第81話 開けなかった扉
あの夜のことは、覚えている。
王都の居室は、狭かった。
寝台。
机。
棚が一つ。
窓は、北を向いていた。
三度目の呼び出しは、夜明け前だった。
扉が、強く叩かれた。
二度目までは、開けた。
地下の区画へ行き、
瘴気を吸った男を診た。
その次の夜だった。
「……アーク」
扉の向こうの声は、焦っていた。
「急患だ」
「今すぐ来てほしい」
「どんな症例だ」
「魔力暴走」
「若い貴族だ」
「回復魔法が逆効果になっている」
嫌な組み合わせだった。
「準備は」
一拍、間が空いた。
「……時間がない」
それが、答えだった。
医療局に、担当はいない。
呼べば来る人間が、一人いるだけだ。
「無理だ」
扉の向こうが、静まり返る。
「今の条件じゃ、診ない」
声が、強くなった。
「助かる可能性があるんだぞ」
「お前なら——」
その一言だった。
お前なら。
その言い方を、
あの頃、何度も聞いていた。
聞くたびに、断らずに行った。
行けば、助かる者がいたからだ。
行くたびに、
その言い方が強くなった。
「“お前なら”で命を扱うな」
アークは、そう言った。
「準備不足だ」
「設備も、人も足りない」
「この状態で手を出せば、
助かる確率を下げる」
沈黙。
「……見殺しにするのか」
「違う」
「見殺しにされる条件を、放置しない」
外で、誰かが舌打ちした。
「貴族だぞ」
「問題になる」
「だからこそだ」
アークは、扉を開けなかった。
「ここで俺が行けば」
「次も、同じことが起きる」
沈黙が、長く続いた。
やがて、足音が遠ざかった。
アークは、扉の前に立っていた。
どれくらい立っていたかは、
覚えていない。
開ければ、行けた。
三十分あれば、
流れを一本に戻せたかもしれない。
戻せなかったかもしれない。
どちらも、確かめていない。
昼過ぎ、バルドに呼ばれた。
結果は、芳しくない。
それが、最初の言葉だった。
正しい判断だ、とも言われた。
処分も、注意も、無かった。
当然だ。
要請は、記録に無い。
断ったことも、記録に無い。
あの夜、何も起きていない。
その日の夜から、
扱いづらい、という言葉が回り始めた。
それだけが、
あの夜の唯一の痕だった。
アークは、目を開けた。
地方の診療所の、机の前だった。
四年、経っている。
いま思い出しても、
あのとき断ったこと自体は、
撤回する気にならない。
あそこで開けていたら、
「お前なら」は決まりになった。
決まりになれば、
次の誰かが、同じ言い方で潰される。
現に、そのすぐあとで、
俺自身がそうなりかけた。
だから、線は引いた。
引いた線は、間違っていない。
間違っていないが、
線の向こうで、人が死んでいる。
その二つは、両方とも本当だ。
どちらかを消せば、楽になる。
消し方は、知っている。
あれは仕方がなかった、と言えばいい。
そう言った人間を、
この目で何人も見てきた。
言った人間は、
みんな、次も同じことをした。
アークは、灯りを落とさなかった。
落とすと、寝てしまう。
寝ると、明日になる。
明日、あの女が来る。
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