第87話 終わらないもの
卓は、昨日と同じだった。
宿の一階。
窓が、一つ。
外套の男は、また席を外した。
アークは、板から紙を出した。
出して、卓に置いた。
滑らせはしなかった。
置いて、手を離した。
「読んでくれ」
女は、紙を取った。
両手で、取った。
読み始めた。
途中で、一度も顔を上げなかった。
読むのに、時間がかかった。
長い文ではない。
それでも、時間がかかった。
読み終えて、女は紙を卓に戻した。
戻して、両手を膝に置いた。
しばらく、何も言わなかった。
「……確かめていない、と」
「書いた」
「なぜ、確かめないのですか」
「確かめれば、
どちらかに落ち着く」
アークは、そう答えた。
「助かったと分かれば、
俺は自分を責める」
「助からなかったと分かれば、
俺は自分を許す」
「どちらも、あんたには関係がない」
女は、目を伏せた。
伏せて、また上げた。
「ひどい言い方をなさいます」
「そうだな」
「否定なさらないのですね」
「しない」
沈黙。
女は、もう一度紙を見た。
最後の一行を、見ていた。
扉の前に、しばらく立っていた、
という一行だ。
「これは」
「事実ですか」
「事実だ」
「証明できますか」
「できない」
アークは、そう答えた。
「その時間は、誰も見ていない」
「俺以外に、誰もいない」
「では、信じるしかありませんね」
「そうだ」
女は、しばらく黙っていた。
「信じます」
女は、そう言った。
「嘘であれば、
もっと長く書いたはずですので」
アークは、答えなかった。
女は、紙を持ち上げた。
持ち上げて、そのまま持っていた。
「一つ、伺っても」
「ああ」
「これで、終わりですか」
沈黙。
アークは、答えた。
「終わらない」
女は、頷いた。
その頷き方には、
安心も、失望も無かった。
「……そうですね」
「済んだことにしてほしいなら、
その紙は渡さない」
「済んだことには、なりません」
女は、そう言った。
「弟は、戻りません」
「あなたを恨むかどうかも、
まだ決めておりません」
「決めなくていい」
「決めないままで、
持って帰ってもよろしいですか」
「あんたの紙だ」
女は、初めて、少しだけ表情を動かした。
笑ったのでは、なかった。
力が抜けただけだった。
紙を、鞄に入れた。
入れてから、頭を下げた。
「四年、探しておりました」
「一枚だけ、見つかりました」
立ち上がった。
扉のところで、一度止まった。
「あの」
「なんだ」
「写しは、お取りになりましたか」
「取っていない」
「なぜです」
アークは、答えた。
「渡したものだ」
女は、それ以上何も言わなかった。
出て行った。
馬車は、その日のうちに町を出た。
同じ月。
王都。
私の机に、地方からの回答の控えが上がってきた。
該当記録なし、と書いてある。
その下に、一行あった。
ただし調査を実施した。
範囲と実施者が、並べて書いてある。
署名も、ある。
几帳面な字だった。
私は、その紙をしばらく見ていた。
様式を一行増やしたのは、この件だ。
増やしたのは、私ではない。
訊いた者がいて、
答えられない者がいて、
それが上がってきただけだ。
仕組みは、そうやって伸びる。
だが、この件の中身は、
どの記録にも載っていない。
誰かがどこかで何かを渡したらしい。
らしい、としか書かれていない。
書かれていないものを、私は追えない。
追う権限も、理由も無い。
私は、控えを束に戻した。
戻して、灯りを消した。
守るための仕組みは、
守れないものの形を、
いつも後から知る。
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