そのまま地面に押し倒したのだ。


 ミルミルの手から一瞬だけ、剣が離れた。すぐに握り直したが、二人を囲んでいたヴェールは弾けるように消えた。


「……苦しい?」


「……っ」


 答えるための呼吸すら許されなかった。それでもミルミルは剣を握る手に力を込め、怪物の目を見据えた。その赤い瞳には、好奇と言えるのか分からないような何かと──どこか切実さを感じられた。


 ミルミルは力を振り絞るようにして剣を振るった。怪物の目をめがけて。しかし、呼吸を塞がれて、視界の中で相手の顔が揺れていた。剣の軌道がずれて、怪物の左肩に剣身が入る。


「君さ、答えてくれないよね。何で?」


 質問に質問を重ねる男だった。それでも答えは要らないと判断したのか、首にかけた手にじわりと力を込めた。……その時。


「──ディオニュソス!」


 酩酊の神の名を呼ぶ声と共に、怪物の背を目がけて一匹の豹が突っ込んできた。怪物はミルミルの傍から突き飛ばされるように地面に倒れ込んだが、すぐに体を起こした。豹は、ぱち、と弾けるようにして姿を消した。


 ミルミルは呼吸を解放されて、一度大きく深呼吸をした。今のは──ヴィヌの持つ”神剣”の力の一つだ。豹が走ってきた方向に目をやると、ヴィヌが剣を構えて立っていた。その後ろから、相変わらずゆったり歩くようにしてイヴァが近づいてくる。


 それから、視界にひょこっとアリスの顔が現れた。アリスはミルミルの顔を覗き込むようにしてから、そっと右手を差し出した。


「大丈夫かい? すまないね、遅れてしまって」


「……大丈夫」


 ミルミルは左手でアリスの手を取り、立ち上がった。アリスはミルミルの髪についた砂をそっと払ってやった。そして、ミルミルの左手を少し掲げるようにして、言葉を続けた。


「君のおかげで助かったよ。よく頑張ってくれたね」


 アリスはミルミルに向けて、ふっと微笑んだ。アリスのその言葉と仕草に、ミルミルは思わず視線を逸らした。別に照れているわけではない。絶対に。ミルミルのその様子を見て、アリスはくすり、と笑った。


「お前、また女性に……! 恥を知れ!」


 一方で、ヴィヌは怪物に剣先を向けながら怒り散らかしていた。やはり、この男にとって女性に手を出すことは万死に値した。それから、ヴィヌはミルミルの方に目をやると、ふう、と小さく息をついた。無事を確認。


 イヴァはヴィヌの隣まで来ると、右手でゆっくり剣を構えた。剣先で怪物を射止めるように。そして、小首を傾げながら口を開いた。


「僕たちのこと閉じ込めてくれたね。面白かったけれど」


 イヴァはにこり、と微笑んだ。「面白かった」というのがおそらく嘘ではないことの方が厄介であった。


 怪物はゆらり、と体勢を整えて、イヴァとヴィヌ、そしてアリスの姿を見据えた。それから、口元を歪ませて。


「……出てこられたんだ。よかったね」


 そう言うと、怪物はアリスの方に一息で詰め寄った。アリスはそれに即座に反応し、傍にいたミルミルを庇うようにして立った。怪物はそんなアリスの顔を至近距離で覗き込みながら、まじまじと見定めるようにして続けて言った。


「で、君は助けたんだ? 二人まとめて」


「もちろん。助けない理由がないだろう?」


 間も置かずに。アリスの声色は堂々たるものだった。まるで当たり前のことだ、とでも言うような声。その言葉に、怪物は──一瞬顔を曇らせた。だが、すぐにその顔を笑みにすり替えた。


「……そう」


 怪物が返事をしたのとほぼ同時に、アリスは怪物の目を狙って剣を振るった。怪物は舞うようにひらり、と躱した。その後ろからヴィヌが駆け寄り、同じく目をめがけて剣を振るう。怪物はその足音に振り返った。ヴィヌの剣の剣先が怪物の眉間を突いた。突かれた部分から、黒い影が溶け出ていく。


