第85話 記録がありません
宿は、集会所の隣だった。
部屋は、二つしかない。
一階の卓で、女は本を読んでいた。
アークが入ると、本を閉じた。
「お待ちしておりました」
「待たれる覚えはない」
「いえ」
女は、そう言った。
「いつか、いらっしゃると思っておりました」
外套の男が、席を外した。
卓に、二人だけになった。
「訊きに来た」
アークは、そう言った。
女は、少し驚いた顔をした。
「私に、ですか」
「そうだ」
「あの夜、何があったのかを、
俺は知らない」
女は、姿勢を正した。
「ご存じないのですか」
「一言、聞いただけだ」
「結果は芳しくない、と」
「それきり、確かめていない」
沈黙。
女は、一度だけ息を吐いた。
「では、申し上げます」
女は、話し始めた。
順序よく、話した。
弟は、二十歳だった。
夜、屋敷で倒れた。
運ばれたのは、医療局だった。
家の者は、廊下で待った。
白い廊下に、椅子は無かった。
立って、待った。
「途中で」
女は、言った。
「誰も来ない時間が、ございました」
「どれくらいだ」
「分かりません」
「長かった、としか」
アークは、動かなかった。
その時間のことを、知っている。
「明け方に、
白衣の方が出ていらっしゃいました」
「手は尽くしました、と」
「それだけです」
「尽くした手が何かは」
「伺えませんでした」
女は、手を組み直した。
「弟は、最後まで痛がりませんでした」
「それだけが、救いです」
アークは、聞いていた。
最後まで、口を挟まなかった。
女は、そこで一度、言葉を切った。
切ってから、こう言った。
「一つだけ、知りたいことがございます」
「ああ」
「あの夜」
「弟のことを考えた時間が、
どこかにあったのでしょうか」
沈黙。
「誰かが、
この子をどうするか、
迷った時間があったのかどうか」
「それが、知りたいのです」
「助からなかったことは、
もう、受け入れております」
「ですが」
女は、こちらを見た。
「誰にも、
一度も考えられずに死んだのだとしたら」
「それは、耐えられません」
アークは、答えなかった。
答えは、持っていた。
持っていたが、
この場で口にすると、
それは慰めになる。
慰めは、渡すものではない。
「二日、待ってくれ」
アークは、そう言った。
「はい」
女は、頷いた。
理由は、訊かなかった。
同じ日の午後。
集会所に、王都からの便りが届いた。
監督官が、それを開けた。
照会への、照会の返事だった。
回答様式について
記録が存在しない場合の回答は、
これまで想定していなかった。
以後、様式に一行を加える。
「該当記録なし。ただし調査を実施した」
調査の範囲と実施者は、所見欄に記す。
無いことを確かめた者がいる場合、
そのことも記録である。
男は、それを二度読んだ。
読んで、しばらく持っていた。
それから、詰所へ行った。
新しい様式を、四枚無駄にした机だ。
その机で、一枚を書き上げた。
三つ目の欄に、こう書いた。
該当記録なし。ただし調査を実施した。
所見の欄に、調べた場所を並べた。
棚の下段。
古い綴り。
王都への問い合わせ。
最後に、署名した。
書き終えて、男は息を吐いた。
一行が、増えただけだった。
仕組みは、何も止まっていない。
照会は、来月も来る。
書いた者は、これからも読まれる。
直ったのは、無い、と言う方法だけだ。
それでも、男は紙を封に入れた。
入れて、蓋をした。
無かった、ではない。
無いことを、確かめた者がいる。
その差だけが、
あの家に残るものだった。
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