第86話 二度目の署名
墨は、擦り直さなかった。
三日、擦り続けたものが残っている。
紙は、一枚だけ出した。
書き損じても、一枚にする。
二枚目を出せば、
推敲することになる。
推敲したものは、
書いたものではなくなる。
アークは、筆を持った。
持って、日付から書いた。
覚えている日付だった。
その次に、事実を書いた。
要請があったこと。
扉を、開けなかったこと。
書いて、手を止めた。
止めたが、置かなかった。
ここから先が、三日止まっていた場所だ。
理由を書けば、正当化になる。
誤りだったと書けば、嘘になる。
どちらも、渡してはいけない。
渡していいのは、
あの夜、自分の中にあったものだけだ。
アークは、そのまま書いた。
当時どう考えたか。
考えた、というだけのことを、
考えた、と書いた。
正しかったとは、書かなかった。
間違っていたとも、書かなかった。
確かめていないからだ。
確かめていない、と書いた。
最後に、一行だけ足した。
書くかどうかは、迷った。
迷ったが、書いた。
迷いは、事実だからだ。
書き終えて、筆を置いた。
置いてから、名前を見た。
まだ、書いていない。
署名は、いらない。
この紙は、記録ではない。
どこにも綴じられず、
誰にも数えられない。
署名しなくても、渡せる。
署名しなければ、
この紙は、誰のものでもなくなる。
誰のものでもない紙は、
受け取った側が、
誰を思えばいいのか分からない。
アークは、筆を取り直した。
三年、書いていない名だった。
名簿から消え、
通達から消え、
議事録から消えた名だ。
消えたままでよかった。
消えたままでいたかった。
書いた。
日付の下に、こうある。
王都医療局より、三度目の要請があった。
症例は、魔力の暴走。
私は、扉を開けなかった。
当時、こう考えた。
この一件を「お前なら」という言い方で受ければ、
次の患者も、同じ言い方で扱われる。
断ることでしか、それを止められないと考えた。
その判断が正しかったかどうかは、書かない。
行っていれば助かったかどうかを、
私は確かめていない。
扉の前に、しばらく立っていた。
どれくらいかは、覚えていない。
担当:アーク・シグナス
署名は、ある。
二度目だった。
一度目は、王都の記録室だった。
あのとき、署名した紙は制度に残り、
その紙が自分を裁いた。
今度の紙は、どこにも残らない。
残らないものに、名前を書いた。
夜。
アークは、紙を折らなかった。
折ると、折り目のところが読めなくなる。
板に挟んで、机に置いた。
置いてから、しばらく見ていた。
これは、責任を取ったことにならない。
誰も、これで救われない。
弟は戻らないし、
四年も戻らない。
書いたことで、こちらが楽になった。
それは、認めなければならない。
書くというのは、そういうところがある。
それでも、渡す。
渡さなければ、
あの夜は、無かったことのままだ。
無かったことにされた夜を、
一つでも減らす。
できるのは、それだけだった。
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