第88話 残らない写し
束は、厚くなった。
枚数は、先月と変わらない。
厚いのは、中身だった。
月末、監督官が集会所で綴じている。
順に並べる。
日付を確かめる。
紐を通す。
途中で、手が止まった。
薬師の帳面に、所見が戻っていた。
短い。
三行あるかどうかだ。
熱の下がり方が、いつもと違う。
薬を減らすか、迷った。
減らさなかった。
署名は、ある。
薬師の名前が書いてあった。
男は、それをしばらく見ていた。
見てから、次の紙をめくった。
特別なことは、何も書いていない。
欄も、増えていない。
増えたのは、一行だけだ。
紙を綴じ終えて、男は箱に入れた。
入れて、蓋をした。
昼過ぎ、診療所へ寄った。
用件は、無い。
束を持ってきたわけでもない。
「今月は、置きに来ていません」
「そうか」
「はい」
男は、椅子に座った。
座り方が、少しだけ変わった。
この半年で、いちばん力が抜けていた。
「薬師の方が、書いておられました」
「聞いた」
「もう、ご存じですか」
「この町は、噂が早い」
男は、頷いた。
「一人ではなくなりました」
「よかったな」
「はい」
男は、そう答えた。
それきり、しばらく黙っていた。
「あの家の方は」
「帰った」
「終わりましたか」
アークは、答えた。
「終わっていない」
男は、少し考えてから頷いた。
「そうですか」
それ以上は、訊かなかった。
訊かないことを、この男は覚えた。
夕方、リーナが来た。
隣の町からの帰りだ。
荷は、小さい。
三日に一度、この大きさで往復している。
「あっちの貼り紙、まだあるわよ」
「剥がさないのか」
「剥がさないわ」
リーナは、椅子に座った。
「誰が貼ったかも分からないもの」
「剥がしたら、また貼るでしょう」
「そうだな」
「その代わり」
リーナは、鞄から一枚出した。
向こうの町の、写しだ。
経過の欄に、字が詰まっている。
終わりの方に、一行ある。
迷ったので、書いておく。
署名は、ある。
リーナの名前だった。
「一人で書いてるのか」
「今のところね」
リーナは、そう言った。
「向こうの子が、この前訊いてきたわ」
「何をだ」
「それ、書いて損しませんか、って」
「何と答えた」
「損するわよ、って」
リーナは、水を飲んだ。
「そう言ったら、
その子、次の日から書いてる」
「なぜだ」
「知らないわよ」
リーナは、笑った。
「損すると分かってて書く人がいるのを、
見たことがなかったんじゃない」
アークは、答えなかった。
答える言葉が、無かった。
リーナは、しばらく座っていた。
窓の外を見ていた。
「私、まだ決めてないから」
「向こうに移るかどうかは」
「聞いていない」
「聞きなさいよ」
立ち上がって、荷を持った。
机の上の帳簿を、少しだけ揃えた。
昔からの癖だ。
「また来るわ」
「ああ」
扉が閉まる。
強くは、閉まらなかった。
同じ日の、暗くなる前。
畑の道を、人が通った。
鍬を担いでいる。
診療所の前で、足を止めた。
入っては、来なかった。
前と、同じだ。
だが、今日は口を開いた。
「あの綴り」
「詰所のか」
「はい」
「残っている」
男は、頷いた。
「王都から、また来ますか」
「来るだろう」
「……そうですか」
男は、鍬を持ち直した。
持ち直して、こう言った。
「読まれるのは、嫌です」
「だろうな」
「ですが」
男は、少しだけ間を置いた。
「読まれて困るようなことは、
書いていません」
アークは、頷いた。
男は、それきり何も言わなかった。
畑の方へ、行ってしまった。
戻ってくるのかどうかは、分からない。
聞かなかった。
聞くのは、自分の役割ではない。
夜。
アークは、机の前に座った。
板が、置いてある。
紙を挟んでいた板だ。
中身は、無い。
渡したからだ。
何を書いたかは、覚えている。
いまは、覚えている。
一年経てば、少し薄れるだろう。
言い回しを、思い出せなくなる。
三年も経てば、
自分が何と書いたのか、
確かめる方法が無くなる。
写しは、取らなかった。
取らなかったのは、意地ではない。
手元に残る形にすると、
いつか読み返すからだ。
読み返せば、直したくなる。
直したものは、
あの夜に書いたものではなくなる。
筆を取った。
今日の患者は、四人。
一人だけ、迷った。
書いた。
署名は、しなかった。
この帳簿は、どこにも登録されていない。
誰も、照会しに来ない。
来ないから、書ける。
来るようになったら、
自分もどうなるかは分からない。
そのときに、考える。
灯りを落とす前に、窓の外を見た。
遠くの町でも、王都でも、
紙は今日も配られている。
書く者がいて、
書かない者がいる。
書いた者は読まれ、
書かなかった者は、
読まれずに済む。
その不公平は、直らなかった。
欄が一つ増えただけだ。
無いことを確かめた者がいる、と
書けるようになっただけだ。
それでも、
あの家には、一枚残った。
どこにも綴じられず、
誰にも数えられない一枚が。
数えられないものは、
いつか忘れられる。
忘れられて、また誰かが訊きに来る。
訊きに来た人に、
何も渡せない誰かが、また出る。
そのとき。
誰かが、机の前に座る。
書けない理由を、三日抱えて、
それでも一枚だけ紙を出す。
それをやるのは、
俺ではない。
アークは、灯りを落とした。
暗い中で、もう一度だけ思った。
記録は、答えを残す仕組みじゃない。
問いを、次の人に渡す仕組みだ。
渡した先で、
それがどう読まれるかは、
渡した側には分からない。
分からないまま、
書き続けるしかない。
それでいい。
外は、静かだった。
第三部『遡れる帳簿』、これで一区切りとなります。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。
第二部で残ったのは、
迷いを書き留めるという、それだけの習慣でした。
その習慣が根づいたころ、
書いたものが、遡って読まれるようになりました。
正直に書いた人ほど、証拠が残っていました。
書かなかったことは、
無かったことになりました。
誰も、悪くありませんでした。
訊きたかった人がいて、
答えたかった人がいただけです。
――そこから先は、また、いつか。