 ヴィヌはそのまま赤い瞳に向かって、迷いなく剣を振るう腕に力を込めた。じわじわと瞳に向かって剣が沈んでいく。怪物は、力任せに頭ごと剣の軌道を変えた。怪物の牛頭の部分が斬り削がれていく。それから、思いっきりヴィヌの脇腹のあたりを右足で蹴った。


「──っ!」


 ヴィヌの体が地面に突き飛ばされる。イヴァはそれを見て、すぐに体が動いた。ヴィヌに駆け寄ると、上半身をそっと抱き起こすようにして支えた。


「大丈夫? 動ける?」


「った……、すまない、大丈夫だ」


 ヴィヌは顔を顰めながら立ち上がった。蹴られた部分を軽く一撫でしてから、剣を構え直す。イヴァはその姿に安心したような、安心しきれないような、複雑な感情が湧いた気がしたが、静かに飲み込んだ。


「……足の扱いがなっていないね!」


 今度はアリスだった。アリスは後ろから怪物の腰あたりを蹴り上げた。足の扱いがなっていないのは自分も同じようなことではあったが、この際棚に上げた。


 怪物は空に高く舞うように蹴り上げられた。アリスはまるで空気を踏み台にするかのように宙を駆け上がると、今度は怪物の腹のあたりを蹴り倒した。怪物は勢いよく地面に叩きつけられる。


 それを見て、ミルミルが動いた。叩きつけられた怪物の目に狙いをすませて、剣を振りかざす。それを捉えた怪物は右足で剣の腹を蹴った。ミルミルは剣を手放しこそしなかったが、そのまま剣と一緒に体が弾かれる。


「……っ、危ない」


 アリスは風を切るようにしてミルミルの方に駆け抜けると、ミルミルの体を優しく抱き留めた。


「……助かった」


 ミルミルはアリスの顔こそ見なかったが、絞り出すようにして言った。消え入りそうな声量だった。だが、アリスはしっかりと聞いていた。くす、とミルミルに微笑む。


 一方で、怪物はくつくつと笑っていた。ゆらり、と立ち上がって、口を開く。


「それで……」


 怪物はヴィヌの方を見て、それからその傍にいるイヴァの方を見た。すっと赤い瞳を細める。そして、イヴァの方に一息で詰め寄った。今までの攻撃を受けても尚素早い動き。イヴァはすぐに剣を構えた。


「君も僕の質問に答えてくれなかったよね。……ねえ、二人で迷宮にいた時どうだった? どう思った?」


「……ふふ、君もね。何を考えて僕たちを閉じ込めたの?」


 質問に質問で返す男はここにもいた。イヴァは怪物に向かって華麗に剣を振りかざし、それを怪物もまた華麗に躱していく。他の三人との距離が自然と空いていった。二人だけの空間に誘い込むように。どちらかがそういう風に動いていたのかもしれなかった。あるいはどちらも。


「何を、か。見たかったからだよ、君たち二人がどうなるのか」


 怪物はイヴァの顔を覗き込むようにして言った。真っ直ぐにイヴァの目を見据える。イヴァの剣の剣先が、怪物の左頬のあたりにすっと入った。怪物はそのまま、言葉を続けた。


「……でも、分からなかったね。君たちは助けられちゃったんだから」


 怪物は右手の甲で、剣の腹をぐっと押さえた。イヴァもそれに応えるように、剣を握る手に力を込めた。イヴァは怪物の赤い目を射抜くようにして、口を開いた。


「……君は、何を求めているの?」


 イヴァのその言葉に、怪物は目を細めた。どこか面白がるように。剣の腹は押さえたまま。


「君もよく質問してくるね。……『二人』を知りたいんだよ。『二人』の世界を。その成れの果てを」


 怪物はイヴァの目を真っ直ぐ見つめて言った。相変わらず「二人」の部分に力が込もった。それが意識していることか無意識にそうなっているのか、その境界はもはや曖昧であった。


 イヴァもまた怪物の目を見据えたまま、腕と手の力だけは緩めなかった。むしろ少しだけ力が強まったかもしれなかった。ただ、その言葉を声に出さず繰り返した。「成れの果て」。それが何を意味するのか。──分かるわけがなかった。


「ねえ、自分が大切に想う人と二人で閉じこもったらどうなる? 誰にも邪魔されないで」


 怪物はより深く、そして静かに目を伏せながら言葉を続けた。その声にはどこか縋るようなものがあった。……少なくとも、イヴァにはそう感じた。


「この世界は醜い。だから綺麗な檻に閉じこもる。大切な人と二人。誰にも、何にも触れさせない。何もおかしくない」


 そう言った怪物の目は、少しだけ揺れていた。剣を押さえる手が微かに震えた気がした。


 ──「おかしくない」。イヴァはその言葉を噛み締めるように飲み込んだ。「この世界は醜い」、と。だから閉じこもるんだ、と。そして、それは真っ当なことだ、と。


 ──「綺麗」な檻。その通りかもしれないと思った。ただし、「綺麗」だと思ったのはその歪んだ形をした檻のことだけではなかった。


「……君はそう思うんだね」


 イヴァは囁くように言った。澄んだ声だった。怪物の方を見ながら、イヴァはそっと目を閉じた。


 そんなイヴァを見て、怪物は少し驚いたような顔をした。──否定されなかった。けれど肯定もされなかった。怪物の動きが一瞬乱れた。たった一瞬。すぐに持ち直す。


「うん、そうだよ。だって──」


 一拍。怪物は、イヴァから顔を少し離した。その間を惜しむように。それでも視線は離さなかった。


「──死んでも二人でいることが幸せでしょ? ずっとずっと、永遠に二人きりでいることが──」


 その言葉が落ちてきた時、イヴァの目が僅かに見開かれた。本当に僅かに。一瞬だけ。


 「死んでも二人」。「永遠に二人きり」。その言葉を、イヴァは心の中で反芻させた。そして、それが「幸せ」だと。この怪物はそう言いきった。──そう思えること自体が「幸せ」だ、と思った。


「……もういいよ」


 イヴァが口を開いた。一言。静かな声だった。どこか凪いだような、静かな声。それから、剣をそっと下ろして。


「僕は、君のことを必ずしも正しいとは思わない。──でも、間違ってもいないよ」


 優しく、諭すように。その声には、同情の色も、拒絶の色もなかった。ただ、怪物の瞳の奥を覗くように、見つめながら言った。その青い瞳に、長い睫毛の影が落ちている。


 ──怪物の動きが止まった。


 「正しくもない、でも間違ってもいない」。自分の全てを否定して、同時に肯定もする言葉だった。怪物にとって、その言葉は救いだった。救いであり、呪いの形もしていた。そして、それが呪いであることを、心のどこかで求めていたのかもしれなかった。──いや、そうだったのだ。最初から。


「……君──」


 ──怪物の言葉は、続かなかった。何かを言おうとして飲み込んだ、そんな感じ。今ここで言わなければいけなかったかもしれないし、言う必要がなかったかもしれない。


 イヴァはゆっくりと口を開いた。それから、小さく息を吸って。


「──アポロン」


 太陽神の名を呼んだ。──何かに祈るように。


 その瞬間、辺りが真っ白になった。白くなったのではない。光だ。満ち溢れた光。その眩しさに、目を背けてしまいそうになるほどの。イヴァの持つ”神剣”の力の一つ。


 その光に、怪物の瞳が眩んだ。それをイヴァは見逃さなかった。右手に握る剣を振りかざし、一息で怪物の赤い瞳を正確に突く。


 ──黒い影は、音もなく、ただ静かに散っていった。


◆ ◆ ◆

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